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暗い決意②

 揺れる馬車の中、最後とばかりにマリウスはエミーユを見つめた。 (エミーユを目に焼き付けておこう)  エミーユからは、確かに自分への情愛が読み取れる。けれども、エミーユはもうマリウスと関わりを持たないと決めているのは明らかだった。  エミーユを前にして、マリウスに湿った草原の匂いがよみがえってきた。草を鳴らす風の音。鳥のさえずりの騒々しい朝に、しんと静かな夜の気配。  名を呼べはいつもそばにきてくれたし、匂いをたどってそばに行くこともできた。  痛いときや苦しいときには頭や背中を撫でてくれた。  そんな日々が胸に迫りくる。 (あなたがいなくなれば草原はひどく寂しかった。あんな寂しいところに一人で住んでいたあなたには、今、家族がおり、みなと幸せに過ごしているんだ)  エミーユの家は温もりに満ちていた。そこかしこに子どもの描いた絵や作品が飾ってあり、小さな子と住まう家族のにぎやかさがあった。  もうエミーユは一人ではない。家族に支えられている。それを目の当たりにして、マリウスは幸せだった。 (あなたが幸せならば、俺はそれで嬉しいんだ。俺も満足だ)  エミーユもマリウスを見つめ返していたが、急にその表情がこわばった。  エミーユの目が揺らいだ。エミーユは顔を火照らせて、肩で息をしはじめた。 「レルシュ楽長?」  エミーユから漂う匂いが強まった。その匂いに、獣人を高ぶらせるフェロモンを嗅ぎ取った。マリウスの脈動がドクンと跳ねた。 「エ、エミ………?」  エミーユは慌てた顔で、マリウスの正面から斜め前へと、シートの腰を横にずらした。馬車の窓に背中を貼り付けるようにして、マリウスから距離を取った。 (間違いない、発情だ。エミーユに発情が起きている)  エミーユは戸惑っている。その顔つきから、その発情は予期しないもののようだった。  楽長としての仕事をこなしているのだから、周期を把握しているか、あるいは、抑制剤を飲んで抑えているはずだ。今は戦争も終わり流通も戻り、抑制剤はどこででも手に入る。  けれども発情が起きた。 (俺が発情を起こさせた……? ああ、そうだ………! そうに違いない)    獣人性が強いものの中には、惹かれる妖人に発情を起こさせる者もいる。マリウスはそのときになって自覚する。自分がエミーユを発情させているのだと。  小屋でのあの日も、マリウスがエミーユを発情させた。  小屋で別れを告げられて、そして、今、別れを突き付けられて、欲しい妖人を逃さないように発情を起こさせて手に入れようとしているのだ。獣人の卑劣な習性だ。 (俺は、あさましい人間だ……)  エミーユがいくら距離を取ろうとしたところで、狭い車内では限度がある。マリウスもまた熱が高まっていた。 「……うっ、くっ……」 「ふっ……はぁ……」  マリウスからフェロモンが沸き立つ。互いのフェロモンに感応し合い、激しい衝動が湧き起こる。  マリウスに狂おしい欲望が沸き起こっている。エミーユの体を引き寄せてその肌に触れてしまいたい。  マリウスの手や膝がぶるぶると震え始めた。強い欲望を抑え込む。  エミーユは自分を受け入れてはいない。 (俺は本当に卑劣だ……。発情をさせてしまうなんて……。一刻も早く、エミーユから離れなければ)    マリウスは衝動を抑え込んで、呼び鈴のついた紐を引いた。  車内からの知らせを受けて、馬車が止まった。  ドアが開いて、護衛隊長が顔を出す。 「陛下、何かあったのか」 「レルシュ楽長にヒートが起きたようだ。俺と離れなきゃならない。楽長を別の馬車に乗せてお送りして欲しい」 「楽長は妖人だったのか。ヒートとは大変だ、楽長、手を」  ふらふらと立ち上がったエミーユが護衛隊長の手を取ろうとしたとき、マリウスはひどい焦燥感に襲われた。  その護衛隊長は獣人ではないために発情の影響を受けることはない。それに気心の知れた真面目な男だ。楽長を預けても何かしでかすことはないはずだ。  けれども、その手がエミーユに触れられるかと思うと、不快でたまらなかった。 「待て!」  マリウスは護衛隊長に伸ばされたエミーユの手を掴んだ。  エミーユは引っ張られるがままにマリウスの胸になだれ込んできた。床に崩れそうになるエミーユを支えて胸に抱く。 (エミーユ、誰にも触れられたくない)  エミーユを腕に抱くともう離せなくなった。

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