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結婚の約束

 エミーユが自宅に帰るとリベルが走り出てきた。 「エミーユ、おかえりなしゃい」  最近ではまた少し成長して、拗ねて階段の後ろに隠れることも減ってきた。そのかわり、帰宅するたびに、それまでにあった出来事を話してくる。 「しぇしるのいえのこいぬ、かわいかったの」 「子犬、生まれたんだね」 「てのひらにのるくらい、ちいしゃいの」 「リベルの小さい手のひらに乗るの?」 「うん、ちいしゃくて、あったかくて、くうくう、ねてるの」  リベルは合わせた両手を頬に当てて首を傾けた。目を閉じて眠る真似をする。 「ふふ、可愛い」 「うん、こいぬ、とても、かわいいの」  エミーユはリベルに言ったつもりだったが、リベルは子犬のことを言ったと思ったようだった。  エミーユはリベルを抱き上げてほおずりした。  マリウスはエミーユからリベルを奪いはしない。それはマリウスを見ていればわかる。そんなひどいことをやらかすような人ではない。  だから、それを思えば、求婚を受け入れることに障害はない。けれども、マリウスが本当に皇帝をやめることができるのか、それがマリウスにとって良いことなのか、そして、人民にとっても良いことなのか、わからない。いろいろと考えてしまうと怖気づいて逃げたくなる。  それにもう一つ気がかりがあった。    リベルを寝かしつけたあと、エミーユは母親のヘレナに切り出した。 「リベルの父親と再会しました。そして、結婚を申し込まれてる」 「まあ……! まあ、なんてこと!」  喜びに目を見開くヘレナにエミーユは不安げな目を向けた。 「マリウスはグレンの獣人兵士だったんだ」  ヘレナの顔に怯えが浮かんだ。グレンで受けた行為を思い出せばそうなるのも無理はなかった。  ヘレナはグレンで受けたことを語っていないが、想像を絶する苦しみだったに違いない。  しかし、家族として一緒に住むのであれば、隠し続けるわけにはいかなかった。  エミーユは言い訳のように口にする。 「マリウスは1度も自分から怪我を移したことはないんだ。大怪我を負ったのに、怪我を移すのが嫌で軍から逃げた。そして、マリウスは、前皇帝を倒したんだ」  ヘレナはハッとした顔になった。 「マリウスさんはアウグスト帝なのね」 「うん」  ヘレナからこわばりが解けると、穏やかに笑ってきた。 「では、私にとっては恩人ね!」 「お母さん.......、じゃあ、大丈夫なの……?」 「もちろんです。獣人兵士でも陛下なら別です」 「もしもグレンに住むことになっても?」 「そのときは私は残るわ。あなたたちだけで水入らずで過ごしなさい」 「でも……」 「私だって、これから出会いがあるかもしれないわ」  ヘレナはウィンクしてきた。それでも、エミーユには煮え切らないところがあった。 「どうして迷っているの?」 「マリウスには幸せになってもらいたいと思ってる。それに、幸せにできるのは私しかいないとも思う」  あれだけエミーユに懐いてるマリウスだ。エミーユにしか幸せにできないだろう。 「何が問題なの?」 「帝国の人たちにとってそれがいいのか悪いのかわからない」 「ふふっ、ふふふっ」 「何が可笑しいの?」 「自分が幸せではない人に、誰かを幸せにはできないのよ。だから、あなたは自分とマリウスさんを優先すればいいの」 「でも……」 「それにね、一番優先するのはリベルでしょう?」    心の底では、とっくに答えが出ている。  何より、リベルが「おとうしゃん」と言ってより、遅すぎるほどだ。  このまま二人を会わせないでいるのは、どちらからも奪うことだった。リベルからマリウスを、マリウスからリベルを。  エミーユは心を決めないわけにはいかなかった。 *** 「マリウス、次にエルラントに来るのはいつですか?」  楽長室のテーブルで、マリウスはほお張っていた干しイチジクを喉に詰まらせかけた。  そんなことをエミーユが訊いてくるのは珍しかった。次を約束するような素振りを見せることは。 「次? 次に何かあるってこと?」 「次は私の自宅に来てください」 「い、家? ほ、ほんと? 行ってもいいの? じゃあ、次に来られるのは、に、二週間後だけど、そのとき! いや、がんばって仕事を済ませて十日後には来る!」 「では、家に直接来てください。母と息子と待っています」 「エ、エミーユ……!」  マリウスは早速目に大粒の涙を浮かべ始めている。  エミーユは覚悟を決めた目で言った。 「マリウス、私と結婚してください」 「エミーユ……!」  マリウスは椅子から飛び上がると、よろよろとエミーユの元まで来て、エミーユを抱きしめた。 「エミーユが俺にプロポーズしてくれた………!」  マリウスは嗚咽を上げ始めていた。 (ふふ、マリウス……、やっぱり泣き虫だな……、可愛い人……)  初めて約束を交わし合って会うことになった日、しかし、マリウスがエミーユの自宅に足を踏み入れることはできなかった。

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