17 / 17
第17話 癒やしを求めて
レインの自宅での実験は、ルカの生活ルーティーンに組み込まれていた。
まず、起床後すぐ軽くジョギングに出かけ、朝食と身支度。教会に向かい、ピアノかベース、または両方の指慣らしを行い、11時にアルバイト先であるヒューゴの店に到着する。勤務はランチ客がはけると終了。手の空いている隙に用意した昼食2名分をひっつかんで、再び教会へと戻る。今度はレインの自宅の方だ。
大抵、レインはすでにポーチにあるガーデンチェアに座ってテーブルに足を投げ出し、何かを読んでいる。
まだ目は合わないが、到着をレインが気が付いていることは、お互いに知っている。
ルカの好きな瞬間だった。
昼食の後は、庭で実験開始だ。ベースを持ち出し、果物や野菜たちに聴かせる。そして歌う。ほんの15分程度。
レインは実験のデータをノートに書き込み終わると、大学へと戻ってゆく。
その後はまた教会内でベースを弾き、自分の音に向かい合う。
オマが顔を出してくれる日もあり、そうすると練習は中断、ミニ演奏会と手作りの焼き菓子を楽しむお茶会が始まる。
昼食と併せて、レインと過ごす時間は1時間程度のものだった。彼の学生たちよりだいぶ少ないだろう。そして毎晩のようにバーに来るというから、ヒューゴとも比べられない。
だが、週に3〜4日会っている、と言い換えるとずいぶん親密に聞こえるし、言い換えなくとも、レインとの距離は、確実に近づいていた。
育てた果物をジャムにしようなんて、少しだけ未来の約束もして。
そして、昨日。
あの熱いキスと——突然の、拒絶。
翌朝。楽器を置いてきてしまったことを後悔しながら、重い体を引き摺るようにして教会に向かった。
1日でもさぼると取り返すのに3日は掛かる。しかし、毎朝の基礎的な指の動きの反復練習でさえ、何度もトチった。普段なら目を瞑ってでもできるものだ。
自分の舌打ちとため息が静かな講堂に響く。
レインの出勤時間は早く、これまで朝の練習で鉢合わせたことはない。不在は明らかだが、教会の裏手にあるレインの家へは、視線を向けることさえできなかった。
礼拝用のベンチに腰掛け、祈る主の居ない祭壇を眺める。
バラ窓から差し込む光が、ちょうど十字架があったであろう壁を照らす。
クリスチャンでも信心深いわけでもないのに、こんな時にだけすがるものが欲しい。
都合が良すぎると分かっていても、今は独りが辛かった。
レインはなぜ——
あの時、ヒューゴの名前を出したのか。
そして、ルカに発言の機会を——キスで塞ぐほどに——与えなかったのか。
最初のキスは、ただの衝動だったと収めてもいい。——たとえ、身体と心が灼熱に焼かれたとしても——それは自分側の問題だ。
しかし、その後何度も繰り返し唇を合わせ、ついばみ、吸い合った時には——
確かな感情が、そこにあった。
——なのに。
突然の拒否。
「仕事に戻る」と言い放ったレインの顔は、お互いが身体に宿した情熱とは程遠かった。不安を瞳に宿し、眉は怯えるようにひそめられ、すでに唇は固く結ばれていた。
数カ月前に『ペンキ塗りたて』と貼られていたベンチは、週末ごとに少しずつ修復されていく講堂に馴染み始めて、もう真新しさに浮くことはない。
ルカはそれが嬉しかった。
最初はオマに、そして次はレインに。そして、ルカの求める音を返してくれるこの講堂。
迎えられ、馴染んでゆく。その時間と変化が温かく、居心地がよかった。
おそらく自分は、望みすぎたのだ——
レインの魅力はルカを正気のままでいさせてくれなかった。
アルバイトが終わり、ルカはしばらくぶりに店の裏庭に立った。
なんとか仕事に集中でき、私情を忘れていられた。
ただ、勤務中にめずらしくヒューゴから「調子どう?」と尋ねられた。その思いやりの言葉は、ほんの少しルカの気持ちを軽くした。
トマトはとっくに処分し、後は地植えのライムとグースベリーの幼木が青い葉を秋風にそよがせている。
ルカは奥へと進み、生い茂るミントの葉を両手いっぱいに摘んでくると、ざっと洗ってからグラスに詰め込み熱湯を注いだ。
湯が青黄色に変わり、あたりに爽やかな香りが漂い始めると飲み頃だ。はちみつを一匙、いや——今日はたっぷり——加え、スプーンでミントの葉を押す。
一口飲んで、長い長い溜息を吐く。
大切な出会いだった。
それを、あんなにも簡単に壊してしまった。
その場の欲望?
ちがう、レインには出会った日から惹かれている。あの低い落ち着きのある声。時折ざらつく語尾。どこで聞いたって、ルカの神経を震わせる。
彼の特別になりたかった。
ただその気持が、暴走したのだ。
あの体温と、胸に流れ込む声で。
ルカの瞳にじわじわと熱い涙が溜まり、一筋流れる。
背後でガラス戸が開く音がし、ルカは慌てて頬を指で拭い、振り向いた。
「珍しいね。実験は休み?」
穏やかな笑みを浮かべ、コーヒの香りがするマグカップを手にしたヒューゴがガーデンチェアに座る。
ルカは答えず、ただ曖昧な笑顔を返した。
レインとの実験が始まってから、ここで昼食を摂ることがなくなって、もう2ヶ月にはなるだろうか。
「僕、この庭好きだな」
甘く爽やかなミントティーを一口すすり、ぽそりとルカが言う。
ヒューゴは声を出さず、ゆっくりと瞬きを返す。
「仕事終わりにすっ飛んで行くから、よほど実験が楽しいんだろうと思ってたよ」
健気に毎日ランチをこしらえ、自分の幼馴染であるレインの元へ走っていく姿には、愛らしさが溢れていた。
しかし今日のルカは……ヒューゴは彼の微細な変化を感じ取っていた。
「うん……そう、だったんだ……けど」
乾いたルカの声に、ヒューゴの目つきがさっと変わった。
「様子がいつもと違っているように見えたのは気の所為じゃなかったか」
「うん、まあ」
「ただの休みなだけじゃなさそうだな。……レインと何かあったのか」
「……たぶん、嫌われた。でも……よくわからないんだ……。仲良くなれたと思った途端に……」
ん、とヒューゴは低く受け、腕を伸ばしてルカの髪をくしゃりと撫でた。
「レインと僕は幼馴染というだけじゃない。あいつが日本に帰って来る前から親友で、多少なりとも彼の心身の状態は分かっているんだが……どこまでキミに話しているかは分からない」
「あまり……聞いてない。聞いちゃいけない気がして。でも、僕の前では普通……というか、僕はレインといるととても楽しいんだ。それに、僕が歌うと眠れるんだって言ってくれたし……」
「うん。平日の夜にぱたりと来なくなったから、尋ねるとそういうことらしいね。未だに週末はふらりとやってくるが、他の客とも次第に話すようになってきている。しかし、ときどきふと目を閉じて、沈黙に沈むことがある。その途端、彼は帰る。くつろぎや冗談で溢れる飲みの席に、自分がふさわしくないと咄嗟に判断するんだろうね」
ヒューゴは一拍置いて、ルカをじっと見つめた。
「レインが戦場で受けた恐怖。終わりのない緊張。それらは、とてもじゃないが僕達には理解すら難しい。彼は今まで、それに向かい合い、自分を宥めすかしながら、ギリギリの状態で命を繋いできたんだと僕は思っている。周囲に自分の惨状を悟られないように巧みに隠しながら」
「そんなに……」
「何かが、レインの心を閉ざすことがあるんだろう。しかし、そのきっかけは、僕らには到底分からない。……その痛みの深さも」
「あぁ……レイン」
ルカの双眸にじわりと熱い涙が浮かぶ。
あんなにも穏やかで、博識で、辛抱強く、知の惜しみの無い人物。
夏の夜の海で見た精悍な身体。そこに残っているたくさんの傷跡は、誰かを救ってきた証ではないか。
どうして彼が今も辛い目に合わなくてはならないのか。
ヒューゴは静かに涙を流すルカを見つめ、ゆっくりと瞬きをした。
「キミは……優しいね」
「そんなこと……。ただ、レインを想うと……」
「キミたちは、ここで出会った。そして、新しい何かを見つけようとしている。少なくとも僕にはそう映っている。それはとても素晴らしいことだし、美しいことなんだろうと思うよ」
「うん。ここで働き始めてから、毎日が奇跡みたいな日々で……」
「きっとレインも同じだと思うよ」
「だといいな……」
「でもね、ルカ。優先順位は付けたほうが良い。キミはこの国でやることがあるだろう?ルーツは日本にあるとは言え——異国の地で、ひとり頑張っている理由が」
「……ある」
「あいつには、オマという家族もいるし、多忙を極める仕事もある。そして、眠りに繋がるキミとの実験。これらの事実上の支えや、負っている責任を、易易と放棄するやつじゃない。レインなら、大丈夫だ」
「わかった。僕には音楽がある。それに、親身になってくれるバイト先のオーナーがいる。これも事実だよね」
「そうだ。でもひとつ訂正。僕はこれでもキミの日本での兄のつもりでいるんだ。いや、いさせてくれ。できることがあるのなら、何でもするよ。遠慮しないで。いいね?」
「ヒューゴ……」
「そうだ。こういう時は……」
「なに?」
「美味いものを食べるに限る。昼、まだだろ」
思わず笑い出したルカに、ヒューゴは大真面目な顔を作った。
「理にかなってるんだぞ。実際、脳には ”ご褒美回路” というのがあって……レインの受け売りだが、あいつみたいに上手く説明できないのが悔やまれるな」
「もし、また実験が始まったら、聞いてみるよ」
「そうして。ま、レインと何があったにせよ、キミが悩む必要はないってこと」
「わかった。もう悩まない」
「楽しいこと、嬉しいことの記憶だけを残して行くといい」
ルカの頬にサッと赤みが差し込んだのを、ヒューゴは見逃さなかった。
「ハハ、赤くなった。あいつがキミに渡したものが悩みの種だけでなさそうでよかったよ。何かは聞かないけどね」
「からかってないで、早く美味しいもの食べに行こうよ」
「いいや、一緒に作るんだよ。そうだな……ブローチェ・クロケット。いわゆるコロッケパンだが、牛肉をホワイトソースで煮込んで、本格的なオランダ風にしよう。旨いぞ」
「なら、レインにも……あ、だめだ。会えないんだった」
慌てて訂正したルカを、ヒューゴは優しく見つめる。
「……どんな場合でも、真っ先に美味しいものを分けてあげたいと思える相手が浮かぶ。これは、とても素敵なことだよね。キミにその感情がある限り、大丈夫だ」
「そう、かな」
「そうだ。だが確かに、あいつの好物だ。今日は僕らだけでこっそり食べよう。運のない奴め。ああ、でも透には……僕の片思いの相手だが、とても食いしん坊でね。特にヨーロッパの料理には目がないんだ。少しお裾分けをしなければ怒られてしまう」
今度はルカが笑う。「ヒューゴにぴったり!」
二人は店内の厨房に連れ立って移動した。
今朝の時点のルカは足取り重く、表情も暗かった。
いつもならば、ホールで食事を運ぶ時でも、カウンターでグラスを磨いている時でも、ヒューゴが好んでかけるメロディックなディープハウスに乗せて微かな鼻歌と共に身体を揺らしている。まだそこまでではないものの、いくぶん回復したようだった。
厨房の奥のパントリーで食材を選びながら、ヒューゴは自分が放った言葉に、少し誤解を生じる可能性があったことを懸念していた。
まるでルカに、『恋愛にうつつを抜かしている場合ではない』と説教をした形になってしまったからだ。
本意はそこではないのだが……。
レインは、自分の面倒は自分で見られる男だ。酷い症状の最中でも、小さな光を見つけ、そこへと意識を向けることができるのだとヒューゴは考えている。それはオマの存在や、教会の相続、受け持ちの学生、執筆中の論文など幾つか思い当たる。
彼は自分で『生活し続ける目的と意味』を用意し、それを諦めない強い意思の持ち主なのだ。親友として、ヒューゴは、レインのそういう所に絶大な信頼を置いている。
だから、レインがルカに何をしたにせよ、また逆であっても、ルカにその責任を負う必要はないのだ。
ヒューゴの丁寧な手ほどきに従い、ルカが柔らかくクリーミーなコロッケ種を成形する。その手先の器用さには目を見張った。
ヒューゴは種の半分を使い、残りは明日に使うため冷蔵庫へ片付ける。明日は金曜で、現在絶賛片思い中の相手が夕飯がてら飲みに来るからだ。まだ一度も食べさせたことがないが、間違いなく彼のお気に入りになるだろう。
こんがりときつね色に揚がったコロッケがいくつも完成し、揚げたてを急いで頬張り、冷たいビールで流し込む。ルカはその滑らかさと具材のボリュームに目を輝かせた。
そして残りは、粗熱が取れた頃合いで、柔らかいテーブルロールに挟んでパーチメントペーパーで包む。それを「朝食にでも」とルカに手渡して、店を出る背を見送った。
夕焼けが終わり、トワイライトが始まるほんの少し前。
夜のバー営業まではまだ時間があったが、ヒューゴは店先のランタンを灯した。
ルカには、上手く行かない人間関係のことから一旦手を離し、本来の自分がやりたいことだけに目を向けるて欲しいと思った。
まずは宇宙の中心に自分を置くのだ。
『誰かのため』ではなく『自分のため』に暮らしていくことで……カチリと歯車が噛み合うことがある。
運命論者ではないが、自分の経験から、何らかのタイミングというものの存在をヒューゴは確信していた。
◆ ◆ ◆
翌日。朝の練習を終えたルカは、公園前からバスに乗った。
そして——
大学の正門をくぐった瞬間から、自分が何をしに来たのかを何度も言い含める。
しかし、足取りは重い。
背中に得体の知れない重いものを背負っているような感覚がする。ベースケースよりもっと薄くて、ずっと厄介なものだ。
『来なくていい』
あの短い一文が、何度も反芻される。
抱いたのは怒りではない。傷ついた、と言うほど幼くもない。ただ、あれからずっと、腹の底が静かに冷えたままだ。
研究棟が近づくにつれ、レインに会わないことを願う反面、目が探してしまう。黒い革のジャケット、解け気味の後ろで結ばれた金髪、大きな体躯。見つけたら見つけたで、隠れてしまうと分かっているのに。
だから今日は、目的を一つに絞った。
癒やし。見学。気分転換。
ラボで見せてもらったハムスターだ。
あのジャンガリアンの、黒くつぶらな瞳。掌に収まる体温。小さな前脚の動き。餌を頬にたくさん貯めて、にんまりと笑うように目を細める姿は、世界がまだ優しい生き物で満ちていると全力で教えてくれているようだった。
研究棟の自動ドアが、乾いた音を立てて開いた。
白い廊下。掲示物。実験室特有のケミカルな匂い。
すれ違った学生が、密やかにささやきあうのが聞こえる。本人の希望とは裏腹に、ルカは目立つ。背が高く、日に焼けた細いシルエット。金色に輝く髪は光の加減で赤くも見える。理系の巣では異質だ。
実験室の前で、インターフォンを鳴らすとすぐにロックが解除される。
おそらく、関係者以外が訪れることがないのだろう。ドアノブを回し、重たい扉を引いて中に入った。
穀物のようなにおいに、頬がすでに緩む。
飼育室の前まで来ると、以前案内してくれた学生がいた。
短髪の黒髪に寝癖と理知的な細いフレームの眼鏡。いかにも理系の空気をまとった青年だ。ルカと同年代か、少し上かもしれない。
「こんにちわ」
「……あ」
「ルカ。覚えてる?」
「もちろんだよ!」
「えっと……」
「ああ、おれ、ショウマ。ショウでいいよ」
「ショウ。よろしく。あの、今日は……」
ショウは一瞬、ルカの背後を見た。
ルカも分かってしまう。何を探しているのか。
「……Dr. ファンダールと一緒じゃないんだね」
柔らかいのに、ほんの少しだけ踏み込んだ言い方。
「……うん。今日は一人」
ルカは笑ったつもりだったが、唇の端が上がるだけで終わった。
ショウは空気を察し、すぐに話題を変える。
「ハムスター見に来たの?」
「そう。癒やしが欲しくて」
「分かる。好きなだけ見ていいよ」
扉を開けた瞬間、ほのかに暖かい空気が流れ出た。
ケージが整然と並び、回し車の小さな音、給水ボトルの金属のきしみが重なる。
ルカはすぐに、お気に入りの一匹を見つけた。
真っ白な腹毛、他の個体より若干薄いグレーがかった背、そして黒い目。
ルカが覗き込むと、まるで知っているみたいに近づいてくる。前脚で床材を掻き、鼻先をひくひくさせる。
「……かわいい」
思わず漏れた声が、自分でも驚くほど柔らかい。
「だよね。ジャンガリアンは表情豊かだと思わない?」
ショウが笑う。
ルカはケージ越しに指を近づけた。
ハムスターが嗅いで、くるりと向きを変える。そしてまたすぐに思い出したように、ルカの指に寄ってくる。
そのしぐさに、胸の奥の冷たいしこりが少しだけ溶ける。
「ルカさん、ミュージシャンだったよね?」
学生がふと思い出したみたいに言う。
「ルカ、でいいよ」
「日本は長いの?日本語、上手だけど……」
ルカは息を吐いて、少しだけ真面目な顔をした。
「母親が日系で。僕はオーストラリアで育った。日本に来たのは……音楽のため。叔父がジャズやっててさ、その影響……かな」
ルカの説明に学生は頷きながら、目をまっすぐ向ける。
全く似ていないのに、どこか少しだけレインに似ていると思ったのは、それが研究者の目の光り方に近いからだろう。
「ライブとか、やってるの?」
「うん」
ルカは肩をすくめた。
「でもまだ全然プロじゃない。昼はウェイターのバイト。夜は……バーで演奏してる。毎週金曜。ベースがメインだけど、曲によっては歌やキーボードも」
「へえ……」
学生の目が少し輝いた。
「聴きに行っていい?」
「もちろん」
ルカは軽く笑った。
こういう反応は、よくある。社交辞令の “いつか行くね” だ。
本気で来る人は少ない。
「今夜、いい?」
学生が即答した。
「え」
ルカの方が間抜けな声を出した。
「行きたい。どうしてもこもりがちだから。気分転換」ショウはさらりと言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。「……場所、教えて」
ルカは頷き、店の名前を地図アプリに打ち込んだ。
「でも、無理しなくていいよ。忙しいでしょ」
「ちょうど遊びに出る理由が欲しかったんだ。知り合いのステージを見に行くなんて、これ以上ない理由だよ」
明るく言い放つ学生に、ルカは少し救われた。
「もし僕が酔っ払ってたら、見ても見ないふりしてね」
「わかった。また、後で」
ハムスターとショウに別れを告げ、ルカは小走りでバス停へ向かった。
なんとかレインに遭遇せずに済んだ。ホッとしたと同時に奇妙な惜しみもある。
停留所のベンチに腰掛けると道路に背をむけ、駐車場に目線を向ける。レインの愛車は来た時と同じ場所にあった。
その夜。クリスの店は、いつもより少し混んでいた。
気温が下がり始めると、人は音楽を求める。秋冬は、芸術にまつわるイベントが盛んなのは世界共通だ。
そして、人の温もりを求める活動も然り。
グラスの触れ合う音、笑い声、氷の音。ステージ前の空気は適度に湿っている。
今夜のステージはいつものメンバーだ。ドラム、ギター、ボーカル。サックスが居ない日は、ジャズは控えてロックが主流となる。演奏の開始は21時頃、チューニングをしながら軽く打ち合わせ、
ルカは、ベースを抱えた瞬間に頭の中を空っぽにする。
苦いものも、痛いものも、指先に押し込める。
低音が空気を揺らし、リズムがフロアを整える。
演奏が終わったとき、拍手が少し遅れて広がった。
ルカは汗を拭い、客席を流し見て——そこで、見つけた。
ショウだ。
本当に来たのか、と胸の奥が少し温かくなる。
彼は控えめに手を振り、口元だけで「最高」と言った。
ルカは休憩の合間に、ステージ横で声をかけた。
「来たんだ」
「来ないと思った?」
「口約束ばかりの世界だから」
「おれら真面目な理系は、バカ正直に約束を守るんだ」学生は白い歯を見せて笑い、続けた。「思ったよりずっと良かった。勝手に、学祭のようなノリかと思ってたから。謙遜してたんだな。ほとんどプロだね」
「それ、褒め言葉?」
「最高の褒め言葉」
「一杯奢らせて」
軽口の応酬。たったそれだけで、ルカの気持ちが少し整う。
自分はまだ “誰か” に音を届けられる。
レインに拒まれても、世界の全部が閉じたわけじゃない。
——そう思った瞬間。
店の奥、カウンター寄りの暗がりに、長い影の気配を感じた。
黒い革のジャケット。逞しい肩。静かな佇まい。
しかし——
目を凝らすと、そこには誰も居なかった。
ともだちにシェアしよう!

