25 / 26
第25話 そばにいさせて
ルカは、アパートのエントランスまで続く短い通路を小走りで抜けた。
振り向いたらいけないような気がした。
結局手にはレインから渡されたキノコソテーの入った容器を持っている。
階段を駆け上がり、暗い部屋のドアを開ける。
靴を脱ぎながら、シューボックスの上に置いた小さな観葉植物に、「ただいま」と声を掛けるのが習慣になっていた。
冷蔵庫に容器を入れ、ついでにミネラルウォーターのボトルを取り出す。喉を鳴らして半分ほど一気に飲むと、ため息と共に頭がスッキリする。
足元に転がるエフェクターを避けるようにバスルームに入る。
明日も、ヒューゴの店でアルバイトだ。
今日もそうだったように、午後に予定がある日は、ベースの練習は朝だ。ヘッドフォンを着けるため夜中であっても練習は可能だが、そうすると寝付きが悪くなる。
演奏の出来が悪ければ嫌な気分のまま寝返りばかりで寝付けず、良ければ良いで、調子にのって作曲に進んでしまう。
どちらも寝不足になるのだ。
Tシャツを首から抜くと、木の匂いがした。
古い床材。
バターとキノコ。
車。
レインの香り。
胸の奥が妙にざわつく。
ルカは深く息を吐き、乱暴に髪を掻き上げた。
駄目だ。
こんなの、考え始めたらきりがない。
頭から湯を落とし、片手でソープのボトルを取る。男性向けの全身洗浄タイプだが、ルカは利便性よりもその香りが気に入って使っている。
風呂から上がり、下着とパジャマ代わりのよれたTシャツに着替える。
真夜中過ぎ、ベッドに腰かけ、窓辺から流れてくる涼しい夜風に当たっていると、ゆったりとした眠気がやってくる。
残りのミネラルウォーターを一口流し込み、 ルカはあえて、「今日は楽しかったな」と声に出した。
よい気分のままで眠りにつくよう、心がけているのだ。
続けて、レインの様子を想像する。
これまで、幾度となくレインのプライベートに想像を巡らすことはあった。
それはどれもただの空想でしかなかったが、彼の家を知った今なら、具体的に映像で思い巡らせられる。
ソファに座ってカフェテーブルに足を投げ出して座る彼。
部屋のベッドにあの逞しい身体を横たえて何か考えに耽る彼。
書斎に座って小難しい顔をしている彼。
どれも、ありありと想像できる。
「歌ってあげればよかった」
ルカは思わず口をついた言葉に、自分で驚く。
そしてすぐに、それが、想像上のレインがどれも眠っていないからだと気がついた。
研究室で聞いた、静かなレインの声が耳に蘇る。
——睡眠が削られる状態が続けば、行動も判断も鈍る——
ルカは、水を飲み干そうとして、そのまま止まる。
冷たい水が喉を落ちていく感覚。
——長く置けば、別の影響が出る可能性はある——
あれは、ハムスターの話だ。
そう。
ただの研究の話。
ルカの手で、ペットボトルが音を立てて潰れる。
そのまま、しばらく動けなかった。
ゆっくりと、嫌な感覚が背骨を這い上がってくる。
レインの顔が浮かぶ。
「どうせ眠れない」
軽く笑って言った声。
使われていない主寝室。
きっちり整えられたベッド。
生活の痕跡が無い部屋。
対して、“元子供部屋”の狭いベッド。
深夜まで明かりの点いた研究室。
時々、ふっと焦点が遠くなる目。
ルカは息を止めた。
頭の中で、ばらばらだったものが一気に繋がる。
研究への没頭。
質の高いと評判の講義。
休日に臨時のバウンサー。
眠らなくても平然としている態度。
いや。
平然としているんじゃない。
無視しているだけだ。
そこまで考えた瞬間、血の気が引いた。
レインは、自分の状態を“異常”として扱っていない。
もっと悪い。
受け入れてしまっている。
ルカは思わず立ち上がった。
嫌な想像が次々浮かぶ。
判断力の低下。
慢性的疲労。
免疫低下。
精神消耗。
これらを隠すために、彼は大学で、非常に気を張っているのではないか。
唯一くつろげる家でさえ、眠りは彼を遠ざける。
しかし——ライヴで歌を聴いた日は眠れたはずだ。
レインは確かにそう言った。
なのに。
「また歌ってくれ」とは言わなかった。
——家に入れてくれた、今夜でさえ。
ルカの瞳が揺れる。
レインは、誰かに頼る気など無いんじゃないか。
自分が壊れる方が先でも——誰かを必要とするくらいなら。
「……っ、」
掠れた声が漏れる。
怒りなのか、焦りなのか、自分でも分からなかった。
ただ、じっとしていられない。
部屋で歩き周り、エフェクターを蹴飛ばして悪態をつく。
鍵を取る。
玄関に向かい、下着姿に気付いて急いで着替え、スニーカーを履く。
冷静な部分が、(夜中だぞ、迷惑だ、何を言うつもりなんだ)と叫んでいる。
だが止まれない。
もし今、レインがまた研究室へ戻ったら。
もし、あの静かな家で独り、眠れない夜を過ごしているなら。
ルカは玄関を飛び出した。
夜気が肺へ刺さる。
それでも足は止まらなかった。
ルカは教会の門を駆け抜け、家のポーチでようやく立ち止まる。
胸の痛みは、走ってきたせいだけではない。
なんとか呼吸を整え、ポーチを抜けて玄関に手を掛けると、ドアが簡単に開く。
無施錠はともかく、半開きだなんて彼らしくない。
嫌な汗が背中を伝った。
「……レイン?」
返事はない。
家の中は暗く、静かだった。
だが、奥から微かに水音がする。
ルカはそこでようやく息を吐いた。
安心した途端、今度は別の焦りが押し寄せてくる。
自分は何をしに来たんだ。
こんな夜中に。
勢いだけで飛び出してきたせいで、説明も整理も出来ていない。
その時。
不意に水音が止み、ルカの肩が跳ねる。
数秒後、廊下の奥から足音が聞こえ、やがて、壁のアーチから見事に引き締まった身体が現れる。
レインは濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、気配に足を止めた。
その姿に、ルカの思考が、一瞬真っ白になる。
当然、レインは全裸だった。
肩から胸にかけて薄い古傷が走っている。
濡れた肌を水滴が伝い、鎖骨を滑り、腹筋の縦線へ落ちていく。
だが目を引いたのは、色気より先に、その脂肪の削げた痩せ方だった。
筋肉の間に、肋骨が薄く浮いている。
腰骨が鋭い。
レインは一瞬だけ目を見開き——すぐにその驚きを押し殺した。
「……つい先程、送り届けたはずだが」
低い声。
冷たいほど静かな声音だった。
そして刺すような視線が、真っ直ぐルカを射抜く。
ルカは喉を鳴らした。
来る途中で何度も頭の中で繰り返していた言葉が、全部飛ぶ。
レインは無言のルカから視線を外さず、バスタオルを腰に巻き付ける。
しかしそれはレインの男性自身を浮き彫りにしただけで、余計に煽情的だ。
「何かあったのか」
言い訳があるんだろうな、と言わんばかりの口調。
目は鋭くルカを射抜いたまま、気だるげに濡れた髪を掻き上げる。
ルカはその色気に息をすることすら忘れ、立ちすくんだ。
「……おい、ルカ」
名を呼ばれ、拳を握る。
言わなければと思うのに、うまく息が吸えない。
代わりに出たのは、ほとんど掠れた声だった。
「……眠れてるのか、どうしても心配になって……」
沈黙が落ち、レインの表情が止まる。
さらに静まり返る部屋。
濡れた髪の先から落ちた水滴が、鎖骨を伝って胸元へ滑っていく音さえ聞こえそうだった。
風呂場から流れてきた湯気がまだ廊下に薄く漂っていて、裸のレインの肌からは石鹸の匂いがした。
ルカは玄関ホールに立ち尽くしたまま、指先を握り込む。
心臓がうるさい。
走ってきたせいだけじゃない。
レインを責めたいわけじゃない。
ただ、確かめたかった。
ハムスターの異常行動について語るレインは、あくまで研究者の顔だった。
淡々と。
不必要なほど、客観的に。
——あれは他人事じゃなかった。
意を決したように、ルカはレインを見つめ返していた。
視線を逸らしたのはレインだった。
「急に何の話だ」
低く平坦な声。
だが、その冷静さが逆にルカを苛立たせる。
「誤魔化さないで」
「誤魔化してない」
「してるだろ!」
言葉が重なる。
レインは小さく息を吐き、カフェテーブルに置かれたビールのボトルを手にした。
その仕草には、先程無かったはずの疲労が滲んでいるように見える。
ルカは唇を噛む。
——この人は、ずっとこうやって平然としてきたのだろう。
眠れなくても。
神経が削れても。
心が苦しくても。
全部、冷静な研究者の顔で。
「レイン、自分で言ってた」
ルカは一歩、リビングへ踏み込む。
冷えたフローリングが裸足に軋んだ。
「睡眠が削られたら、行動も判断も鈍るって」
レインの目がわずかに細くなる。
再びの沈黙。
遠くで、鳥が微かに鳴いた。
レインはソファへ背を預ける。
無造作な動きなのに、その瞬間、肋骨の浮き方が見えた。
ルカの胸が嫌な風に痛む。
腕や肩の筋肉が目立つのは、それ以外の部分が痩せているからだ。
よく絞れた身体だとと思うより先に、危うい、と思った。
「……だから何だ」
レインが言う。
「お前が夜中に飛び出してくる理由にはならない」
「なるよ」
ほとんど反射だった。
レインの眉が動く。
眠れないことに。
独りで朝を迎えることに。
身体を削る生活に。
そんなものに慣れるなと、叫びたかった。
しかし叫びは声にならず、代わりにルカは一歩踏み出した。
レインは動かない。
逃げもしない。
だが、受け入れもしない。
ただ静かに座り、ルカを見上げている。
その距離が、どうしようもなく苦しかった。
「……僕が歌えば、寝られるんだろ」
レインが息を飲む。
ほんの刹那だが、呼吸が確かに止まったのをルカは見逃さなかった。
「どうして言ってくれないの」
レインがゆっくりと立ち上がった。
「……帰れ、ルカ。必要なら何度でも送ってやる」
返答は硬かった。
拒絶に近い声音。
だがルカには、もう分かっている。
この人は怒っているんじゃない。
怖がっている。
誰かがいないと眠れないことを。
誰かを必要としてしまうことを。
ルカは震える指先をゆっくり持ち上げる。
逃げられたらどうしようと思った。
鬱陶しいと思われたら。
迷惑だと切り捨てられたら。
だが、それでも放って帰ることなんて出来なかった。
自分は間違っていないという自覚があった。
ルカはさらに踏み込み、立ち尽くすレインの手首にそっと触れる。
熱かった。
生きている体温。
脈が、微かに速い。
「ルカ……これ以上は……」
ルカは泣きそうになるのを堪えながら、小さく呟いた。
「……困ればいい」
レインが息を呑む。
ルカはそのまま額をレインの胸へ寄せた。
濡れた肌はひやりとしているのに、その奥の鼓動だけが異様に熱かった。
レインは動かなかった。
突き放すことも、
抱き寄せることもせず。
ただ、胸元へ額を預けてきたルカを見下ろしている。
濡れた髪先から落ちた水滴が、ルカの頬へひとつ落ちた。
静かだった。
互いの呼吸だけが近い。
ルカは目を閉じる。
鼓動が聞こえる。
速くて、強い。
連動するように、呼吸が早い。
——こんなレインを知らない。
いつだって冷静で、何を考えているのか掴ませない。
まるで岩みたいな人だと思っていた。
なのに今は違う。
胸の奥で鳴る鼓動は、生々しいほど人間だった。
「……ルカ」
低く掠れた声が頭上から落ちてくる。
「自分が何をしてるか分かってるのか」
ルカは少しだけ笑った。
額を押し付けたまま、小さく答える。
「うん」
半分だけ本当だった。
勢いで飛び出してきた。
夜中に、憧れてならない男の家へ来て。
帰れと言われても拒絶し。
裸のままの相手に触れているなんて。
冷静に考えれば全部おかしい。
だが、レインを独りにしてはいけない気がした。
それは絶対に間違ってはいないはずで。
ルカはレインの胸元に手を添える。
熱い。
「……あんたを眠らせることができるのは、僕だけだ」
その瞬間。
レインの指が、ぴくりと動いた。
触れるか迷うみたいに宙で止まり、それからゆっくりとルカの後頭部へ落ちる。
抱き寄せるでもなく、撫でるでもなく。
ただ、そこに置かれた重い手。
ルカは息を止める。
レインが自分から触れてくることなんて、ほとんど無い。
それだけで胸が締め付けられる。
「ずいぶん……自信があるようだな」
レインが呟く。
だが声には、もう先ほどまでの硬さが無かった。
むしろ面白がっているようにも聞こえる。
確かにレインは疲れていた。
それもひどく。
忙しいはずの頭の中に、時折現れるルカへの渇望を追い払う日々に。
ルカとの実験を止めてから、まともに眠れたのは1度きりだ。
ルカはそっと顔を上げる。
思わず息を呑むくらい近くに、レインの顔がある。
濡れた睫毛。
シャワー上がりの熱を帯びた肌。
僅かに赤い目元。
「ベッド、行こう」
ぽろりと零れたルカの言葉に、レインの目が細くなる。
「ん……?」
地の底のように低い唸りが、身体から直接響いてくる。
ルカは自分の言葉が与える別の意味に気付き、耳まで赤くなる。
「ち、違っ……そうじゃなくて!」
レインの口元がわずかに動く。
笑った。
本当に僅かだったが、確かに。
「知ってる」
響きが妙に優しくて、ルカを余計に焦らせる。
レインはゆっくり息を吐いた。
それから、観念したみたいに目を伏せる。
「……来い」
レインは苦い顔のままルカから離れ、壁のアーチを超えると左に曲がる。
そして自室のドアを開け、そのまま無言で中へ入った。
ルカも後に続く。
本棚に囲まれた静かな部屋。
ベッド脇の小さなランプだけが点けられ、琥珀色の灯りが木目を柔らかく照らしている。
レインは腰のタオルを適当に椅子へ放り、ベッドの端に腰掛けた。
全裸のままで。
本人は気にしていないらしい。
だがルカは、非常に視線の置き場に困り、意味もなく本棚を見る。
魚類図鑑。
植物図鑑。
人体解剖図。
最悪だ。
余計に意識する。
「……ルカ」
レインの低い声が飛んでくる。
「顔が赤い」
「誰のせいだと?」
レインは少しだけ目を瞬いたあと、疲れたように額へ手を当てた。
「……服を着る前に侵入者があったから」
「僕のせい?」
「かもな」
レインは小さく息を吐き、身体を横たえる。
「それで。歌ってくれるのか」
ルカはゆっくり頷いた。
だが、そこで困る。
歌うと言ったものの、こんな状況で何を歌えばいいのか分からない。
ラブソングなど論外だ。
今そんなものを歌ったら、自分が死ぬ。
レインはそんなルカを見て、かすかに口元を緩めた。
「適当でいい」
「適当って……」
「お前の声なら、たぶん何でも同じだ」
その言葉が静かに胸へ落ちる。
ルカは誤魔化すように咳払いをした。
それからベッドの脇へ腰を下ろす。
マットレスが沈み、レインの体温が伝わる。
ルカは一度だけ深呼吸した。
そして、小さく歌い始める。
夜を刺激しないような、柔らかな旋律。
即興だ。メロディというより、呼吸に近い歌だった。
レインは目を閉じ、静かに聴いている。
まだ意識があるのは明らかだ。
だが、数分もしないうちに、呼吸が少しずつ変わっていく。
深く。
ゆっくり。
張り詰めていたものが、解けるみたいに。
ルカは歌いながら、そっと視線を向ける。
レインの眉間から力が抜けていた。
それだけで胸がほっこりと暖かくなる。
歌声が微かに震える。
その時だった。
レインの手が、ゆっくりシーツの上を探る。
半分眠りに落ちた、無意識の動作のようだ。
もしかして——と、ルカは膝の上で組んでいた指を解いた。
やや遠慮がちに、レインの長い指先につんと触れ——
瞬間、指先が弱く握られた。
まるで子供みたいな仕草だった。
夜を怖がり、親の存在を確かめるかのような——
ルカは唇を噛む。
この人は、いつからこうだったんだろう。
どれくらい長く、眠れない夜を越えてきたんだろう。
ポロリとルカの瞳から雫が一つ落ちる。
レインの辛さは、想像し難い。
彼に寄り添いたいと願うと、なぜだか涙が出てしまう。
レインの呼吸が深く、穏やかに変わる。
完全に眠りに落ちたに違いなかった。
それでも、握る手だけは離さない。
そしてルカは、歌を止められなかった。
ほんの指先だけの繋がりでさえ、じんと胸に染みる。
部屋の灯りは暗く、夜は深い。
窓の外で風が木を揺らす音がする。
その全部から、この小さな部屋だけ切り離されているみたいだった。
レインの指が、微かに動く。
確かめるように、ルカの手を撫でる。
だが、それが余計にルカを追い詰める。
起きているレインは、決してこんな風に触れてこない。
なのに今は。
安堵しきった顔で、まるで本音みたいに触れてくる。
ここに居て欲しいと、すがるように。
ずるい。
ルカは声を止め、小さく笑った。
「……ほんと、ずるいよ」
返事はない。
代わりに、レインの呼吸がさらに深くなる。
眠っている。
ちゃんと。
ルカは信じられない気持ちで、その寝顔を見つめた。
眠るレインの傍にいるだけで、心が満ちていく。
この時間を守るためなら、何を投げ出しても惜しくない。
ルカは空いている方の手をゆっくり伸ばした。
濡れて濃くなったブロンドの前髪をそっと払う。
指先に熱い額が触れる。
眠れていない人特有の熱だった。
レインの手がまた微かに動き、今度は少しだけ強くルカの指を握り込んだ。
ルカは目を閉じる。
だめだ。
こんなの、好きにならない方が無理だ。
「……おやすみ、レイン」
小さく囁く。
返事はない。
だが、眠ったままのレインの口元が、ほんの僅かに緩んだ気がした。
ともだちにシェアしよう!

