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第32話 夜の終わりと始まり

最後の曲が終わると、店内に拍手が広がった。 この曲だけメインボーカルをとったルカは、ベースを抱えたまま軽く頭を下げ、他のメンバーと言葉を交わしてからステージを降りた。 それを合図としたかのように、客は減り始める。 最終電車を気にする者、次の店へ移る者。扉が開くたび夜気が入り込み、店の熱を少しずつさらっていった。 レインはカウンターの端に残ったまま、グラスの中の氷を眺めていた。 やがて、隣のスツールが引かれる。 「どうだった?」 ルカが腰を下ろした。 頬が少し赤い。演奏の熱がまだ身体に残っているのだろう。額には細かな汗が浮かび、乱れた髪がひと筋、こめかみに張りついていた。 「今夜も眠れそうだよ。ありがとう」 「こちらこそ。自作の曲をラストに演らしてくれるメンバーにも感謝」 「いつもは違うのか」 「セットリストの決定は持ち回りなんだ。今夜はたまたま僕の番で、選曲は自由なんだけど……自作のオリジナルを演るのは僕だけ」 ルカは嬉しそうに笑ってから、キースへ向かって手を上げた。 「ねえ、僕にもおすすめ、入れてよ」 「オメェにはまだ早い。でもいい演奏だったからな……特別だぞ」 すぐに返ってきた声に、ルカの顔がさらに明るくなる。 「聞いた?」 「それほど嬉しいのか」 「嬉しいよ。好きな曲を歌ってお金をもらって、そのうえ酒まで飲めるんだよ?」 得をした子どものように上機嫌で、メニューを覗き込んでいる。 その無邪気さと、つい数分前までステージで濡れた色香が同じ人物に備わっている。 低い照明の下でベースを抱き、音に合わせて揺れる腰。 掠れた声。 弦を押さえる繊細な指。 身体の端々から放たれる色気。 ステージを降りた今も、それは完全には消えていなかった。 熱を持った肌に、名残のようにまとわりついている。 レインは未だに、どちらが本来のルカなのか掴めていない。 「乾杯。来てくれてありがと」 ルカはグラスに口を付け、にっこりと微笑んだ。 そしてふと、汗に濡れた前髪を耳へかける。 たったそれだけの仕草に、レインは自分の体温が上がるのを感じ、視線を外した。 同時に胸の奥底に湧いていたルカへの渇望を押し込め、硬く蓋をする。 ステージの前方には、まだショウたちが残っていた。 数人で話しているものの、先ほどから何度か入口や時計へ視線を送っている。周囲の客が少しずつ帰っていくことを気にしているようにも見えた。 ショウもまだ席を立たない。 ときおり、こちらを伺うような視線をレインは感じていた。 それを一度だけ受け止め、そのままルカへ向き直った。 賭けだと思った。 今宵、ルカが自分と帰路を共にするのか。 それとも他の誰かと。 レインはこれまで、人間関係において駆け引きと呼べるようなことをした経験がない。 駆け引きが必要なほど、誰かを望んだことがないのかもしれない。 もしルカを確実に連れて帰るための手法を知っていたらば、発揮していただろう。 今夜は、今夜だけはどうしても、ルカをここに置いて帰るわけにはいかないのに。 レインは幾つかの言葉を脳裏に思い浮かべる。 しかし結局、口から出てきたのは呟きのようなものだった。 「送るよ」 ルカがパッと明るい笑顔を向けた。 その直後に視線が揺れる。 「家まで送る」 続けて、はっきりと告げた。 「いいの……?」 「どうせ同じ方向だ。きみも帰りはタクシーだろ」 もし遠く離れていたとしても、同じ申し出をしただろう。 「でも、遠回りになるよ?」 「誤差だ」 言い切ったレインに、ルカは瞬きをした。 「でも……」 「機材が重いだろう」 レインはルカの傍らに置かれたベースケースと、大型のジュラルミンケースを見た。ステージ上に並べられていたエフェクターが入っている。 「まあ、それはそうだけど。いつものことだから」 レインは、素直に送られようとしないルカに、半ば諦めを感じ始めていた。 大学の駐車場では嬉々として車に乗り込んでくるのに、重い機材がある今ならなおさら好都合ではないのか。 それでも、承諾しないのは---- きっと、先約があるのだ。 それを言い出せないのだろう。 本気で拒んでいるのであれば、その意思を無視するつもりはない。 「都合が悪いなら……」 レインが問いかけようとした時、 「ルカ」 不意に、背後から声がした。 ショウだった。 連れだった医師たちはすでに帰り支度を始めている。ショウだけがジャケットを片手に、こちらへ歩いてきた。 「このあと、時間ある?」 「今から?」 「うん。近くに遅くまでやってる焼肉屋があるんだ」 ショウは気負いなく笑った。 「他の連中とはここで解散する。演奏の話ももう少し聞きたいし、よかったら飲み直さない?」 それから、ごく自然にレインへ視線を移した。 「Dr.ファンデールもどうです?まだ何か食べられるなら」 抜け目がない。 だが、目的がルカであることも隠してはいなかった。 レインはほとんど間を置かずに答えた。 「俺はいい」 「そうですか。残念」 ショウは素直に引いた。 少なくとも、レインに対しては。 「じゃあルカ、二人で行かない?ライブの後で腹が減ってるだろうし」 ルカはすぐには答えなかった。 確かに、演奏のある日は必然的に夕食が後回しになる。夕方に軽く食べただけだっだから、ショウの申し出に胃袋が反応するのは止められない。 でも----もし、レインが。 ちらりと隣を見る。 レインは、グラスへ目を落としたまま動かない。 「レイン、お腹空いてないの?」 ルカは敢えてわかりきったことを聞いた。ヒューゴの店で会合があり、その足でここへ来たことは知っている。何か旨いものを腹に入れてきていることくらい承知だった。 「ああ」 「そっか……」 僅かに俯いたルカに、ようやくレインは視線を向けた。 言葉は、すでに喉元まで来ていた。 だが、それを口にする理由をレインは持っていない。 ルカを家まで送ると申し出た。 たったそれだけ。しかもまだ返事ももらえていない。 ルカが、この夜を誰とどう過ごすのかを決める権利など、自分にはない。 ルカが選ぶべきだと考えるのは、間違っていないはずだ。 「焼肉、好きだって言ってたよね?」 ショウが続ける。 「とくに、タンがかなり旨いんだ。秘密にしておきたいくらいに」 「へえ……」 「まだそんな時間でもないし。明日、朝早い?」 「いや、別に」 「じゃあ行こうよ。今日の演奏すごく良かった。テーブル席を取っておいてくれたお礼に、僕が奢るからさ」 ショウは楽しそうだった。 下心を隠しているようにも見えない。 むしろ単純に、ルカともっと話したいのだろう。 そうした望みを持つことを、レインには責められない。 阻止することも、阻害することもない。 自分と同じなのだから。 「先生、本当に来ません?」 ショウがもう一度レインへ声をかけた。 「帰りはタクシーで大学まで戻りますし。3人でどうです?」 「いや、俺は帰る」 その言葉に、ルカの表情がほんの少し曇った。 レインはそれを見ていないなかったが、感じるものはあった。 隣の身体から、さっきまであった軽やかな熱がわずかに引いたことで。 それでも顔を上げなかった。 ここでルカを見るのは卑怯だと思ったからだ。 目を合わせれば、ルカは自分を選ぶかもしれない。 それは選択ではない。 「どうする?」 ショウが念押しのように尋ねる。 ルカは一瞬、レインを待った。 何か一言。 ほんの一言でよかった。 けれど、レインは静かにグラスを口に運ぶのみで。 ルカは視線を落とした。 レインの前腕に走る傷跡を目で辿る。 やっぱり。 僕なんかでは……。 こういう時、ルカは己の感情が一方的なものであることを知らされる。 胸の奥に、冷たさが広がった。 自分たちは、何かを約束したわけでもない。 でも。 ルカにとって、誰かと唇を重ねることには大きな意味があった。少なくとも、自分はそう簡単に誰かを欲すことはない。 それに、名前を呼ぶ度にあんなふうに切なくなるのは、いま隣にいるこの男だけだ。 なにもかもが特別で、レインに限っての行為だ。 だから---- 昨日、レインがわずかに唇に触れてきたことも。 頬に手を添えたことも。 全部、自分と同じ重さを持っていると----思いたかった。 でも、レインには違ったのかもしれない。 質問を止めるための、少し過剰な冗談。 あるいは、その場の衝動。 自分が大切に抱えているほどの意味など、彼にはなかったのかもしれない。 ----それでも。 「……ごめん、ショウ」 ルカは顔を上げ、笑顔を見せた。 「今日はやめとく」 「本当に?」 ショウはまだ諦めなかった。 「疲れてるのなら、食べた方が回復は早いよ?酒は飲まなくてもいいし。店、タクシーで10分くらいだから」 「うん。でも今夜は帰る」 「そっか」 ショウはルカの顔を見て、それ以上は押さなかった。 「じゃあ、また誘っていい?」 「うん、ごめん」 その返事に、レインの指が、グラスの縁で止まった。 たったそれだけの言葉が、妙に耳に残った。 その『また』がいつになるにしろ、次があるということだ。 「それじゃ。先生も。失礼します」 「ああ」 レインは、離れていくショウの背中を一度だけ見た。 出入口付近で立ち止まっていた仲間の輪に戻っていく姿が完全に視界から消えてから、ようやく息を吐く。 ルカが行かなかった。 ショウを選ばなかった。 それだけで、身体の奥に溜まっていたものが急速に引いていく。 レインはそこで初めて、自分がどれほど緊張していたのかを知った。 「で、どうする?」 ルカは一瞬、レインを見た。 「……帰る。レインと」 レインもようやく顔を向ける。 ルカの笑顔。 だが、さっきまでカウンターで寛いでいた男の笑い方ではない。 何かを諦めたような、薄い笑みだった。 「どうした」 「ううん、何でもないよ」 ルカはベースケースへ手を伸ばしたが、その前にレインが持ち手を掴んだ。 「持つ」 「いいよ。自分で持てる」 「知ってる」 「じゃあ、なんで?」 レインは一瞬、答えに詰まった。 持ちたいからだ。 ルカを自分の側へ引き寄せられるものなら、何でも。 だがそんな答えを口にできるはずもない。 「身体が大きい者が荷物を持つのは当然だから」 結局、出てきたのはそんな退屈な答えだった。 納得したのかどうか、ルカは小さく笑ってジュラルミンケースも差し出す。 「何それ」 ベースケースを肩へ掛け、左手でジュラルミンケースの取っ手を握る。 その重さに、奇妙な満足を覚えた。 ルカのものが、自分の身体に触れている。 たったそれだけのことに。 レインは歩き出そうとして、ふと足を止めた。 もし。 ルカが、ショウの誘いに頷いていたら、自分は本当に独りで帰ったのだろうか。 キースに言った通りであれば、考える必要などないはずだった。 ルカが選んだのなら、それを尊重する。 それが正しい。 そう決めていた。 なのに頭に浮かんだ光景を、受け入れることができなかった。 ショウと並んで店を出るルカの背中を見送る。 二人でタクシーに乗り、遅い時間の繁華街にある焼肉屋で向かい合う。 ショウが笑わせる。 ルカがあの無防備な顔で笑う。 酒が入る。 距離が近づく。 ----また、あの手がルカに伸びる。 そこで思考が止まった。 胃の奥にひやりと水滴が落ちたような、ぞっとする感覚だ。 あり得ない。 許せない。 だが何を? 誰に許可を求める必要がある。 ルカは自由だ。 自分のものではない。 分かっているんだろ? それなのに、想像の中でショウがルカへ触れた瞬間、レインの内側には、先ほど店内で感じたものとは比較にならないほど静かで凶暴な衝動が立ち上がった。 奪って、連れて帰る。 相手が誰であれ、ルカから引き剥がす。 そしてこの店から無理に連れ出し、誰の手も届かないところまで。 教会の裏の、小さな家へ。 玄関の鍵を閉めてしまえばいい。 そこまで考え、レインはゆっくりとルカを見た。 何も知らず、店の出口を見ている横顔。 先ほどまで大勢の客へ晒されていた色香が、戻ってきたかのように見えるのは気のせいだろうか。 手を伸ばせば届く。 レインはポケットへ手を入れた。 触れないために。 「行くぞ」 声だけは、いつもと変わらなかった。 「うん」 ルカが先に歩き出す。 レインはその半歩後ろをついていった。 自分はどこまで、正しい男でいられるのだろう。 店の扉へ向かうルカの背中を見ながら、レインは断固として、その答えを知りたくないと思った。 店を出ると、夜気が火照った身体に冷たかった。 駅前の通りにはまだ人が多い。タクシーの列が交差点の向こうに見える。 レインは目前の車道へ視線を向けた。 「ここで拾う方が早い」 返事がない。 ルカの歩みは止まっている。 「どうした」 ルカは黙ったまま、夜の繁華街に目を泳がせている。 酔が回って、気分が悪いのかもしれない。 最後に飲んだウイスキーは甘くフルーティで口当たりが良いが、アルコール度数は高い。 レインは少し待つことにした。 道端で、空車のサインをいくつかやりすごす。 数分か、もっと短かったのかわからない。 ようやく、ルカが口火を切る。 視線は路面に落とされたままだ。 「さっきさ」 「ああ」 「ショウに誘われたとき」 レインの身体がわずかに硬くなる。 「うん」 ルカは笑おうとしたが、頬を引きつらせただけだった。 レインは動かなかった。 街の音だけが二人の間を通り過ぎる。 「僕が他の人と行こうとしたら、少しくらい嫌がってくれるのかなって」 ルカはまだ目を合わせない。 「でも、何も言わなかったから」 「それは……きみから返事を貰っていなかったから。送らせてくれるのか、否か」 「うん、少し迷ってた」 「どうして?」 ルカは、心底不思議そうな顔のレインに、胸の中で小さく息を吐く。 この美丈夫は、何も分かっていないのだと。 ステージ上から目線を送るたび、広い背中に近づいてゆく幾人もの男女。 みな、己の魅力を熟知しているに違いない、美しい大人ばかりだった。 ルカには到底叶いそうもないほどに自信に溢れ、堂々とレインを口説こうとしていた。 レインは彼らに笑顔を向け、二言三言交わし、キースに酒を作らせてから去らせる。 次こそは席を立つんじゃないか。 相手の腰に手を回し、店を出ていくんじゃないか。 どれほど不安だったか。 淋しくて、もどかしくて。 ステージ上にいることが恨まれて仕方がなかった。 「僕に……気を遣ってくれてるのかなって。他に、送りたい相手がいたのかもって」 レインは目を見開き、ルカを覗き込んだ。 「何を言ってる?」 「見てたよ。いろんな人に声を掛けられてたの。みんな素敵だった。大人で」 「あんなのは……」 「僕はレインにとってただの眠り薬なのかもしれない。でも」 ルカは慌てたように続けた。 「行くなって言ってほしかった」 「ルカ」 「僕、勝手に期待してたんだ」 言ってはいけない、そうルカは分かっていた。 でも、もう止められなかった。 ステージでは、彼の名を呼び続けている。 レインがいない夜でも、いつでも。 「レインから……キス、してくれた……から」 その言葉に、レインの指がベースケースの持ち手へ食い込んだ。 「僕には、けっこう大きいことだったんだけど」 ようやく、ルカが顔を上げた。 傷ついたというほどではない。 ただ、少し寂しそうだった。 「レインには、そうでもなかったのかなって」 その瞬間。 レインの中で、何かが切れた。 理性ではない。 むしろ、今まで理性と呼んでいたものの方が、ひどく馬鹿げたものに思えた。 行くなと言わなかった。 ルカの自由を尊重した。 選択を奪わなかった。 だが、その正しさのせいで、ルカにこんな顔をさせた。 レインはベースケースを地面へ下ろした。 「……そうでもなかった、とは?」 絞り出された低い声に、ルカが瞬きをする。 レインは一歩近づいた。 「お前、本気でそう思ってんのか」 「だって」 「俺が何も言わないから?」 「うん」 もう一歩。 ルカが見上げる。 その時、ほんの僅かな雫が瞳から溢れた。 レインは自分でも分かるほど、呼吸が深くなっていた。 止めてほしかったのだ。 選んでほしかったのだ。 ショウではなく。 誰でもなく。 俺に。 その事実が、胸の奥へまともに入ってくる。 耐えられないほど嬉しかった。 同時に、自分自身にひどく腹が立った。 「俺は」 レインはそこで一度言葉を切った。 喉の奥に、もっと乱暴な言葉がいくつも詰まっている。 さっき言えなかったすべてが、今になって一斉に押し寄せる。 「きみがショウと行くと言ったら、止めないつもりだった」 ルカの表情が曇る。 その変化を見て、レインはすぐに続けた。 「止める権利がないと思ってたからだ」 レインはルカの頬へ手を伸ばした。 触れる直前、一瞬だけ止まる。 ルカは逃げなかった。 そのまま掌で頬を包む。 冷たい夜気の中で、そこだけが熱かった。 「演奏前、ショウがきみに触ろうとしたときも」 声がさらに低くなる。 「帰り際に誘ってきたときも」 ルカは息を止めていた。 「嫉妬で、気が狂いそうだったよ」 ルカが酸素を求めるように、唇がわずかに開く。 レインは目を閉じた。 ルカも何も言わなかった。 ただ、頬を包むレインの手へほんの少し顔を預けた。 その仕草は、レインの胸に穿たれた暗い穴をじんわりと埋めていく。 もう今度こそ止まれない。 レインは無理やり手を離し、こちらへ向かってくる車へ手を挙げる。 停車したタクシーへと、二人で歩き出す。 ルカはさっきより少しだけ近くを歩いていた。 肩が触れそうな距離だった。 レインは前を向いたまま、その距離を一度も広げなかった。 ◆◆◆ タクシーに乗り込むと、レインはルカにマンション名を尋ね、ルカが応える。 「そこを経由して、公園裏の古い教会まで」 ドライバーはナビゲーションシステムを無言で操作し、経由地と目的地を設定した。 車はゆっくりと繁華街から離れてゆく。 ルカは、シートの上で拳を握った。 そうでもしないと、心臓が胸から飛び出してしまいそうだった。 寡黙で、冷静で。 いつだって自分のことは後回しで。 そのレインが……嫉妬なんて。 まるで、情熱を知性で押さえつけていたみたいじゃないか。 ルカの体温が酷く上昇した。 (神様、もし居るなら僕に少しの……いや、たくさんの勇気を) 呼吸が乱れるのを押さえるため、大きく深呼吸をする。 「すみません」 小さく、しかし鋭い声を上げたルカを、レインが覗き込んだ。 ほんの少し首を傾げて、瞳には心配の色が見える。 「経由は取り消して、直接教会へ行ってください」 ルカを見つめる瞳が大きく開かれる。 レインは何も言わなかった。 ただ、大きな手が、そっとルカに重ねられた。 そして、硬く少しカサついた親指が、そっとルカの手の甲を辿る。 たったそれだけで、ルカの身体はシートに溶けた。 細く長い安堵の吐息が唇から漏れる。 二人は、教会の門前でタクシーを下りた。 門扉を抜け、レインが家の鍵を開ける。ドアを押さえてルカを先に通し、ベースケースをリビングへ下ろした。 さっきまでいた店の喧騒が嘘のように、家の中は静かだった。 ルカは深呼吸し、木の匂いをする空気で肺を満たす。 レインはジャケットを脱ぎながら、不意に訊いた。 「腹、減ってんのか?」 「え、あ、うん。まあ」 「……プロテインくらいしかない。すまない」 眉を下げたレインが本当に申し訳なさそうで、ルカはふふっと微笑む。 「いらない。いつも食べないんだ。けっこう飲むから」 「そうか。では、卵の好みは?」 「え?」 「飲み物はコーヒーか紅茶。オレンジジュースも欲しいなら」 「……なんの話?」 「朝食」 ルカは壁の時計を見る。 まだ、深夜に差し掛かったところだ。 「でも、まだ」 戸惑った様子のルカを、じっとレインは見つめる。 「明日の朝、きみはたぶん起きてこられない」 心臓が大きく跳ねた。 「レイン、それって……」 レインがこちらを見る。 いつもの淡い瞳だった。だが、その奥に宿るものだけが違う。 静かで、濃い。 逃げ場をなくすほど真っ直ぐな欲望だった。 「今から帰ると言うなら送る。別の部屋で寝たいなら、そうする」 そこで一度、言葉を切った。 「だが、俺と同じことを望んでいるなら、覚悟はしておいた方がいい」 ルカは唾を飲み込んだ。 レインの視線が、ほんの一瞬だけ唇へ落ちる。 その視線だけで、頬が一気に熱くなった。 「きみが望まないことは何もしない」 低い声が落ちる。 同じ欲望を抱いていたことに、ルカの胸の奥が甘く震える。 「俺は汗を流してくる」 レインは踵を返した。 「その間に決めろ」 「あ……うん」 「妙な気は遣うな。帰るのなら、きちんと送り届けるから」 ルカは思わず笑った。 こんなときまで、自分よりこちらの意思を先にする。 そのくせ、さっきの目だけは何ひとつ隠せていなかった。 「レイン」 歩き出した背中が止まる。 「何だ」 ルカは一度唇を舐めた。 「僕もシャワー浴びていい?」 「ああ、先に使うか」 「ううん……できれば、一緒に」 レインが立ち止まる。ほんの数秒。 やがて、ゆっくりと振り返る。 その顔を見た瞬間、ルカの息が止まった。 さっきまで辛うじて残っていた抑制が、消えている。 鋭い視線がルカの顔から喉元へ落ちる。 触れられてもいないのに、そこへ大きな手をかけられたような錯覚が走った。 レインの喉仏が、一度動く。 「……ルカ」 「うん」 「撤回するなら今だ」 胸が強く鳴った。 それでもルカは目を逸らさない。 「撤回しない」 沈黙が流れる。 やがてレインが、ほんのわずかに目を細めた。 それだけだった。 なのに、自分が何か、レインの決定的なものを解き放ったのだと分かった。 何も言えなかった。 「おいで」 低く告げられたその一言で、膝がわずかに震えた。 怖いからではない。 ずっと待っていたからだ。 レインは欲望を持たない男なのではなかった。 持っていて。 抑えていて。 望まれるまで、ずっと。

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