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序章

 秋晴れの青空が、高く広がっている。  蘇芳文弥は、緊張と興奮に胸を高鳴らせながら、第一志望校である昌泰大学の正門をくぐった。  今日は、オープンキャンパス開催日だ。校内は、すでに多くの受験生で賑わっていた。 「ここが、昌泰大かぁ。うわぁ、写真では何回も見たけど、やっぱ実物はすげぇなぁ。なあ、蘇芳」  蘇芳のクラスメイトの山田徹も、かなり興奮しているようだ。  山田と蘇芳は、ともに高校3年生で、昌泰大学を第一志望としていた。  情報に疎い蘇芳は、オープンキャンパスが開催されることを、山田が誘ってくれるまで知らなかった。もっとも、山田が誘いたかったのは、蘇芳の隣の席の宮下亜紀だったらしい。蘇芳を誘うふりをしながら、しっかり宮下も誘うことに成功したようだった。  宮下も来る予定だったが、急用ができたとの連絡が入った。山田は宮下に好意を寄せているらしく、行きの電車内では、ずっと愚痴を漏らしていた。  受付で渡されたパンフレットを見ながら、山田が蘇芳の腕を掴んだ。 「化学研究会主催の実験コーナー、面白そうじゃん。行ってみようぜ」 「え? いや、僕、文学部志望なんだけど……」  理学部志望の山田にとっては興味深いコーナーかもしれないが、文学部志望の蘇芳には、関心の欠片もなかった。 「別にいいだろ。見学するくらい。行こうぜ」  山田は蘇芳の腕をぐいぐいと引っ張る。蘇芳もやむなく、一緒に実験コーナーに行くことにした。 「〝オランダの涙〟っていう、強化ガラスを作る実験だって。面白そうじゃね?」  ――まあ、それだったら、大丈夫か。  解剖実験といった、血を見る類だったらどうしようかと、内心焦っていた。その手の実験に参加するのは、蘇芳にとっては自殺行為に近い。  蘇芳には、誰にも知られたくない性癖があった。  文学部心理学科を志望しているのも、心理学を学べば、もしかすると解決の糸口を掴めるかもしれないと思ってのことだった。 「あ、ここだ」  山田が指さす先には、段ボール箱で作られた、大きな看板が置かれていた。看板には、いわゆるデコ文字で「化学研究会主催 オランダの涙を作ってみよう!」と書かれ、既存のアニマルキャラクターを真似たイラストが描かれていた。化学研究会という、いかにもお堅そうな名称と、この看板から受けるイメージがあまりにもかけ離れすぎて、蘇芳は小首を傾げた。 「遠慮なく入ってよ」  にゅっとドアから顔を出した男子学生が、やや強引に蘇芳たちを部屋に招き入れた。その傍らに座っている女子学生が、軽いウェーブのかかった茶色い髪を掻き上げながら微笑んだ。 「やだぁ。ごめんね、この人、強引で」  勝気そうな瞳に、長い睫毛が印象的だ。  ふたりは蘇芳たちが室内に入って来たのを見届けると、入り口の脇に置かれた椅子に座って雑談を始めた。化学研究会に所属する学生と思われるが、白衣のボタンを閉めずに羽織っている様子が、少しだらしなく見えた。 「なあ、なあ、今の女の人、チョー可愛くね?」  山田が小声で囁いた。華やかな雰囲気と、勝気そうな目が、どこか宮下亜紀に似ていた。山田の好みのタイプなのだろう。 「……まあ、綺麗だよね」  気のない返事をしたにも拘わらず、山田は何を思ったのか、蘇芳の背中をドンと叩いた。 「なんだよー、おまえ、鼻の下が10センチくらい伸びてるぞ」  山田の声が大きかったせいか、一斉に視線が山田と蘇芳に集まった。女子学生は、はにかむような表情で蘇芳を見つめた。蘇芳は思わず俯いた。  気まずい雰囲気を感じ、蘇芳は教室を出ようとした。だがその時、開始時刻になったらしく、すかさず白衣の男子学生がドアを閉めた。  白衣の二人は、教壇に立った。マイクを握ったのは、女子学生だった。 「みなさん、こんにちはー。あたしたち、化学研究会に所属する、理学部2年生です。あたしは、大島美鶴っていいます。隣は、石川健太です。今日は一緒に、楽しく学びましょう。この大学に入学したら、ぜひ化学研究会に入ってくださいね。理学部以外の人も、大歓迎ですよー」 「美鶴ちゃんだって。名前まで可愛いじゃん」  山田がにやにやしながら呟いたが、蘇芳は聞こえないふりを決め込んだ。 「これから作るのは、〝オランダの涙〟って呼ばれている、溶かしたガラスを冷水に落として作るガラス玉です。雫の形をしていて、綺麗なんですよー。でもね、綺麗なだけじゃなくて、すっごく不思議なガラス玉なんです」  美鶴はホワイトボードにおたまじゃくしのような形の物体を描き、丸い部分を指さした。 「雫の形の丸い部分、おたまじゃくしでいえば頭の部分は、ハンマーで叩いても割れないほど強固なんです。なのに……」  美鶴の指先が、尻尾のほうに動いた。 「尻尾の部分は簡単に折れちゃうんですけど、この尻尾の部分を折ると、めちゃくちゃ硬いはずの頭の部分まで、全体が粉々に砕け散ってしまうんですよー。不思議でしょ、ね?」  偶然目が合った蘇芳に、美鶴は微笑みかけた。困惑する蘇芳を尻目に、山田が「えー、マジっすか? すげー」と声を張り上げた。 「じゃ、早速やってみましょう」  美鶴は慣れた手つきで、ガラス棒をガスバーナーで斜め下から炙り始めた。すると、ガラスが溶けだし、糸を引きながら、水が入ったガラスビーカーに落ちた。  見学者から歓声が上がった。  だが、蘇芳はあまり興味が持てなかった。  ――みんな、楽しそうだな。当たり前か。理学部志望の人しかいないんだろうな。なんか、場違いだったかも……。  物思いに耽っていると、突然、爆発音と悲鳴が響いた。びっくりして教壇に視線を向けると、ガラスビーカーが木っ端みじんに割れていた。  実験をしていた美鶴は、床に蹲っている。  石川が、慌てて美鶴に駆け寄った。 「おい、美鶴。大丈……、うわっ、ざっくり切れてるじゃん」 「……大丈夫……だから」  美鶴は呻くような声で答えた。だが、ビーカーの破片で切れたのか、美鶴の白衣の袖が赤く染まっている。  血の匂いが、教室中に広がった。  蘇芳の頭の中が、ぐらりと揺れた。胸が締め付けられるように痛む。目の前が、赤色に染められたような気がした。  無意識に、血に向かって足を踏み出しかけたその時、突然ドアが開いた。その音で、蘇芳はなんとか正気を取り戻した。  ――落ち着け、落ち着くんだ。  蘇芳は必死で自分に言い聞かせながら、呼吸を整えた。  ドアを開いたのは、ラフな格好をした二十代半ばくらいの男だった。妙に威圧感が漂うオーラと、いささか鋭すぎる瞳が印象的だ。美形の部類に入るのは間違いないが、気安く声を掛けられるような雰囲気ではなかった。  ――でも、嫌いじゃないな。  蘇芳は同性に恋愛感情を抱いたことはないが、なぜか尊大なタイプに惹かれる傾向がある。今までも、生徒から忌み嫌われている高圧的な態度の教師とか、下級生をいびるクラブの先輩などに、妙に懐いてしまったことがあった。 「え、紺野さん……? どうしてここに……?」  石川が、警戒心と困惑と恐怖が綯交ぜになったような声で呟いた。 「何があった?」  紺野と呼ばれた男は、石川と美鶴を見下ろしながら、詰問口調で問いかけた。 「……いえ、別に何も……」  石川が、震える声で答えた。  紺野の視線が、血に汚れた美鶴の白衣を捉えたように見えた。  だが、紺野は興味なさそうに視線を外すと、呆然と立っている見学者たちを見回してから、再び石川に視線を戻した。 「保護メガネは?」 「……え? あ、いや、その……、見学の人たちとは距離を離して実験してましたし……」 「見学者に事故があったら、どう責任を取る気だ?」  畳み掛けるような口調に、石川は言い返す言葉に詰まらせたようで、逃げるように俯いた。  「なぜガラスビーカーを使った? 強化ガラスが爆発四散したら、実験容器が破損する可能性があることくらい、想像できないのか?」  石川はもはや反駁する気力の欠片もないようで、紙のような顔色で、肩を竦めて俯いている。  そんな石川の態度に苛立ったのか、美鶴が顔を上げると、紺野を睨みつけた。 「強化ガラスの破片は、鋭角にはならないでしょ。だから、ビーカーが割れるなんて、普通、ありえないじゃないですか」  紺野は冷めた目で応酬した。 「ありえない? では、なぜビーカーは割れた?」 「それは……っ」  美鶴が悔しそうに拳を握りしめた。  途端に傷口から血が噴き出し、血の匂いが濃くなった。  ――あっ、まずい。  蘇芳は自分の掌で口と鼻を塞いだ。  だが、もう手遅れだった。血の匂いは容赦なく蘇芳の頭を酔わせ、誘惑して来る。  ――血……。血……、血…。  蘇芳の心臓が、早鐘を打つように鳴り響く。肩で息をしながら、蘇芳は獣のような呻き声を上げた。  濁流のように、何かが込み上げてくる。  ――あの血を啜りたい……! 「蘇芳? どうしたんだ?」  山田が怪訝な顔で、訊ねてきた。 「おい? どうしたってんだよ? おい?」  山田の声が大きくなった。叫ぶように何かを言ったようだ。その声には、得体の知れないものへの恐怖が滲み出ていた。  だが蘇芳には、山田に答えるほどの余裕はなかった。息を荒くしながら、血に向かって突進しようとしていた。  その時、誰かが強い力で蘇芳の肩を掴んだ。振りほどこうともがいたが、相手の腕はびくともしない。  ――山田じゃない? 誰だ?  顔を上げかけたその時、重低音の落ち着いた声が耳朶を打った。 「顔色が悪いな。迷走神経反射か?」  その声に、蘇芳は驚いた。  ――え? 紺野って人の声……だよな?  恐る恐る顔を上げると、端整な相貌が目に映った。  ――どうして、この人が?  頭の中は混乱しているものの、紺野の落ち着いた表情と力強い腕に安堵を覚えたのか、風船から空気が抜けるように、蘇芳の体から力が抜けていった。 「歩けそうか?」  今、辛くも立っていられるのは、紺野の腕に支えられているからだ。腕を離されたら、崩れるように床にしゃがみ込んでしまうだろう。歩くことなど、到底できそうになかった。  蘇芳は小さく首を横に振った。 「そうか」  膝の辺りに触れられたと思えば、次の瞬間、体がふわりと浮き上がった。 「えっ? あの」  蘇芳は、自分が横抱きに抱き上げられている状況に慌てた。いわゆるお姫様抱っこだ。こんなことをされたのは、初めてだった。 「ちょっと……、下ろしてくださいっ。歩けますから」 「おとなしくしなさい」  有無を言わせない威圧感のある口調に、蘇芳は怯んだ。 「……すみません」  抵抗を止めると、紺野は僅かに笑った。 「素直だな」  紺野は蘇芳を抱き上げたまま、教室を出た。山田をはじめとする、教室にいた人たちが、どんな顔で蘇芳を見送ったのかは分からない。蘇芳は恥ずかしさのあまり、彼らに目を向けられなかった。              *  紺野は蘇芳を抱いたまま、無人の廊下を歩いていく。蘇芳を下ろそうとする気配は全くなかった。 「あの……、どこに行くんですか?」 「救護室も設けられているはずだけど、研究棟のほうが近いから」  紺野は渡り廊下を通って別の建物に移ると、その中の一室に入り、蘇芳をソファの上に下ろした。仮眠で使うことがあるのか、ブランケットがソファの隅に置かれている。テーブルや電子レンジ、冷蔵庫が置かれているところを見ると、談話室か休憩室といった類の部屋なのだろう。 「横になるなら、靴を脱いでくれるか?」 「あ、いえ、大丈夫です」  蘇芳は慌てて首を横に振った。すでに興奮は冷めていた。 「しばらく、ここで休んでいたらいい」  落ち着きはしたものの、まだ普通に歩けるほど回復していなかった。蘇芳はありがたく、その言葉に従った。 「よかったら」という言葉とともに、蘇芳の前に紙コップが置かれた。温かい飲み物のようだ。  ――部外者なのに、こんなに甘えてしまっていいのか?  そんな戸惑いがなかったわけではないが、バニラの甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐった瞬間、どうでもよくなった。 「いただきます」と小さく告げてから、蘇芳は紙コップに手を伸ばした。  ひと口含むと、口の中に、熱さと一緒に、まろやかな甘さが広がる。  ひと口、またひと口と飲むうちに、胸の奥に張りついていた緊張が、少しずつほどけていく気がした。  興奮と緊張のあとに、身体が甘いものを欲しがっていたのだと、ようやく気づいた。  向かいのソファには、いつの間にか紺野が腰を下ろしていた。  紺野は蘇芳に視線を向けるわけでもなく、黙って自分の紙コップを口元に運んでいる。  香ばしい匂いからして、ブラックコーヒーだろう。  ――甘いものが似合う人じゃなさそうだもんな。  そんなことをぼんやりと思いながら、また一口、蘇芳は温もりを口に含んだ。 「君……」  紺野が声を掛けてきたのは、蘇芳がバニララテを飲み終えた後だった。 「はい?」  紺野は、蘇芳の顔をじっと見据えている。紺野の瞳は、まるでガラス球のように無機質だった。それなのに、人の心の底まで見透かすような力が籠もっていた。  蘇芳は耐え切れなくなり、視線を逸らせた。 「……須藤君だっけ?」  ――なんだ、名前を思い出そうとしていたのか。  蘇芳は拍子抜けした。  そういえば、山田が自分の名を連呼していた記憶が、頭の片隅に残っている。確かに「蘇芳」という名字は珍しい。「すどう」に聞こえるだろう。 「いえ、蘇芳です。蘇芳色ってありますよね。蘇芳文弥っていいます」 「……失礼した」 「いえ、よく間違えられますから。蘇芳なんて名字、珍しいですよね」  冗談っぽく軽い口調で言ったにも拘わらず、紺野はにこりともしない。だが、怒っているわけでもなさそうだ。 「蘇芳色……。血の色だな」 「言われてみれば、そうですねぇ。なのに貧血なんて、笑っちゃいますね。僕、血が苦手みたいで。昔からなんですよ。運動会で転んで、自分の血を見て気絶したことあるくらいですから」  紺野の威圧的な雰囲気が怖かった。だが、怖ければ怖いほど、蘇芳は必死でしゃべり続けた。しゃべり続けていると、相手は大抵、態度を緩和させてくれる。特に自虐ネタは有効だ。ひたすら自虐ネタをしゃべり続けるのは、蘇芳なりの処世術だった。  だが、紺野には全く通じないようだった。しゃべればしゃべるほど、ガラス球のような眼差しが、ますます冷たく光った。 「――蘇芳君」  ついに遮るように、紺野は口を開いた。  蘇芳が口を噤むと、瞳の険しさが和らいだ。 「本当に?」 「え?」 「君は、大島美鶴に向かって突進しようとしていたように見えたが」  紺野は無機質な目で、蘇芳の目の奥を覗き込むように、じっと見据えていた。  背筋に冷たいものが走った。蛇に丸呑みされる蛙になったような気がした。 「心配しなくても、君が進んだ距離は1メートルにも満たなかった。傍目には、気分を悪くして倒れかけたようにしか見えなかっただろう」  一瞬安堵しかけたが、すぐに不安が頭をもたげた。  ――傍目には……。この人には、そうは見えなかったってことか。  蘇芳は、紺野の無機質な目から逃れるように、視線を落とした。 「君は、血を舐めたいと思った。違うか?」  蘇芳の頭の中が、真っ白になった。  ここまではっきりと言い当てられるとは思っていなかった。  ――どうして、バレたんだ?  蘇芳は唇をわななかせた。言葉を発することができず、ごまかすことも、認めることもできなかった。だがその狼狽しきった態度が、答えを雄弁に物語っていた。  蘇芳はどういうわけか、幼い頃から血の味と匂いが堪らなく好きだった。大怪我をしたクラスメイトの血を啜ってしまい、大騒ぎになったこともあった。  中学生になってリストカットを覚えてからは、週に一度は自分の手首を切っていた。それでも、やはり物足りなくて、血が欲しくなる。  そんな事情を知ると、友人たちは、一斉に蘇芳から逃げていった。逃げられるだけならともかく、あらぬ噂を立られて、クラスメイトどころか、顔も知らない相手からも、激しい誹謗中傷や陰湿な嫌がらせを受けた。  高校生になってからは、細心の注意と我慢のおかげで、周りに知られることはなかった。おかげで、平穏な生活を送ることができていた。  ――なのに、初対面の人に見破られた?  蘇芳がひどく動揺している状況を、紺野も見て取ったようだ。紺野は苦笑を浮かべると、突然話題を変えてきた。 「そういえば、さっきの〝オランダの涙〟だけど……、どうして強固なのか、説明はあったのか?」 「え? いえ、多分、なかったかと……」  真剣に聞いていたわけではないから自信はないが、そんな説明はなかったはずだ。 「熱で溶かされたガラスを水中に落として急激に冷やすと、表面のガラスは熱で膨張した状態から、元の大きさに収縮しながら固くなるんだ。その時、表面のガラスは外側から内側に力をかける。だが中心に近い部分はまだ熱を持って膨張しているから、外側からの圧力を押し返す。内部に向かって押し込む力と、それを押し返す力の引っ張り合いが起こるんだ。そんな風に、大きな歪みを残した状態で、全体が固まったのが〝オランダの涙〟だ」  紺野は蘇芳のほうを見ずに、口早に説明を続けた。 「普通のガラスは、表面の引っ張り合う力が弱いから、簡単にひびが入るんだけど、このガラス玉の場合、表面に強い力が働いているから、叩いても簡単には割れない」 「はあ……」  なぜ突然、紺野が〝オランダの涙〟の説明を始めたのか分からず、蘇芳は困惑しながら、間の抜けた相槌を打った。 「でも、君も見たとおり、涙型の細くなっている端の尻尾部分を割ると、ガラス全体が爆発して粉々になるという性質がある。尻尾の切断によって内部まで傷が入ることで、引っ張り合いの均衡が崩れてしまうんだ」 「……そうですか」  説明された内容自体は、理科が苦手な蘇芳にも何となく理解できた。だが依然、紺野が何のために〝オランダの涙〟の説明をしているのか掴めない。 「君にとって興味のなさそうな話をしたのは、〝オランダの涙〟が今の君と似ているような気がしたからだ」  紺野は視線をゆっくりと蘇芳に向けた。 「〝オランダの涙〟は大きな歪みを抱えているからこそ、強固さと、ほんのわずかな衝撃で粉々に砕け散ってしまう脆弱さを持ち合わせている。君の内面も、似たような状態のような気がしたんだ。自虐的に話していても、君にはどこか、張り詰めた、頑ななものがある」 「そうですか……?」  蘇芳は小首を傾げた。自虐的とは言われたことがあるが、頑ななどと言われたことは、今まで一度もなかった。  とはいえ、いつも必死で心を張り詰めた状態になっていることは、蘇芳自身、感じていた。 「抑え込み続けると、いつか均衡を崩して砕け散ってしまう、ってことですね」  紺野は一瞬目を見開いてから、満足げに微笑んだ。 「頭の回転が速い子は、好きだよ」 「……えっ、…あ、はあ……」  どう答えていいのか分からず、蘇芳は視線を彷徨わせた。なぜか、頬が妙に熱くなっている。その感触は、不快ではなかった。 「……あの、どうして分かったんですか、僕の性癖……」  恐る恐る訊ねてみると、紺野は面白そうに目を細めた。 「自信があるんだね、自分の演技力に」 「そんなわけじゃ……。でも、僕、そんなに分かりやすい反応しました?」  紺野は悪戯っぽく笑った。 「残念ながら、私も君の反応を見て気付いたわけじゃない。君が大島美鶴の何かに興奮して、我を失ったことは分かったが、それ以上のことは分からなかった。血を欲していると思ったのは、その時の様子と、君の手首の傷跡から、推測しただけだ」  左手首にリストカットの痕が残っていた。だが、腕時計のバンドで隠しているので、ほとんど見えないと思っていた。 「……でも、いつもじゃないんです。ほんのたまに……、血が欲しくなる時が……。あんな風に、急に血を見ると、制御が効きにくいことも……」  非難する気が、説教する気か、それとも憐憫か。  蘇芳は我知らず、身体に力を入れ、身構えるような姿勢を取っていた。  紺野はしばらく思案していたが、ゆっくりと立ち上がった。 「そういうことなら、大島美鶴の血でなくても、問題なさそうだね?」  思いがけない言葉に、蘇芳は耳を疑った。  蘇芳が問いかけるよりも早く、紺野は部屋を出て行ったが、一分もしないうちに戻ってきた。真っ赤な液体が入ったビニールパックのようなものを手にしている。 「何ですか、それ?」 「研究用の血液バッグだよ。人工血液って、聞いたことないか? 私は今、血液からヘモグロビンを抽出して、人工血液を作る研究をしている。家畜の血液とか、使用期限の切れた輸血用の血液を、研究用として実験で使っている。輸血用の血液なら、期限切れであっても、少なくとも、他の人間の血を啜るよりは安全だろう」  まるで飲料水でも手渡すような自然なしぐさで、紺野は血液バッグを蘇芳に手渡した。  紺野は我知らず、喉を鳴らした。だが、受け取ったものの、本当に飲んでいいものか、躊躇われた。 「あげるから、好きにしていいよ」 「……いいん…ですか?」  蘇芳は紺野を上目づかいに見ながら、テーブルに置かれた鋏を使って血液バッグを開いた。    とはいえ、血を啜っている様子を見られるのは、気まずかった。背を向けようとしたが、そんな動きに気づいたのか、紺野の方が席を立ち、窓のほうに視線を向けた。  ――おいしい……。  一旦口に含むと、蘇芳は一心不乱に飲み干した。  飲み終わったあたりで、紺野がソファに戻って来た。 「え? 全部、飲んだんだ?」  紺野は驚いたように、蘇芳と、空になった血液バッグの容器をまじまじと見た。 「……人間は普通、血液の大量摂取に耐えられない。味覚も、内臓も、拒絶反応を示すはず……」  紺野はまるで、新しい玩具に見入る子供のように目を輝かせていた。  そんな紺野の反応が、蘇芳には不気味だった。これまで蘇芳の性癖を知った人間は、皆、恐怖や軽蔑といった、負の感情を顕わにした。 「……どうして、そんなに平然としてるんですか? 気持ち悪くないんですか?」 「君こそ、気持ち悪くないのか? 吐き気とか……、本当に大丈夫なのか?」  何か噛み合わない会話に、蘇芳は悲鳴のような声を上げた。 「そういうことじゃなくて、血を飲む奴なんて、不気味じゃないですか! 人間として許されることじゃないとか、思わないんですか?」  紺野は、興味深そうに蘇芳を見つめた。 「君は、誰からの許しを求めているのか?」 「えっ……。誰と言われても……」  血を飲むという行為に罪悪感を覚えるという感情に、紺野は思い至らない様子だった。  蘇芳は、質問を変えた。 「じゃあ、どうして僕を助けてくれるんですか?」  一瞬目を見開いてから、紺野は噴き出した。 「助ける? そんな気は全くないよ。単に興味を感じただけだ」  悠然と笑みを浮かべる紺野に、蘇芳はいささか拍子抜けした。 「話を聞いた段階では、舐めたら気が済む程度だろうと思ったのだが、まさか本当に飲むとは思わなかった。ますます興味が湧いてきたよ」  ――この人にとって、僕は実験動物みたいなものか。  だが、不思議と腹は立たなかった。むしろ、変な同情をされるよりはずっとよかった。もっとも、この手のタイプの人になら、変態と罵られてもいいような気はするが。 「さっき、ほんのたま、と言ってたけど、具体的にどれくらいの頻度を指すのか?」 「……週に1回くらい……ですか?」  週に1回を「ほんのたま」とは言わないだろうと思いながらも、蘇芳は小さく呟いた。 「週1か……。まあ、それくらいなら、廃棄が出そうだな。じゃあ、毎週金曜日の夕方、ここにおいで。血液バッグをあげるから。その代わり、リストカットは禁止だ」  紺野は蘇芳のジャケットをまさぐると、忍ばせていた、折り畳みナイフを取り上げた。 「えっ? どうして……」  ――どうして、ナイフ持ってることまで気づくんだ? この人、どれだけ勘がいいんだよ?  どうしても血が欲しくなった時、ナイフさえあれば、いつでも飲むことができる。滅多に使うことはないが、蘇芳にとってお守りのようなものだった。そんなに簡単に取り上げられては困る。 「それは、僕にとってお守りみたいなもので……。うーん、あ、そうだ。死んだ母の形見なんです。だからちょっと……」  苦しい言い訳だが、嘘ではなかった。  母は蘇芳が幼少期に病死し、気が動転した父は、母の遺品の大半を処分してしまった。このナイフは、母の実家にあった、母が使っていたという裁縫箱の中に入っていた、数少ない母の遺品なのだ。 「ふーん、そうなんだ? でも、いつでも、リストカットできるように持ち歩いてるんだろ? そんなことをしていて、お母様が喜ぶと思うか?」  蘇芳は、反論ができなかった。ナイフを取り返すことは、諦めざるをえないらしい。 「ナイフの代わりに、これを貸してあげよう」  カードキーを蘇芳に翳して見せると、ナイフが入っていたポケットの中に入れた。 「理学研究棟のカードキー。これを使って、入っておいで」   こんな突拍子もない申し出に、躊躇する気が全くなかったわけではない。だが、紺野の威圧的な雰囲気に圧倒されてしまったのか、蘇芳は無意識のうちに、頷いていた。

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