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第1話

 どこまでも場違いなような気がしたが、一度門をくぐったが最後、ヴィンセント・ラッセルに戻る道などハナから用意されていなかった。素足で歩くのが申し訳ないほど柔らかい絨毯を進み、ヴィンセントは晩餐会の会場を探した。このとてつもなく大きく豪華絢爛な屋敷の中をヴィンセントはひとりで歩きながら、壁に設えられた肖像画や値が張りそうな調度品を視界に捉えた。何十年何百年稼いだとしても手の出せない代物である。触るくらいいいだろうとも考えたが、ヴィンセントは邪な気持ちを追いやり、そして屋敷のほぼ中央にある食堂にたどり着いた。  黄金に彩られた豪奢な扉に触れてもいいのだろうか。ヴィンセントは立ち止まり、周囲を見渡した。これほどの屋敷ならば使用人がいてもおかしくないはずなのに、敷地内に入ったときから、いやもっと前、今宵の晩餐会への招待状を運んできた若い従者のような男を最後に、ヴィンセントは使用人をひとりたりとも見ていなかった。  屋敷に見合うだけの男ならば、来賓である以上、堂々と扉を開けるだろう。恥じる必要はない。だが、今のヴィンセントはこの場にふさわしくないみすぼらしい容姿をしていた。 もじゃもじゃに伸びっぱなしの赤髪は皮脂やほこりがまとわりつき、髭ももう何日も剃っていない。もちろんシャワーなんて贅沢なものは浴びられなく、たまに河で沐浴をするが、それは真冬のロンドンでは難しい話である。着ているものも粗末なぼろ布で、お気に入りのブーツは先日、ついに両足とも底が抜け、とてもじゃないが履けやしない。ホームレスと呼ばれる生活をするようになってから二十年近くが経つ。ヴィンセントの半生はたいがいなものだが、若い頃よりも今のホームレス生活のほうが妙に彼の性に合った。ヴィンセントのもとに謎の晩餐会への招待状が届いたのは、つい二日ほど前のことだった。      ◇ 『今宵、薔薇屋敷にて生活困難者を対象とした晩餐会を執り行う』  招待状を届けた若い男はフードを被っていたため顔は見られなかったが、声の感じから高貴な生まれであることはわかった。薔薇屋敷といえばこの界隈で知らない者はいないほどの有名な屋敷だが、あくまでそれは噂であり、実際に屋敷を見たことのある人間は――少なくともヴィンセントの仲間内では――誰もいなかった。一年中薔薇が咲き誇っている、屋敷の主人はいつまでも歳を取らない、屋敷に入った者は二度と帰ってこないなど、オカルティズムな噂が多いのも薔薇屋敷の特徴であった。  招待状を手渡されたとき、ヴィンセントは断ろうと思っていた。あたたかい食事にありつけることは嬉しいが、見知らぬ他人からの怪しげな施しを受け取れるほど精神面は落ちぶれていなかった。何よりも場違いだ。優美な屋敷に着ていく服もないし、身なりを整えられる環境にもいない。もちろん金もない。 『せっかくの機会だが、私は――』  ヴィンセントが断る姿勢を見せると、若い男がそれは許されないとばかりに強引に彼の手に招待状を握らせ、そして去っていった。ヴィンセントは彼の行動にあっけにとられ、しばらくその場に立ち尽くした。手元に残された招待状を見て、ヴィンセントは眉をひそめた。封蝋に印璽(いんじ)された家紋に見覚えがあるような気がしたのだ。しかしどこで見たのか、誰の家紋なのか、まったく思い出せない。そもそもヴィンセントが社交界とのつながりを持っていたのは、今から二十年ほど前の話なのである。ヴィンセント自身も元は高貴な生まれであったが、彼のもとに不幸が訪れてから没落の一途をたどったのである。      ◇  ――私は招かれるべきではない。扉に触れようとするだけでも、がくがくと震えてしまうのだから。  ヴィンセントは自らの過去を振り返り、そして黄金の装飾に映りこむ現在の姿に落胆する。どこまでも無様で醜い男だ。薔薇屋敷の主人に突き返される前に自ら身を引くべきだ。やはり帰ろう。ヴィンセントが身を返そうとしたそのとき、目の間の扉が音もなく内側から開いた。ヴィンセントは我が目を疑った。扉の裏に誰かいるのだろうか。気になって回りこんだが、そこには誰もいなかった。やはり気のせいだったのだろう。自分を納得させようとしたヴィンセントだったが、食堂の中央に設えられたテーブルの上に奇妙な違和感を見つけてしまった。 「どういうことだ……?」  思わずひとりごちる。巨大な長テーブルの上に用意されたカラトリーはふたり分しかなかったのである。これだけ大きな屋敷だから晩餐会に招待されたホームレスは大勢いる。自分もその中のひとりだろうとヴィンセントは思っていたのだが、それは間違いだったらしい。だがそう考えるとますます自分ひとりが招待された理由がわからない。薔薇屋敷のことは噂程度にしか知らないし、主人に招待されるほど自らの存在が知れ渡っているとも思わない。もちろん、世の中のために奉仕活動をして表彰されるような特殊なこともしていない。自分は一介のホームレスにすぎないのだ。生まれは少しばかり裕福だったかもしれないが、それは二十年以上昔の話であり、没落してからは貴族という過去の称号はむずがゆい垢のようなものでしかなかった。早く退散しよう。踵を返そうとしていたヴィンセントに背後から声がかけられたのはそのときだった。 「ようこそ、ラッセルさん。我が屋敷へ」  耳心地の良いテノールがヴィンセントの動きを止めた。どうして姓を知っているのだろう。とうの昔に捨てたはずのファミリーネームで呼ばれ、ヴィンセントの胸がきりりと痛む。この男が薔薇屋敷の主人なのだろうか。威厳はあるもののどこか幼い声色だ。無反応は失礼にあたると思い振り返ったヴィンセントは目をしばたかせた。圧倒的な美が存在していたのだ。 「あなたが薔薇屋敷の……?」 「薔薇屋敷だなんておおげさな。そんなたいそうなものではありません」  主人は憂いを帯びたブルーの瞳でヴィンセントをとらえた。彼はまだ二十代半ばのような出で立ちであり、少なくともヴィンセントの半分も生きていないだろう。やわらかい絹のようなブロンドを優雅になでつけ、高貴な額をあらわにしている。ビスクドールのような美貌は色恋に疎いヴィンセントでさえ圧倒した。 「さあ、どうぞお席へ。あなたのために特別なディナーを用意したのです」 「招かれたのは私だけなのですか?」 「言ったでしょう。〝特別〟だって」  主人はヴィンセントの腰に手を回し、彼を席まで誘う。隣に立つと主人の背はヴィンセントよりも高かった。食卓へ着く間、ヴィンセントはまだ主人の名を聞いていないことに思い至ったが、それを聞くのははばかられた。見目は麗しいが他人を寄せつけない雰囲気を彼は持っていたのである。ヴィンセントの椅子を引きながら、主人は怜悧な微笑を浮かべた。ヴィンセントは彼の真意が読み取れなかった。  料理は主人自らが食卓まで運んだ。この屋敷には本当にひとりも使用人がいないのだろうか。屋敷の門をくぐったときに抱いた疑問がヴィンセントを再び取り巻いた。否、ひとりいるではないか。ヴィンセントに招待状を届けた男だ。彼は若く、顔をフードで隠して――。ああ、そうか。この男こそ目の前の主人そのものなのだ。ヴィンセントはあのとき聞いた声を脳内で再生してみる。背格好から見ても同一人物である可能性は高かった。 「――何を考えているのです?」  銀食器が皿を打つひび割れた音がヴィンセントの思考を呼び戻した。無作法をたしなめる立場にないものの、さすがに失礼ではないかとヴィンセントは眉をよせた。 「……あなたはこの屋敷にひとりで暮らしているのですか」 「両親は死にました。今は僕だけです」 「あなたのお世話をする人もいないのですね」  ヴィンセントの棘を主人は感じ取ったようだが、それを口にするほど子供でもなかったらしい。 「使用人はみな解雇しました。この屋敷には僕しかいません」  慣れた手つきで大皿からシチューを取り分けると、主人は席に着くことはせずヴィンセントの隣に立ち、彼にワインを勧めた。 「さあ、召し上がれ」 「本当にいいのですか。私はあなたに不似合いの男なのですよ」 「ラッセルさん。あなたは特別な人だ。この食卓に着く意味がある」 「は、はあ……」 「さあ、シチューをひとくち。時間をかけて柔らかく煮こんだ肉に芳醇なワインがよく染みていて美味しいですよ」  主人は自らスプーンを手にシチューをすくい、戸惑い顔のヴィンセントの口元に運ぶ。ヴィンセントは固まった。鼻をつく匂いは求めていた美食とまったくかけ離れていたのである。ワインや香料で隠してあるとはいえ、その奥に潜む生臭さは誤魔化しきれていない。無意識のうちにヴィンセントは鼻を覆っていたが、その些細な動作が主人の癪に障ったらしい。 「ラッセルさん、マナーがなっていない。主人のもてなしを受け入れられないと?」 「ちっ、違うのです。私は――」 「食べてくださいますよね。僕があなたのために用意した特別なディナーなのです。さあ、召し上がれ」  主人は皿の中をぐるぐるとかき混ぜ、ひときわ大きな肉の塊をすくい上げた。たしかに美味しそうに煮こまれているが、所見の生臭さが災いし、どうしても口に運ぶことができない。しかし主人はヴィンセントの迷いを見抜き、そのうえでスプーンを押しつけてくる。ヴィンセントに拒むという選択肢は残されていなかった。おそるおそる口を開けると、主人は優しくも強引な力で煮こまれた肉の塊を押しこんだ。ヴィンセントは舌に乗せられたそれをなるべく咀嚼しないように飲みこもうとしたが、のどの奥から生理的嫌悪感がこみ上げてくる。吐き気をこらえるためにヴィンセントは固く奥歯を噛みしめた。それがいけなかった。煮こみ肉にふさわしくないゴリっとした食感がしたのである。吐き出すよりも飲みこんでしまおうと努力するも、ごりごり、ごりごりとした不快な食感には勝てず、ナプキンの中に吐き出してしまった。何を食べたんだ。これは肉なんかじゃあない。ヴィンセントはナプキンの中を覗きこみ、それが何かを認識した途端、絶叫した。シチューの具材として使用された肉の正体は――人間の指先だったのである。 「ラッセルさん、どうしましたか。気分でも悪いのですか?」 「まさか、そんな、指が……人間の指が、どうして……っ」  人肉を口にした衝撃におののき思わず椅子から転げ落ちて震えているヴィンセントをよそに、薔薇屋敷の主人は片手にシチューの皿、片手にスプーンを持ち、うずくまる来賓に近づいた。 「ねえ、ラッセルさん。僕のもてなしは気にくわないかい?」 「ち、ちがう……ただ、ただ指が、ひ、人の指が――」 「僕があなたのために特別に用意したのですよ」 「こんなもの食べさせるなんてあなたはおかしい!」 「あなたの仲間たちに失礼なこと言いますね」 「仲間? 何を言っているんだ」 「今宵の晩餐会に招待したのは君だけだと僕は言ったかな?」 「……っ、まさか」 「でもあくまで主賓は君。君と僕だけ。席に戻ってラッセルさん。コースはまだ終わらないよ」  主人の手がヴィンセントの肩に触れた。ぞわりと背筋が凍るような悪寒を覚えた。この屋敷はおかしい。薔薇屋敷の主人もおかしい。逃げ出さなければ。そう思い至ったヴィンセントは考えるよりも先に主人の身体を押しのけ食堂から走り去った。跳ねのけた瞬間、主人は驚いた表情を見せたが追ってくるようなことはなかった。  食堂は薔薇屋敷のほぼ中央にある。ここにたどり着くまでに迷いはしたものの、実際はアプローチから直線に進んだ先にあった。ならば帰りも同じように戻ればいい。そう考えたのが間違いだとヴィンセントは憎らしいほどやわらかい絨毯が敷かれた廊下を三往復して気がついた。完全に迷った。出口がどこにあるのかわからない。いっそ窓から抜け出そうと考えたが、まずは幾重にも入りこんだ廊下から抜け出さないことには話にならなかった。ヴィンセントは息を切らしながらも、怪しげな主人から逃げ出すために懸命に出口を求めて走った。彼が追いかけようとしなかった姿勢が恐ろしい。きっと主人はわかっていたのだ。ヴィンセントがけっして逃げ出せないことを。  ヴィンセントは目に入る扉という扉をすべて開けて中へ飛びこんだが、いつの間にか元いた廊下へ戻ってきてしまう。屋敷の構造がまったく理解できない。混乱と恐怖に押しつぶされそうになり、ヴィンセントは叫んだ。半狂乱になりながらあてもなく走り続け、ようやく見覚えのある場所へたどり着いた。薔薇をモチーフにした印象的なレリーフ。玄関だ。この両開きの扉をくぐればあの男から逃げ出して元の生活に戻れる。歓喜に包まれたヴィンセントは勢いよく扉を開き――そして絶望した。 「おかえり、ヴィンセント」  外に通じるはずの扉の出口は忌まわしき主人が悠然と待ち構える食堂へと繋がっていたのである。 「散歩は楽しかったかい?」 「どうしてあなたが……私は外に出たはずなのに」 「ヴィンセント。この屋敷内で君が自由になれる場所などどこにもないよ。さあ、こちらへ来なさい。食事の最中に席を立つだなんて、まったく君らしくない」 「あなたはいったい何者なのですか? この奇妙な屋敷はどうなっているのです?」  ヴィンセントは膝から崩れ落ちた。理解の範疇を超えた奇怪な出来事の数々に、ヴィンセントは翻弄され、肉体的にも精神的にも大きなダメージを負った。何もかもがわからない。何が正しくて、何が間違っているのか。きっと悪い夢だ。そう思いこむことで自身を納得させようとしたヴィンセントの肩に、薔薇屋敷の主人がそっと手を置いた。 「ヴィンセント……」  ぞわりと悪寒が走り、ヴィンセントは彼の手を振り払おうとしたが、ある違和感がその行為を押しとどめた。 「どうして、私の名を――」  招待したのだから知っていて当然だろうが、それだけの理由で片づけられないほどの引っかかりをヴィンセントは感じた。その答えは見上げた先にあった。 「――ティモシー……あなたはもしかしてティモシー・マクグラスなのですか?」 「昔はそんな呼び名じゃあなかっただろう。ねえ、ヴィンセント。僕は誰?」 「……ティム」  彼の名を口にするのは実に二十年ぶりのことだった。ティモシー・マクグラス。かつて親友だった男。そして二度と会えないと思い、その存在を忘れようとした男。ヴィンセントが生まれるずっと昔からラッセル家とマクグラス家は家族ぐるみの付き合いがあり、それは彼らの息子が生まれても継続された。幼少期の記憶からティムと別れた二十年前まで、彼との思い出が走馬灯のように駆け巡り、気づけばヴィンセントは大粒の涙を流していた。 「泣くほど僕に会いたかったのかい?」  ティムは絵になるほど優美なしぐさでチーフを取り出し、ヴィンセントの涙を拭った。彼はただされるがままだった。奇妙な悪夢はいまだにヴィンセントを縛りつける。どうしても受け入れがたい事実がヴィンセントを苦しめた。 「さあ僕の手を取って。立つのだ、ヴィンセント。いつまでも泣かないでくれたまえ」 「ティム……私にはどうしてもわからないことがあるのだ。どうか答えてくれ」 「いいよ。何でも聞いてくれ。でもその前にディナーの続きを」 「違う。違うよ、待ってくれ……」  ヴィンセントが抵抗するとティムは穏やかに微笑んだが、絶対的に抗えない力で彼を立ち上がらせ、有無を言わせずに晩餐会の席に連れ戻した。そこには指先入りのシチューがそのままにされていた。吐き気をもよおしたヴィンセントを気遣う素振りを見せたティムに、彼はきつくあたった。 「私に構わないでくれ、ティム! ああもう、まったく、君はどうして……どうして――」  その先を言うのははばかられたが、当のティムが視線でうながした。 「――君はどうして歳を取らないのだ?」  薔薇屋敷の主人として現れたティモシー・マクグラスはヴィンセントの記憶が正しければ、最後に会った二十年前の若く美しい姿から時が止まっていたのである。 「私はこの通り老いた。当たり前だ、あれから二十年も経ったのだから。なのに、君はどうしてあの頃のままなのだ?」 「ねえ、ヴィンセント。どうしてだと思う? 君と別れてからしばらくして、僕は歳を取らなくなったのだ」 「私と?」 「でもね、僕は思うのだ。僕は僕の容姿を気に入っているからね。いつまでもこの美しさを保っておけるのならば、それは何よりも喜ばしいことであるとね。ヴィンセント。いつか君と再会したときに、君は僕を見て喜んでくれると信じていた。なかなか思ったとおりに事は運ばなかったが。さて、ヴィンセント――」  ティムはぐっと声をひそめ、ヴィンセントの注意を引いた。彼の青い瞳をとらえた途端、ヴィンセントは全身を鎖で絡めとられたような拘束感を覚えた。椅子から立ち上がろうとするが、神経を断ち切られてしまったかのように指先すら動かすことができない。ティムの細くしなやかな指がヴィンセントの頬に触れる。 「――今度は僕が質問をしよう。ヴィンセント。君はどうして年老いてしまったのだい? 僕も美しいが、出会った頃の君はもっと美しかった。そうだろう、ヴィンセント。かつての面影はどこにもない。君はすっかり歳を取り、そして醜くなってしまった。これを悲劇と呼ばずして何を悲劇と呼べばいいのだろうか……」  ヴィンセントはティムの主張をひとかけらも理解できなかった。外見に関してはみすぼらしい自覚はあるが、現在のホームレスという身分にしては上等であると思っている。だが老いに関しては人間という生き物である以上逃れることはできない。誰も彼も年齢を重ねるごとに老いていくことは普通のことなのだ。 「ああ、ティム……やはり今の君は私の知っている君ではない。人は歳を取る生き物だ。それなのに君は、君という男は……」 「僕を信じられないというの? それならば君を信じさせるまでだ」  そういうとティムはおもむろに服を脱ぎ始めた。ジャケットを取り去り、シャツの前ボタンをひとつずつ開けていく。ティムの上半身がヴィンセントの眼前にあらわになった。彼の肌はやはり陶磁器のように白く滑らかであったが、その作り物じみた美しさが恐ろしかった。 「今宵の晩餐会は君のために開いたのだ。僕は君と再び会える今日という日を心待ちにしていたのだ。君のことを愛しているから」 「君が私を……?」 「それほど驚くことかい? ヴィンセント、君だって私を愛しているだろう」  ティムは完璧な笑みを浮かべながら食卓に設置されたカラトリーからナイフを選び、鋭い刃先をヴィンセントに見せつけた。 「何を考えているのだ……馬鹿な真似はやめてくれ」  きらりと光ったナイフに恐怖におびえ青ざめたヴィンセントの顔が映る。 「震えているのかい? 安心したまえ。僕が君を傷つけるとでも思ったのかい、ヴィンセント。僕は君を愛しているから。君に無償の愛を授けたいと考えるのは普通のことだろう?」  次の瞬間、ティムは自らの腹にナイフを突き立て、そのまま真下に切り裂いた。噴き出す血の勢いにかぶさるようにヴィンセントは悲鳴を上げた。ティムの血は黒く、とてもこの世のものとは思えなかった。ヴィンセントはこの場から逃げ出したかったが、どうしても身体が動かず、どくどくと流れ出るティムの血をまざまざと見せつけられた。 「ねえ、ヴィンセント。先ほど君は僕の料理を拒否したけど、あれはいいのだ。本当に特別なのはこれからだから」  ティムは切り開いた腹に両手を突き刺し、めりめりと中身をまさぐった。彼は涼しい顔で自らの腹をえぐっていき、やがて何かを取り出してヴィンセントに見せた。ヴィンセントは直視しようとしなかったが、ティムの奇妙な力で目線を固定され、まばたきすら許されなかった。真っ黒な血に染められたそれは不気味なほどゆっくりと脈を打ち、体内から切り離された後も鼓動を刻んでいた。 「僕を食べて……」  ティムは手のひらに包んだそれをひとくち食べた。それからヴィンセントの口元に持っていき、言った。 「ヴィンセント。僕は君を愛しているから、僕と同じ世界で暮らしてほしい。そうすれば君はもう老いることはない。君が望めばあの頃の美しい君に戻ることだってできる。ずっとふたりで暮らしたい。お願いだ、ヴィンセント。どうか僕の願いを受け入れてくれたまえ。二十年だぞ。僕はひとりで寂しかった。どうしても君を見つけることができなくて。君はこの世にいないのかと思ったのは一度や二度じゃない。ヴィンセント、怖がらないで。僕はずっとティムだ。君だけのティモシー・マクグラスなのだ。そして君は僕にとって唯一の愛する人だ。君のためならこの身を切り裂ける。言葉通り、僕のすべてを君に捧げる。だからお願いだ、ヴィンセント。僕を食べて……」  それが唇に触れたとき、ヴィンセントの精神は崩壊した。      ◇  土色になった泡をすすぎ落すと、その下に現れたものは柔らかな赤毛だった。他人の髪を洗う立場になるなんて、二十年前だったら考えもしなかったが、その対象が恋人なら話は別物だ。ティモシー・マクグラスは絡まりやすい彼の髪をほぐしながら、丁寧に乾かしていく。肩よりも長い彼の髪は毛先が荒れていて、お世辞にも綺麗だとは言えなかった。今が切り時だろう。ティモシーは恋人を寝室へ運び、ベッドの上に横たわらせる。彼は起きてはいるが意識はどこかへ飛び去ってしまった。すっかり抜け殻のようになってしまったけど、彼の存在を常に感じられるだけでティモシーは幸せだった。 「ちょうどいい機会だ。君の髭も剃り落そう。そのほうが君にずっと似合うと思う」  独り言が増えたのは歳のせいだろうか。そんな自分の変化にもティモシーは笑えるようになった。孤独に耐えていた二十年間が嘘のように、今のティモシーは薔薇のように優美で色鮮やかな毎日を過ごしていた。  彼の髪をあの頃のように短く切り、顔の半分を覆っていた髭を剃り落とす。 「ああ、ヴィンセント。僕の愛するヴィンセント・ラッセルが戻ってきた……」  ようやく手に入れた愛しい人を、ティモシーは宝物のように扱い、かたときも放そうとはしなかった。

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