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第1話

 ――〝フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー〟。  誰かが、其の名前を呼んだ。  唯、個人を識別する為の〝名前〟という記號を、事実の儘、音として發するだけの行為。  声に抑揚は無く一辺倒な調子。感情の起伏すら大きく窺えない事が、此の場に於いて一番の違和感だった。  いの一番、其の尋常では無い空気を感じ取ったのは、名前を呼ばれた当人で或るドストエフスキー。  唯名前を呼ばれた丈、其れが愛しい恋人のゴーゴリからで或る丈。  此れ迄ならば、動揺一つ見せず其の呼び掛けに應じて居ただろう。然し此の瞬間に限っては此れ迄と事情が異なって居た。  ドストエフスキーから少し遅れ、其の違和感に氣附いたのはシグマ。  ゴーゴリがドストエフスキーに声を掛けるのは何時もの事。眼の前に第三者が居ようとも、構わず戯れ合う事ですら、シグマの中では日常の一部に成りつつ在った。  初めは、唯ゴーゴリがドストエフスキーの名前を呼んでいる丈で或ると認識した。  刹那後、其の呼び方に普段とは異なる物が有る事に氣附いた。  フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。  其れは、紛れも無くドストエフスキーの名前。  其の事象自体は特段驚くべき内容では無い。  シグマは、此れ迄ゴーゴリがドストエフスキーの事をミドルネームも含めたフルネームで呼ぶ処を初めて訊いた。  普段ならば敬称の附いた略称、若しくは愛称でドストエフスキーを呼んで居る処しか聞き馴染みの無かったシグマは、何か言葉に表せられない異常な空気を瞬時に察した。 「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。話が有るんだよ」  再びゴーゴリの口から放たれた、ドストエフスキーのフルネーム。  シグマは気配を消すようにしてそろりと立ち上がり、其の空間からの脱出を図った。  当のドストエフスキー自身は、ゴーゴリにフルネームを呼ばれて以降、理解出来ない物に直面した小動物の様に、目を見開き、硬直した儘ゴーゴリへ視線を送って居た。 「……ゴーゴリ、僕が何かしたのでしょうか?」  普段通りのドストエフスキーならば、周囲の目すら氣にせず、終始マイペエスにゴーゴリを構い倒している筈だったが、ドストエフスキーにとっても此の状況には何か思う処が在るらしく、緊張した様子を向けていた。  ごくり、と生唾を呑み込む音すらありありと聞こえそうだった。 「フョードル・ミハイロヴィチ――」  ゴーゴリが三度目のフルネームを呼び始めた時、ぱたんと扉の閉まる音が響いた。 「ゴーゴリ、何を怒っているのですか?」  静寂に支配された室内、ドストエフスキーは再びフルネーム以外に要件を明かさないゴーゴリに声を掛ける。 「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」 「理解しています。聞こえています。僕が貴方を怒らせる様な事をしたのですね?」  ゴーゴリの表情に、忿怒の色は見られない。  然し、繰り返し捲し立てられるフルネーム。  怒り等軽やかに飛び越した、最上位の怒髪天て或る事は、考えずとも判り得る事だった。  身に覺えが一切無いとは云えない。  其れでも理解して居るからこそ、共に居る路を選んだのだろうと考えていた。――今、此の瞬間迄は。 「フョードル――」  何度目かのフルネームを呼ばれた時、ドストエフスキーは堪らずに、ゴーゴリの両手を摑んでいた。 「ニコラーシャ……僕が何をしたと云うんですか」  悪い処が在るなら直す等、思っても居ない事は云えない。抑々ゴーゴリの要求が謝罪や従順で有るとは考え難い。  本気の怒りを顕にするゴーゴリを前に、ドストエフスキーの内心は、荒波以上に荒れ狂っていた。  本気の怒りを前にして初めて理解した、失いたく無い相手の存在。  神よ、我が神よ。何故――  思わず創造主に祈りを捧げた、其の瞬間。  ドストエフスキーの眼の前には、満悦の笑みを浮かべるゴーゴリの姿が在った。 「愛してるよって、傳えたかったんだ」 「――は?」  ゴーゴリは手を握り返し、悪戯が成功した子供の様に目を細める。  其の時、ドストエフスキーは漸く理解した。此れがゴーゴリの企てた質の惡い悪戯で或る事に。  肝が冷えたのは本当だった。  然し其れ以上に、ゴーゴリが本気で怒りの限界を迎えた訳ては無いと謂う事が判った安堵の方が大きかった。 「……此の驚愕は少し遣り過ぎですよ」 「ドスくん本気で焦ってたね!」  そう云ったゴーゴリは目尻を落として嗤う。  今迄は、そんな事一度も感じた事等無かった。  然し今此の瞬間に限っては、ゴーゴリの笑顔が何よりも輝いて見えた。  「愉しみに待っておきなさい。ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ」  そう呟くと、ゴーゴリは「遣ってみろ」とばかりに笑みを更に深めた。  扉の向こうで安堵の溜息を漏らすシグマの気配など、二人の意識の中に等既に無いかの様に。

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