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いけないこども
「何してんの、怖い顔して」
近くから声をそうかけると、柏木 はびくりと肩を震わせて目を上げた。目付きが悪いと特に年配の先輩方には専ら不評な切れ長の目で後ろに立つ俺を捕らえると、たちまちそれは簡単に分かり易い安堵に変わる。確かにその丸められた背中は何か隠しているようにも見えたが、何か不味いことでもしているのかとその手元をわざとらしく見遣ると、指の間から紙が覗いているのが見えた。
「異動願い?何で」
「返せ、勝手に触るなよ」
柏木は俺の問いには答えようとせず、一瞬紙が破れてしまうのでは、と思うほどの強い力でそれを俺の手の平の中から奪った。手ぶらになってしまった俺は、仕方なく柏木の目の前の椅子を引いてそこに座った。
昼時のラウンジはどこもかしこも混み合っていたが、柏木の目の前の椅子は空っぽだった。それは柏木がこの広い社内でマークされているからだ、勿論これは良い意味ではない。噛み砕いて言うと煙たがられるのだ。
「何でそんなもんこそこそ書いてんの、どうせお前北海道に配属になんだろ」
「それからこっちに戻して貰うための、だ」
一応バツが悪そうに、柏木は俯いたまま答える。
「行く前から?感じ悪いね、お前」
「煩い」
舌打ちをすると眉間に皺を寄せて、柏木は格好の控え目さとは裏腹に、左手に持ったボールペンを素早く走らせた。俺は正面に座ったまま、特にすることもなく飲みかけのまま持って来たコーヒーの紙コップを弄りながら、それを暫くただ見ていた。
柏木は俺と同期で、その上同級生だったから入社当時から何かと比べられることが多かったが、柏木が転勤するおかげで社内の俺に対する目も少しは変わるかもしれない。柏木が転勤になる話を近い先輩から聞いた時、俺がまず考えたのはそのことだった。つまりは中等部から一緒の腐れ縁的な同級生の行く先ではなく、自身の安寧のことだったのだ。
「月森 との話し合いは難航してんの」
「・・・まぁまぁ、だ」
不機嫌そうに柏木はそうとだけ答えた。
月森というのは柏木の恋人の名前だ。高校時代の後輩で、俺も顔見知りだった。男であるということ以外は、特筆すべきことはない、現在はごく普通の大学生である。
会社の決定であるそれに、柏木本人は拍子抜けするほど無頓着だったが、その恋人である月森の反発が強いらしくて、おそらくここ最近柏木を集中的に疲弊させている原因になっている。ただでさえ目付きの悪い柏木の目の下には、黒く隈が浮かび上がって人相が更に悪いことになっている。ある程度推測出来る月森の考えは、恋人ならば当然であり、柏木もおそらくそのことは良く分かっているのだろう。だから月森に強く言えないで、こそこそこんなものを持ち出して、こんなところで広げているというわけだ。
「ふーん、月森って頑固そうだもんな」
「・・・そうだな」
「年下って何か面倒臭さそうだもんな、同情するよ」
異動願いに注意を奪われたままの柏木は、ちらりともこちらを見ずに言った。
「そりゃどうも」
*
そんな俺の恋人は、勿論年上だった。学生時代に年下の女の子と付き合ったこともあるが、俺には年下の良さが今ひとつ分からない。若いというのは暴力に似ている。若さを無限に振り回す彼女達に、俺は一週間で辟易してしまった。俺を良く知る友人には、お前って熟女好きだよなとからかわれることもあるが、別段年上が好きなわけではなく、俺はただ単純に年下が苦手なのだ。いつも恋人が年上なのは、それを回避した結果でしかない。ちなみにその友人というのは大学時代の友達ではあるが、柏木ではない。柏木は友達である俺に対してさえ、そんな軽口を叩く男ではない。そこが柏木のつまらないところであり、おそらく良いところなのだろうと密かに俺は思っている。
週末になると俺はいつもの電車とは逆方向の電車に乗って、自分のアパートから遥か遠く離れた都心に降り立つ。
「お帰り、真冬 」
「・・・おぉ」
年上というか何と言うか、確かに年上には違いないのだが、現段階で何故なのか、俺自身でも疑問なのだが、俺の恋人の名前を有するその人は、芦屋久志 という白髪混じりのおっさんだ。まだ45歳らしいが、そんなものは弱冠25歳でしかない俺からしてみれば遥かにおっさんだし、何より久志さんは、白髪の多い髪の毛に疲れたように乾いた肌をして笑うと目尻にしわが沢山寄る、そんなだから歳の割に酷く老けて見える。だからおっさんと呼んで間違いなどひとつもないのだ。
「今日飯なに」
「今日はビーフシチューだよ、好きだろう真冬」
「へー・・・」
別に好きじゃないけど、と思いながら後半は無視した。おっさんは使える、ただ年だけ食って無駄に生きてきたわけではないのだ。長い独身生活のおかげで家事が一通り出来るし、住んでいるマンションは俺のアパートより遥かに広い。それにお金も持っている。
考えながら夕刊を捲っていた俺の目の前に、いつの間にかビーフシチューとサラダの皿が出ていた。久志さんは紺色のエプロンをカッターの上に着けたままの格好で俺の向いに座って、にこにこしながら俺の表情を伺っている。
こんなはずじゃなかったのに、俺は一体何を間違ってしまったのだろう。俺はそれを見ながら何だかその時、妙に途方に暮れていた。今は別段不便ではないからという理由で関係を続けているが、俺はこんなことを続けて一体何を得るつもりなのだろう。一体この人の側にいて、俺はどうなるというのだろう。ふと柏木の顔が浮かんだ、ホモは伝染するのかもしれない。
*
若い肉体を散々弄り回して疲れたのか、久志さんは俺の隣でうつらうつらと眠りに入りつつある。俺はそれを横目で見ながら、いつもは吸わない煙草を吹かしていた。
俺はホモではないから、いつまでもこんなことは続けられない。大体俺には柏木という後天性ホモの友人が居たから、ホモに対して寛容だっただけで、一度どんなものかと体験してみたら居心地が意外に良く、何となくずるずると一緒に居るだけで、この先には終わりしかない。
「・・・まふゆ」
すっかり眠ったものと思っていた久志さんが、突然そう声を上げたから吃驚して体が跳ねた。それを久志さんは茶色い目で不思議そうに見上げている。もしかして考えていたことを勘付かれたのかもしれないと、俺はその目から意図的に視線を反らしていつも通りにぶっきらぼうに返事をした。すると久志さんは左手を上げて俺の腰に回すと、そのままぎゅっと俺を抱き締めた。
まぁ明日、土曜日だから多少体が痛くても平気だけれど。一瞬俺の脳裏にそんなことが過ぎって、俺の心中は全く穏やかではなかった。そんな一晩におっさんと何度もするなんて、そんなの正気の沙汰ではない。
震えると俺の振動を感知したのか、久志さんがぴったりくっついたまま寒い?と尋ねる。全裸だったが、寒いのか寒くないのか俺には分からなかった。取り敢えず首を振る。
「なに、もっかいすんの」
「ううん、そんな真冬の体に負担掛けるようなことしないよ」
「・・・ふーん」
同性同士の性交なんて、体に負担を掛けずになんて行えるわけがない。俺の心配をしたいのなら、禁欲に励むべきだと言いかけて飲み込む。しかしさっきの言い方では、もしかして俺の方がして欲しいみたいな言い方じゃなかったかと、考えるだけでぎゅっとこめかみが痛んだ。
久志さんはそんな風に全く凪が訪れる気配のない俺の心情を察するわけもなく、首筋に啄ばむようにキスをした。
「好きだよ、真冬」
久志さんは俺のことが可愛くて可愛くて仕方ないのだと言う。確かに目付きの悪い柏木と違って、俺はぱっちり二重で色も白くて昔はよく女の子と間違われていた。流石にもうこの年で女の子に間違われることはないが、俺の容姿は格好良いでも男前でも美形でもなく、おそらく可愛いと形容されて妥当なものだろう。だから多少我侭を言っても横暴に振舞っても、久志さんは俺のことを叱らない。ちょっと困った顔をして笑って見ているだけだ。
キスが首筋一杯に広がる、引き寄せられて俺は身動きが取れなくなる。俺に良い香りをつけるために買ったボディソープとは、違う匂いが久志さんからしている。自分だけ違うものを使っているのを、俺は知っている。だってこの人は馬鹿正直に、少しも隠しもしないでバスルームに置いているからだ。それなのに薔薇の絵が描かれた少女趣味のそれを、どうして俺は文句も言わずにずっと使っているのだろう。
「ねぇ久志さん」
「ん?」
ほんの少しだけ悪戯心が疼いた。そうやっていつも慈愛の瞳で、それしか宿していない純朴な瞳で俺のことを見つめる久志さんに、俺は少しだけ意地悪をしてやろうと考えた。いつもより猫撫で声の俺の呼びかけに、少しだけ戸惑ったような表情を浮かべながらも、久志さんの右手は変わらず俺の髪の毛を優しく撫でている。何か強請られるとでも思っているのだろう。
俺のことを可愛い可愛いと言って、無害な顔をして近付いてきたおっさんに、俺は体よく丸め込まれて体を自由にさせているのだ。少しくらい強情に何かを要求したって、俺は非難されない。非難などさせない。そういうポリシーで、俺は久志さんにことあるごとに色々強請った。けれど久志さんはやっぱり我侭を言う俺のことを、困ったような顔をしながらそれでも頭を撫でて、言うことを聞いてくれたのだ。俺はその見返りに週末はここに帰って来て、久志さんの抱き枕になっている。外で誰に誘われてもついて行ったりしない。俺は文字通りこのおっさんの恋人なのだ。その対価が果たして久志さんが俺に与えてくれるもので、正しいのかどうか良く分からない。分からなくなると、決まって俺は久志さんにまた何か買わせようと画策するのだ。
けれど俺がその時思いついたのは、いつものそれではなかった。
「俺、今度の異動で北海道の配属になった」
「・・・え?」
その俺を可愛がっている瞳、俺を愛でるためにきらきらと輝く瞳が、薄暗がりにきゅっと大きく広がった。俺はそれを見ながら唇の端が上がらないように、気をつけながら言葉を選んで続けた。
「会社の決定でさ、この間発表あったんだ」
「・・・真冬」
「そうなったら俺達もう終わりかなー、遠距離とか俺無理だし」
俺の髪の毛を優しく梳いていた手は、勿論止まっていた。久志さんが何と言うのか、予想しながら俺は待っていた。行かないでくれと格好悪く俺に縋るのだろうか、それとも泣いて別の方法を考えようと俺に迫るのか。現実的にこの問題に直面している柏木と月森のことなど、俺の頭の隅にもなかった。
俺は久志さんの何にも代え難い可愛い可愛い恋人だ。久志さんは俺を手放したら、きっともう俺レベルの人間とは出会うことが出来ない。俺レベルの人間は、こんな枯れる手前のおっさんをわざわざ選んだりしないだろう。だから久志さんは俺のために必死になるのだ、俺を手放したら最後、可愛い恋人をその手に抱くことは出来なくなるから。内心ニヤニヤしながら俺はゆっくり久志さんの言葉を待っていた。
けれどその時久志さんの唇を割って出てきた言葉は、俺の予想のしていないものだった。
「そうだね、そうしようか」
*
頭が痛い。
「俺のデスクで何やってるんだ、都幾川 」
「お、柏木か。帰ってくんの遅ぇよ、お前」
眉間に皺、人相の悪い柏木はそれだけで充分恐怖対象に成り得る。怯える女子社員に大丈夫だよと手を振る俺の頭を叩いて、柏木は俺の二の腕を掴むとデスクから剥がして、そのままずるずると廊下まで引っ張ってきた。丁度その時部屋に入ろうとしていた後輩に、何か変なものでも見るような視線を送られる。俺がそれに笑顔を返しても、柏木が顔を顰めている間はおそらく大した効果はない。
「なぁ、柏木、コーヒー奢ってくれ、慢性的に寝不足なんだ」
「煩い、どうせ女のところにでも泊まったんだろ」
緩々と動いていた俺の体が、勝手にぴたりと止まる。柏木はそれに気付かずに、ずんずんと前方に進んでいってしまった。
「なぁ、柏木」
やっと柏木は俺がついて来ていないことに気付いて、立ち止まって振り返っている。
朝起きた時、久志さんはこちらが拍子抜けするほどいつも通りだった。俺のための遅めの朝御飯、いつも見ているニュース番組、何でもない天気についての会話。違ったのは俺の方が耐えられなくて、荷造りがあるからと嘘を吐いて、土曜日の夕方にそそくさと久志さんのマンションを飛び出したことくらいだった。その時玄関まで見送りに来てくれた久志さんは、何かを一瞬言いたそうにした。その一瞬、俺を引き戻せるのはその一瞬だけだったにも拘らず、馬鹿なあのひとは肝心のことは何も言わずに気をつけてねと笑ったのだ。目の前で扉が閉まったとき別れだと思った。どちらも確信的なことは何も言わなかったけれど、これはきっと別れなのだと思った。いかにもスムーズを装って、それは確かに行われた。
久志さんは俺に何も言わなかった、俺は扉が閉まるのを見ながら、これが俺の可愛い嘘だったことにこの人が気付くことはないのだろうと思った。いつか終わりにしなければならないとはじまった頃からずっと考えていたし、これは良い機会になったのかもしれない。きっとこんなことでもなければ、離れることは出来なかっただろう。久志さんは確かに俺に不釣合いなおっさんだったけれど、あの人の側は酷く心地が良かったから。
「何だ、コーヒーは奢らないぞ」
「転勤、変わってやろうか」
「は?」
柏木の目と眉が、突然離れた形になったのが見えて、俺は何故だか酷く胸が詰まされる思いがしていた。
「何言ってんだ、お前」
「だって柏木は月森がいるだろ、俺は別に身軽だから遠くに行っても平気だし?」
「そんな個人的な理由が罷り通ると思ってるのか、馬鹿か」
こんな時でさえ、柏木は俺に優しくない。柏木は万人に共通して優しくなどしないのだが。俺はいつものそれを唇の端で笑って、柏木が眉を顰めてその人相が一層悪くなるのをただ見ていた。
人事のことは良く分からない。俺が代わりに行きますと手を上げたら、本当にそうなってしまうかもしれない。けれどその時柏木の表面には、そんな思惑は一秒たりとも流れなかった。柏木はこういう奴だ、こういう面白くて詰まらない奴なのだ。
俺は別段東京に未練は無かった。おそらく柏木がこの地に愛着がそれほどないのと同じくらいには。だから長年の友人の目の下の隈を取ってやるために、俺の方が飛行機に乗ることだって、俺にはそんなに大層なことだとは思えなかった。柏木はそんな俺の思惑を知らないから、またいつもの調子でこの状況を俺が面白がっているだけだと思っているのかもしれないが。
「早く自分のデスクに戻れよ、また勝手に抜け出してきたんだろ」
俺はもう二度と、出来るのならば二度と久志さんには会いたくない。俺を、こんなにも上等な俺という存在をあの人は呆気なく手放したのだ。俺のプライドは少なからず傷付いた、泣いて縋ってくれるものだと思った、行かないでくれと嘆願するものだと思っていた。けれど、結果はこれだ。俺は二つ返事で放り出されて、わけの分からぬ焦燥に投げ込まれている。俺が腹を立てているのはそれだ、そうだ、俺はずっと腹が立っていた。久志さんに、そうしようかなんていう軽い口調で俺との別れを承諾してしまった、久志さんに。顔を見たら責め立ててしまうだろう、だから会いたくなどなかった。
そのために遥か遠い北の地に渡航するなんていう行為は、流石に度が過ぎているとは思うが、その時俺は頭に血が上っていたせいで、何が見合っていて何が見合っていないかなんてことは、良く分かっていなかった。
「・・・都幾川?」
「何だよ」
「いや・・・」
一瞬間があった。
「昼飯、一緒に食うか」
その冷たいと陰口を叩かれる、その柏木にだって誰かのことを心配したり、労わったりする能力は備わっている。付き合い方が上手になってきたと褒めるべきなのか、それともこんなことはお前らしくないと拗ねてみるのか、どちらでも良かったが、柏木がらしくなく慎重に言葉を選んでいるようなので、俺は現状で出来る限りいつも以上の快活さで、それににこりと微笑んでやった。
「良いよ、じゃ、またその頃顔出すな」
「・・・分かった」
必要以上のことは何も言わない、柏木の良いところだ。しかし世の中には過剰に言葉を求める人間も居て、きっと月森もそのひとりのはずだ。明るい廊下を戻って行くグレーの背中を見ていると、不意に寂しくなってきた。そうか、柏木が遠くに行ってしまったら、寂しいのは俺もそうなのだ。こんな遣り取りはきっと、暫く出来ないのか。
ふっと息を吐いて背筋を伸ばすと、俺も自分のデスクに戻るために重い足を動かした。苛々して暴挙に出ても仕方がない、行ってしまう柏木の背中に寂寞を漂わせていても仕方がない。俺は試すつもりが呆気なくふられて、柏木は転勤するのだ。そういう味気ない事実が、そこにはあるだけだった。そうやって現状に諦めと終着を、俺がようやく見出した時だった。ポケットに入れていた携帯電話が突然震えた。
図ったようにタイミングの悪い、それは久志さんからのメールだった。今頃謝っても許してやるものかと思いながら、それを開くと渡したいものがあるので、会えないかという内容のものだった。先ほど感謝したのを突然翻すようで悪いが、柏木とのランチは即刻お流れという運びになったのである。
*
俺の会社から近い喫茶店は、勿論久志さんの会社からは遠いわけで、俺がそこに着く時刻にはまだ久志さんは到着していなかった。仕方なしにシロップなしのアイスティーを啜りながら、渡したいものについて俺は考えていた。指輪はどうだろう。久志さんは俺のことを男だと認識しているのかと、時々疑わしくなってしまうことがある。少女趣味のボディソープが良い例だ。指輪はなくとも貴金属は有り得なくない、時計の線も有りだろう。財布はこの間買ってもらったばっかりだから、きっとない。
俺がそんなことを巡らせながら、一杯目のアイスティーを飲み干してしまった頃合だろうか。久志さんがやって来た。出入り口できょろきょろして、あからさまに俺を探しているようだったが、俺はそれを早々に発見しながら無視して暫く傍観していた。店員が訝しそうに寄って来て、久志さんの説明を聞いている。店員がそこから俺のことを指差して、ようやく久志さんと眼が合った。
「真冬、御免ね、遅くなってしまって」
「別に良いけど、渡すものって何」
久志さんが席に着くなり、俺は本題を切り出した。言いながら久志さんの荷物を目で探る。鞄ともうひとつ、大きめの紙袋を持っている。渡したいものがアレだとすると、貴金属も時計もなしだ。しかし結構大きなものだが、中身は一体何だろう。久志さんはそれで俺の気を引いて、一体どんな風に謝るつもりなのだろう。
「あ、そうだね、時間もないし、あのね、これ・・・」
言いながら久志さんは俺の予想通り、やはり紙袋をテーブルの上に乗せた。俺はそれにちらりと目線をやったが、興味がなさそうに見えるように、少し不機嫌な調子で続けた。
「なに、これ」
「昨日纏めたんだ、僕の部屋に置いてた真冬のものだよ」
その時完全に、俺の中で俺のプライドが崩れ去る音がした。
「・・・―――っざけんなよ・・・」
「・・・え?」
「ふざけんなよ、ふざけんな!」
「・・・ま、まふゆ・・・?」
喫茶店の中は静まり返っていた。客も店員も皆皆、立ち上がって大声で喚く俺を見ていた。けれど、俺はもうそんな周囲の状況に構っていられるほど、冷静ではなかった。目の前で何が起こっているのか分からないといった間抜けな表情で、固まったままの久志さんが俺を見上げている。その薄茶色の目に映る、俺はその日酷く惨めだった。
大事にしていたプライドを叩き壊されて、喚くことしか出来ないこの状況も、目も当てられないくらい酷く子ども染みていると分かっていたけれど、俺はそこでスマートに「そうなんだ、有難う」と言うことが出来なかった。どう頑張っても出来そうになかった。
怒鳴り散らそうと思ったが、喉に何かつっかえて上手く言葉が生成されない。俯くと目から簡単にぼろぼろと水滴が落ちていった。久志さんは座ったまま黙って、俺に静かにしろとも座れとも言わないで、ただ驚いた様子で静かに俺を見つめていた。
「・・・真冬」
ややあってから酷く静かに久志さんが俺の名前を呼んで、俺は居た堪れなくなって喫茶店を飛び出した。滅茶苦茶な進路を取りながら、それでも足は自然に会社とは反対方向に向かって動いていた。
誰かにこんなところを見られたらお仕舞いだ。俺とは到底不釣合いなおっさん、そのおっさんにあっさりふられて泣いてしまうなんて。俺と久志さんの行く末は、俺に決定権があったはずだろう。それなのに何故、久志さんは俺に謝りもせずに関係の修復も図ろうとせずに、あっさり別れを了承しているのだ。何故だ、俺の一体何が不満だというのだ。久志さんが言ったのだ、俺が言ったわけではない。久志さんが言ったのだ、俺のことを可愛いって、可愛い恋人だって。それなのに呆気なく、こんなにも呆気なく俺は手放されるのか、俺はまだ東京にいるのに、それなのに俺は放り出されてしまうのか。よりにもよって、枯れる手前のおっさんなんかに。
「真冬、待って!」
その時右腕を引かれて、瞬時に久志さんだと分かったけれど、俺はそれを反射的に乱暴に振り解いていた。
「真冬、御免」
「煩ぇ!調子に、乗って、んじゃねぇ!」
「ごめん、泣かないで」
歪んだ視界に久志さんが見えた。こちらに伸ばされた手を、俺はまた振り払っていた。
「触んな!」
ひくりひくりと、喉の奥が嫌な音を立て続けている。嗚咽が酷くて上手く言葉にならない、もっと酷いことをもっと酷い言葉で怒鳴り散らしてやりたかったが、俺の言葉はそこで途切れた。
久志さんが俺の前で、一体どんな顔をしていたのか分からない。けれど俺は俯いたまま、一向に止まる様子のない涙を必死に拭って、込み上げてくる嗚咽を奥歯でしきりに噛み殺していた。
悔しかった、情けなくて悔しかった。見っとも無く取り乱してしまったことも、声を上げて泣いてしまったことも、勿論そうだったけれど、俺がその時悔やんでいたのはそのことではなかった。俺は、俺はこんな風に気持ちを簡単に揺さ振られてわけも分からなくなるくらいに、久志さんのことが好きで好きで堪らなかったのだ。久志さんが俺のことを可愛いと言うから、大事な恋人だと言うから、俺は久志さんの側に渋々いるのだと、俺はずっとそう思っていた。けれど、そうではなかったのだ。
「真冬、ごめん、ごめんね」
「・・・何、だよ、ほか、に・・・い、言うこと、ある、だろう、がっ・・・」
好きだったのは、ずっとずっと好きだったのは、俺のほうだったのだ。
「俺、俺は、久志さんのっ、・・・か、可愛い、恋人、じゃねぇ、のかよ・・・」
「真冬・・・」
「なん、で、そんなに、あっさ・・・り、して・・・っ」
行かないでくれと言われたかった、側にいてくれと言われたかった。俺はどこにも行きたくなかったし、久志さんの側に居たかったから。鼻からそう言えば良かったのに、俺の天邪鬼な心と口が、それを俺に決して許そうとはしなかったのだ。
人の行き交う路上で人目も憚らず、俺のことをぎゅっと久志さんが抱き締めた。こんなおっさんに抱き締められているなんて、誰かに見られたらどうするのだと俺は思って体を捻ったが、久志さんの力は強くてびくともしなかった。おさまってきた涙を拭いて、鼻を啜っても、久志さんは俺を離してはくれなかった。それは酷く強い力で、痛かったけれど俺が欲しかったものは、もしかしたらこの何も物を言わせない、この強い力ではなかったのだろうかと、俯いて考えていた。
「そうだね、ごめん、真冬は僕の、大事な可愛い恋人だよ」
それだ、俺が欲しかったのはこの言葉だ、待っていたのはこれだったのだ。はぁと口から息を吐き出すと、それがどうにも熱っぽく思えて、自分でも苦笑してしまった。
公道を行き交う人々の好奇心を剥き出しにした視線が痛い、それが体中刺さって痛くて堪らなかったけれど、俺は一番大事な人の腕の中で、世界一甘い言葉を耳元で囁かれて、もう他のことなどどうでも良くなっていた。何でも良いのだ、はじめからどうでも良かった。久志さんが40過ぎのおっさんだろうが何だろうが、俺の好きな人がこの人で、久志さんも俺のことが一番大事だと言ってくれる間は、もう何がどうだって良かったのだ。
「ごめんね、真冬、許してくれる?」
「・・・ん、まぁ・・・今回、だけ」
天邪鬼に俺は呟いて、久志さんは困ったように微笑んだ。それは俺が一番、一番好きな笑顔だった。
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