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終電を逃した夜に
蛍光灯の白は、紙の縁を硬く見せる。
数字が並ぶシートの最後の枠だけ空いていて、カーソルが点滅していた。
時計は最終列車をとうに置き去りにしている。
背後で靴底が小さく鳴り、銀色の缶が机に置かれた。
曇った金属に指の跡が残る。
冷たさが掌へ移る前に、ふっと鼻に甘い香りが上がった。
「はい、休憩。人間の脳は連続稼働非対応」
「先輩……あと少しで埋まるんです」
「“あと少し”は明日の朝に残せ。部品取りじゃないんだから」
パソコンの蓋にそっと手を添えると、彼は黙った。
反射で抗議の目になるが、その奥に助かった色が滲む。
「終電、もう……」
「ないね。結論:うち来い」
短い沈黙ののち、喉仏がひとつ動いて、こくりと頷く。
それだけで肩の力が一段落ちたのが見えた。
◇
狭い玄関。
消毒液の匂い。
柔らかい色のスリッパ。
浴室の鏡は白く曇り、シャワーの粒が肩を叩くたび、今日のざらつきが排水口に消えていった。
出てくると、タオルを差し出す。
「首、貸せ」
後頭部を包み、布越しに円を描く。
濡れた髪から零れた滴が首筋を一本走り、鎖骨の手前で止まった。
親指でそっと拭うと、彼は息をのみ、視線が定まらなくなる。
「……先輩がいると、平気になります」
自分で驚いた顔をして、口を結ぶ。
謝罪の言葉が出る前に、額へ人差し指で軽く合図した。
「謝るの禁止。よく働く人の悪いクセ」
マグを渡す。
厚い縁の陶器は、指にちょうどいい温度を返す。
ひと口で耳の色が変わるのを見て、笑ってしまった。
「熱すぎない?」
「……沁みます。砂糖、優しい味ですね」
◇
ソファの端に並べて座る。
膝と膝が何も言わず触れ合う。
テレビは黒いまま、室内の音はカップを置く小さな陶器の響きだけ。
「おまえさ、真っすぐ突っ込んでくタイプ。角、使え」
「曲げ方、あまり分からなくて」
「じゃ、俺が曲げる。安全に」
襟もとで跳ねていた糸を一本、指の腹で抑える。
そこから距離が自然に消えて、呼気が触れた。
軽く触れるだけの口づけ。
金属の甘みが遅れて舌に戻る。
間にひと呼吸落とし、次の一瞬を少し長くする。
「お疲れさま」
短い句が、唇の温度をやわらげた。
彼の喉が小さく動き、シャツの胸元で布がきゅっと鳴る。
「……先輩に、甘やかされるの、好きです」
「知ってる。俺も、甘やかすのが得意」
言葉の輪郭が重なる。
肩を抱くと、湯上がりの体温が毛布みたいに馴染んだ。
長く奪わない。
眠気と安堵の境目で額を合わせ、まぶたの重さに任せる。
◇
朝の光はカーテンの隙間から細く差す。
トースターの小さな音、マグの底に残った輪、ベルトの金具が触れる微かな金属音。
掛け違えていたボタンを直し、背中を軽く押す。
「今日の課題。食べられる時に食べる。頼めることは頼む。全部自分で背負わない」
「……はい」
「返事、可。実行、もっと可」
「努力します。いや、します」
玄関で靴を履く彼の腕を引き寄せ、短く口づける。
昨夜より軽いけれど、合図ははっきりしている。
「いってらっしゃい」
扉の外の冷気が、キスの跡を細く締めた。
振り返った彼が笑い、靴音が廊下に等間隔で落ちていく。
ドアが閉まる。
鍵を回す音が一度。
テーブルには、薄いコーヒーの輪がひとつ残っていた。
指先でなぞると、消えきらないぬくもりが、皮膚にゆっくり移った。
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🌸作者コメント🌸
ここまでお読みいただき、ありがとうございました🌙
『お疲れさまのキスをもう一度』は、働くふたりが日常の中で交わす小さな合図——「お疲れさま」に込めた思いやりを描きました。
缶の冷たさ、湯気、陶器の縁の温度。
そんな手触りが、読んでくださる方の一日を少しでもやわらげてくれたなら嬉しいです💫
もし心に残る場面がありましたら、♡や感想でそっと背中を押していただけると励みになります🍀
これからも、日々の体温に寄り添う物語を書いていきます。どうぞよろしくお願いいたします✨
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