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第1話 遭遇
「見た?今朝のニュース」
「見た見た、あれってうちの大学の近くだよね?」
「やばくない?まだ祓われてないんでしょ?めっちゃ怖いんだけど」
「だよね…まあでも、うちら関係ないか。被害者は若いイケメンだけって噂だし」
授業が始まる前の、朝の教室。どんよりした梅雨空の下でも、女子たちのお喋りのかしましさに変わりはない。安倍晴人は、窓辺の席に座り、降り止まない雨をじっと眺めていた。
長いまつ毛の影が落ちる物憂げなその表情は、どこか考え事をしているようにも見えるが、実際は何も思考しているわけではない。緩くウェーブのかかった黒髪が、目にかかってきたのを鬱陶しく思っているだけだ。
——今日、放課後にでも髪切りに行くか。
晴人はそんなことを考えながら、一人次の授業のために広げた教科書に目を落とす。
水曜の一限目——古文の時間だ。はっきり言って全く興味はないが、彼の成績は常にAをキープしている。それも、頑張って勉強しているからでなく、単に他にやることがないからだ。授業さえきちんと聞いていれば、大抵のテストは簡単にこなせる。
「あ、でもイケメンといえば…」
「やばいよね、この教室にも一人さぁ」
女子たちのくすくすと笑う声。そんな会話も、晴人にとってはまるで小鳥の囀りのようにしか聞こえない。自分に視線が集まっていることにさえ気づいていない。要するに、周囲に興味がないのだ。
「ねえ安倍くん」
気がつくと、一人の女子生徒が、晴人の横に来て自分の名前を呼んでいた。
「…何?」
頬づえをついたまま、そっけなく答えてもその女子生徒は全く気にせず、晴人を見下ろしながら言葉を繋いだ。
「安倍くんは怖くないの?」
「何が?」
「『もののけ』だよ。この大学の近くに出たらしいよ。今朝のニュース見てないの?てかXでもめっちゃ拡散されてたし」
「ふーん、そうなんだ」
「ターゲットになってるの、みんな大学生くらいのイケメンだけだって。だから安倍くん心配だねってみんなで話してたんだ」
背後で、群れをなした女子生徒たちが、こちらを窺いながら再びくすくすと笑い声を上げるのが聞こえる。晴人は、鬱陶しい前髪に気を取られながら、しばらく考えた後こう答えた。
「別に。特に怖くないな。悪いけど俺、そういうのあんまり興味ないんだ」
表情を変えずに、教科書に目を落としたままそう答える。面食らったような顔で、晴人の横顔を見つめる女子生徒。
しかし、その瞬間、少しだけ窓の外で雨足が強くなった気がした——
***
「ありがとうございましたー」
美容院を出ると、もう外はかなり薄暗くなっていた。あえて大学から遠い、隣町の店まで来たのは、同じ学校の学生に遭遇したくなかったためだ。挨拶したり、話しかけられたりするのは正直面倒くさい。
——普通に帰れば5分で最寄駅に着くけど、一駅分歩いてみるか。
雨の中を歩いていくのは嫌いじゃない。むしろ、日光の燦燦と降り注ぐ陽気な空よりも、晴人は雨雲のかかったこんな日の方が好きだ。傘を差していれば、自然と町の風景の中に埋没できる。ジメジメとした空気も、人の群れが発する熱気よりはまだマシだ。
いくつか道を曲がって、大通りを抜けると、あとは狭い路地をまっすぐ歩けば目的の駅に着く。わざと人通りの少ないルートを選ぶのも、晴人の好みによるものだ。
——ああ、一人ってやっぱ落ち着く。
どこかの家の庭先に咲いた紫陽花の紫色に目を細めながら、少し短くなった前髪を意識して歩くと、なんとなく気分が晴れるのを感じた。天邪鬼であることは、晴人自身が一番よくわかっている。
——そういや、もののけが出たって言ってたっけ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、母親の声が頭の中に浮かんできた。
(晴人、あんたはもっと素直にならなきゃダメよ。うちの家系でちゃんとした修業に励んでないのはあんたぐらいなんだから——)
小さい頃から聞き慣れた、いつもの口癖。しかし、その言葉はいつも晴人の耳を左から右へ抜けていくだけだ。
——いくら「彼」の血を引いているからって、自分の人生を縛られるのはまっぴらだ。二人の兄は、それぞれ真っ当に修業してそれなりに活躍しているのだから、末っ子の自分ぐらい、自由にさせてくれたって良いじゃないか。
晴人がそんなことを考えていると、道端に一匹の三毛猫がうずくまっているのが見えた。雨から身を守るように丸まって、つぶらな瞳でこちらを眺めている。
「にゃあ」
その可愛らしい鳴き声に、自然と晴人の心は緩んだ。人間には決して関心を抱かない一方、晴人は昔から動物が大好きだ。特に猫は大好物。思わず歩み寄り、傘を差したまま屈み込んでその頭を撫でてやる。すると、猫は気持ち良さそうな表情で喉を鳴らした。
「…お前、ここで雨宿りでもしてるのか?」
文字通り猫撫で声で話しかけると、三毛猫は首を傾げるようにこちらを見つめてきた。その可愛らしい仕草に、晴人は無表情のまま内心で悶絶する。
——どうしよう。可愛すぎる。連れて帰りたい。
見たところ、首輪はついていない。野良猫だろうか。うちは持ち家で、しかも晴人の部屋は離れにあるから、猫一匹ぐらい連れて帰っても気づかれやしないだろう。ましてや本家の「異端児」として煙たがられている自分に、母親以外は余計な干渉をしてくる人間もいない。
「お前、うちの子になるか?」
しかし——
晴人がそう言って、猫を抱き上げようとした瞬間、まるで墨がにじむように、足元から黒い影が広がっていた——
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