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第9話

 帰りのバスも人はまばらで、来たときと同じように二人で並んで座る。やった。じっくりタカハシを感じて過ごそう。だってもうこんなチャンス、二度と訪れないかもしれないからな。と、ひとり胸をときめかせながらタカハシの腿の熱を自分の腿に感じつつ、窓の外を流れる景色を眺めた。  ところが。  連夜の過重労働が尾を引いているのか、それとも慣れない場所で知らないうちに神経を使って疲れたのか、ぼくは冷房の心地よいバスの中で、まもなく眠り込んでしまった。  軽く肩を叩かれた気がして、うっすらと目を開ける。 「…まもなく終点、Y駅西口です。お降りの際はお忘れ物のないよう――――」  バスの音声が流れて、そうか終点まで寝ちゃったのかと気付く。  横を向いてタカハシがいる場所を見、その途端、ぼくは固まった。  ぼくの隣に座っていたのはおじいさんだった。  しかもかなりよぼよぼの。  ぼんやりとした目でじっと正面を凝視している。  しまった、ぼくったら老人ホームからタカハシじゃなくておじいさんを連れて帰ってきちまったのかしらと混乱する思考の中で必死に眠気を掃いながら視線をあげると、おじいさんの向こうにタカハシが立っている。あ。席を譲ったのね。それにも気付かずにぼくは爆睡していたってわけだ。見渡せば、バスの中はすっかり込みあっていた。  バスを降りたあとでスーパーに寄った。 「これ、いまが旬だな」  冬瓜と書かれている野菜をタカハシが手に取る。うへえ。主婦みたい。どうもこの旦那、見た目によらず女子力高すぎなきらいがある。  それでもぼくはこのシチュエーションに酔いしれそうになるくらいに幸せいっぱいなのであった。だって一緒に夕食のお買い物なんてさ、まるで新婚さんじゃね? …あ、トマトはあたしこっちのほうがいいと思うな。なんて新妻らしい一言も発したいところだけれど、残念ながらぼくはそういうのに全然くわしくない。タカハシが籠にひょいひょいと入れていく後ろを、黙ってついていった。  こうして見ているとタカハシってじつにまめで、結婚したらいい旦那さんになるんだろうなぁ…って考えた途端、ぼくの胸はきりきりと痛む。だって結婚ってのは相手が要るわけで、男だか女だか知らないが、ぼくはいまからそいつに嫉妬むき出しになっちゃったりしているのだ、愚かしいことに。  ましてや相手があのアンティノウス花魁様だったりしたら、ちょっとないくらい卑屈になりそう。でも実際あんなのを恋人にしてるんだから、タカハシは相当な面食いなのに違いない。 「うちは夕食が早いんだ。ばあさんがいるから、六時半」  家に向かいながらタカハシが言う。ぼくはこくりと頷いて了承した。  帰りが十一時の強姦にさえ間にあえば、いつだっていい。ぼくは十一時までのシンデレラ。それを過ぎたら灰かぶりのM嬢に戻る。  タカハシの家は最寄り駅から十分あまり歩いた住宅地にあった。似たような一戸建てが立ち並ぶ区画や最新式のマンション、単身者用のアパートに挟まれるようにして、その昭和初期的平屋はあった。  大きな国道に面していて、平屋とはいうもののかなり立派な造り、延床面積は広い。敷地面積も広い。こんな家屋が平成の世にあることに、ぼくは驚きと共に一種の感動を覚えた。  広い庭の向こうには大きな材木置き場まである。あのおじいさんは昔、大工さんだったのかもしれないと推察した。 「古いだろ。これ、俺のひいじいさんが自分で建てたんだぜ」  茫然と家を眺めるぼくにタカハシが教えた。 「おかえりなさい」  ただいま、というタカハシの挨拶に、奥からおばあさんらしき人の上品な声が送られてきた。 「お邪魔します」  ぼくも挨拶してから脱いだ靴をそろえる。  不意に他人の家の匂いがして、なんともいえない緊張感が胸に去来する。誰かの家に遊びにあがるなんて久しぶりで、いつになく年相応のことをしていて逆に落ち着かない。  おばあさんが居間のテーブルにいたので、ぼくはもう一度挨拶した。落ち着いた色の服を着てにこやかな微笑を浮かべる、穏やかな雰囲気の人だった。  おばあさんは足が悪いらしい。お茶を出してくれる足取りが危うい。  タカハシがおやつにとさっき買ってきた水羊羹を嬉しそうに食べる。  タカハシがおじいさんやホームの様子を静かに報告する。ぼくは羊羹をいただきながら、タカハシって祖父母っ子なんだなとぼんやりと思った。  ぼくなんて小さい頃に何度か会いに連れて行ってもらったきり、医者だったおじいちゃんが亡くなって以来、祖父母たるものに一度もお目にかかっていない。それはつまり祖父母のほうでもぼくなんかにまったく興味がないということで、ましてや事件が事件だっただけに、お父さんの葬式にすら彼らは来なかった。  だから悟さんは文字通り、引き取り手のないぼくを押しつけられたのだ。そこらへんにも悟さんのぼくに対する憎しみの理由があるのかもしれない。 「俺は夕食の用意をするからさ、スマホでもいじって待ってろよ」  台所に立ったタカハシが軽く声をかけてくる。 「ぼく、スマホ持ってないから、あんたの料理するとこ見ててもいい?」  そう返すと意外そうな顔をする。いまどきスマホを持っていない高校生が珍しいのだろう。  でも悟さんから貰う金からスマホ代などを支払えば、ぼくはカスミでも食っていかなきゃならなくなる。なにしろ三食の他に学校の集金なんかも含めて、なんでもそこから賄わなくちゃならないのだから贅沢はできない。おかげでスマホメインのクラス連絡網はぼくの上をスルーする。よほど大事なことは工藤が家電で伝えてくれるけど、よく考えれば工藤にとってはいちいち面倒な手間だ。 (――工藤か)  ぼくの思考は、ここで遠いあいつへと引き戻された。  でもぼくは、工藤のことがすっかり嫌いになったわけでも、どうでもよくなったわけでもない。  だってあいつは言ってくれたんだ。羽交い絞めに遭うようにしながら、「こんなこと気にするなよ」…って。  そんな言葉をあの状況で発してくれるやつなんて、他にいるだろうか? だからある意味、工藤はいまでもぼくにとって他には代えがたい貴重な存在であるには違いない。  だがいかんせん、あいつはぼくを誤解しすぎている。ぼくに期待をかけすぎている。だってぼくはそんなたいそうな人間じゃない。ぼくはもう基本、疲れきってしまっていて、これ以上自分になにかを課したりはちょっともしたくないのだ。  ぼくがいま欲しているのは、なにかしらぼくの能力を引き上げようとしてくれたり、まともな人間に戻そうとしてくれたりする正義ではなくて、このぼく、このどうしようもなく自堕落と不健全と不運にまみれたぼくをそのまま受け入れてくれる、そんな誰かなのだから。もっとも、タカハシがそれに妥当するのかどうかは、ぼくにもよく分からない。  タカハシはそれは見事な手捌きで食材の下ごしらえを始めている。  お米を焚く、味噌汁を作る、例の冬瓜を豚肉と煮る、なんとアジを捌き始める。 「これに片栗粉まぶして」  ボールに入った片栗粉と三枚おろしにされたアジが、ついとぼくの前に差し出された。  うん。まあ。さっきからぼさっと立っているだけだしな。ちょっとは手伝わないとね。と、手を洗って、中学の家庭科でやったのをなんとか思い出しながら不器用な手つきで片栗粉をまぶした。その間もタカハシシェフはなにやらいい匂いのするソースを作っている。まじ、何者? ぼくはとことん感服した。 「ぼく、うちでもぜんぜん料理したことない」  コンロでソースを煮詰めているタカハシにアジを差し出しながら打ち明けた。 「だから、上手くまぶせなかったかも」  受け取りながらタカハシが微笑む。なんでも許容してくれそうな笑顔に、ぼくはこんなときだというのについ、ほうっと見惚れた。 「大丈夫。俺も適当適当。俺だって、休日しかやらないから」  ふうん。  もしかしたら足の悪いおばあさんを休ませるためなのかな。ここでもまたタカハシの心根の優しさに触れたような気がした。  タカハシが作ったのはアジの南蛮漬けだった。そしてそれは他のおかずと同じようにとてもおいしい。カリっとしてフワっとして甘くて辛くて。…ん? 実況が下手だな。ぼくはぜったいにグルメリポーターにはなれない。 「ちょっと俺の部屋で休んでいけよ」  夕食後、二人で食器の後片付けをしていると、タカハシが声をかける。  …もう。このドキドキをどう表現したらいいのかな。  エ~いいんですかぁ、なんかイケナイこと考えちゃうかもボクぅー、てなところよ。  でもあれだけ立派な恋人のいるタカハシだから、ぼくとイケナイことをする気なんか毛頭ないに違いない。  広い家屋の端にあるタカハシの部屋は六畳ほどで殺風景だった。  ベッドとわりと片付けられている古い学習机、エレキギター、音楽雑誌やら英単やら単行本があちこちに平済みにされた板の間。それだけ。うん。でもなんとなく、らしい感じがする。ああ、やっぱね、って思う。 「ごめん、座布団ないから適当に座って」  ぼくは指示通りベッドに寄りかかって床に腰をおろした。斜め前にタカハシが胡坐を組む。ペットボトルから緑茶を酌んでくれた。 「おまえ、やっぱりあまり食わないな」 「え?」 「メシさ、白米も器の半分だったろ。いつもあんなに少ないのか?」  返答に困った。だって、今日は自分としてはたくさん頑張った方なのだ。もちろん、おいしかったから余計に食べることができた。手料理なんて本当に久しぶりだったし、それがタカハシからのものだと思うといっそう食が進んだ。それでも、タカハシから見たら少なく感じたのだろう。 「でも、とてもおいしかった」  ぼくの言葉に、なにかを諦めたような小さな溜め息を漏らす。 「また食いに来い。宮代。おまえ、もう少し太った方がいい」  工藤は頑張れ、タカハシは太れ、か。まったく参っちゃうよ。ぼくってよほどこういう情味溢れる人たちの世話焼き遺伝子を刺激しちゃうのかしらん。たぶん、こんな人たちだからこそ生徒会会長になぞ立候補しようなんて思いきったことを考えついたんだろうな。 「ね。ぼくのこと、佳樹って呼んでいいよ」  どっこいなんでかぼくは、一口喉に収めたコップを床へと戻しながら、そんな突拍子もない言葉を発していた。  自分でもびっくりして体が固まった。戸惑った目を揺らすタカハシを見て、途端に後悔した。 「いや。今の、冗談。だって、あんた、恋人がいるんだもんな。他のヤツの名前なんて、呼び捨てにしたくないよな」  これもまた微妙な言い訳になる。数秒の沈黙が過ぎて、タカハシが口を開く。 「あいつは恋人じゃないぜ。誤解しているようだから、一応断っとくけど」  飄然とした表情で答える。でも正直、なにを考えているのかよく分からない顔なのだ、これって。  釈然としないぼくは、眉をひそめて言い返した。 「じゃあ、あんたって、恋人じゃないヤツとでもあんなことすんの?」  ぼくだって人のことを責められた義理じゃない。でもぼくと悟さんの場合は、愛情のないただのSMだ。あんな愛情たっぷりのセックスをしておいて恋人じゃないって、ぼくには理解できなかった。  タカハシがやや困惑気味に首をひねる。 「うん? …まあ、ぶっちゃけ俺も、なかなか誘惑に弱い人間でさ」  ――は? ユウワクにヨワイ?  聞き捨てならねえぞ、それは。 「可愛いヤツからあんまり強く求められると、断りきれないんだな、これが」  思いがけず飛び出してきた告白に、ぼくは呆気にとられた。  つまり可愛い相手からねだられたら、断らずに抱いちゃうってことか? 「へえ…」  やっぱりとんでもない遊び人なのだな、この旦那は。いったいこれを「心優しい」とか「情味溢れる」なんて言葉で片付けていいんだろうか。 「じゃあさ。いまはステディいないの?」  オレ先輩の恋バナ聞きたいッス、みたいな後輩を装って核心を突いてみた。 「ステディ? ――いないけど」  その返事に、ぼくの心臓が不埒に跳ねる。旦那、恋人無しか。それならチャレンジしてみちゃおうかな。もっとも、この調子じゃすぐに浮気されそうだけど。 「もう何人くらいとおセックスしてんの? あんた」  ぼくの直球な質問に、ウゲ、という顔をする。 「なんで、そんなことを訊くんだ?」 「知りたいんだもん。教えてよ」  何人をおじいさんに会わせたのかバス停で訊いたときと同じ勢いで訊ねた。 「そうだな…」  今回はどうやら、自分でもいっちょ数えてみるかという気になったらしい。神妙な顔で首を傾げながら、一人一人を思い出すように指折り始める。  ひとつ、ふたつ、みっつ…と、ゆっくり数えていくその指を、ぼくはまんじりと見守った。あれ。左手にいったぞ。  やがて、もう一度右手を折り始める。――ふう、とぼくは吐息した。 「もう、いいよ。」  しょぼくれて止めた。  もう、がっかり。ぼくの心はブロークンどころかフローズンだよ。ぼくの好きな人は十八歳にしてお相手二桁。ねえ。ここでロクデナシってわめいてもいい? 「ずいぶんとお盛んなんだね。その中には女もいるわけ? この間はヤローとヤってたじゃない?」  ちょっと踏み込みすぎかなと思ったけれど、案外タカハシはすんなりと答えてくれる。 「最初の三人は女だった。でもダメだな。アレのときの女の声が、どうも苦手でさ」  そうか。それって立派なゲイだね、タカハシさん。 「ねえ。いまぼくが頼んだら、あんた、キスしてくれる?」  自分で自分の度胸のよさに感服した。タカハシも食い入るようにぼくを見つめる。初対面でぼくを見おろしたときと同じ目だ。ぼくがタバコの吸殻を落としたあとの、なんだか奇妙なものを眺めるような、でもどこかでそれを面白がってるような、揺れ動く視線。でもぼく、いまは真剣だよ、旦那。 「なんで、そんなことを言い出すんだ?」  口角を上げてにやける。恋愛ゲームを愉しんでいる、馴れきった笑いだった。  ふと気付いた。まるでちっちゃい子みたいに、この人は「なんで」とよく訊ねる。でもタカハシにとってのこの「なんで」の言葉は、ゲームの駒のようなものだ。それを使って人のことをからかっている。  それでもぼくはちゃんと伝えようと思った。その「なんで」に、真摯に答えなきゃならないと思った。だからぼくは正直に答えた。 「あんたが好きだからだよ、タカハシ」  タカハシは同じ笑いを浮かべたままで、当惑の影をすっと瞳に落とした。ちょっとの間、黙ったあとで、 「本気で?」 と、片眉を上げる。 「うん。すごく本気だよ。あんた、ぼくのこと可愛いって褒めてくれたでしょ。じゃ、少しぐらいは本当に可愛いと思ってくれてるんだよね? 可愛いヤツから強く求められたら、あんた、拒否できないんでしょ。だったらキスしてよ。いま、ぼくにしてみて」  ぼくは夢中でねだった。  自分で自分が止められない。突っ走っていると分かっていても、自分を制御できない。  ここまでくると自虐の極みといっていいな。わざわざ傷つくために恋をしてるようなものなんだから。 「そうだな。バスでの寝顔も、可愛かったしな」  タカハシが口元を緩める。 (だめだ。いまなら遅くない。やめとけ)  もう一人の自分が脳裏で聡く警告する。  こいつはお相手二桁の源氏の君。花魁を抱くお殿様。甲斐性もちの遊び人。つまりは格下女郎の相手じゃないってこと。そんなやつの僅かばかりの情けをここで受けたって、つらくなるだけだ。これ以上、自分で自分を追い詰めてどうするんだよ。 「じゃあ、してみようか?」  タカハシが意地の悪そうな微笑を深める。酷薄な笑いだった。  遊ばれているんだ。でもいい。だって好きになっちゃったんだもの。  斜めから覆いかぶさるようにして、タカハシが体を近付ける。距離に反比例するように、ぼくの体が強張った。  タカハシがぼくの背後にあるベッドに手をつく。ゆっくりと唇が重なる。目を閉じる。不思議な感触に、心臓が病的に拍動する。気を失いそうになったぼくは、両手を床に押さえつけて必死にふんばった。  しばらく唇の感触を味わったあとで、舌先が唇に割り込んでくる。どうしたらいいか分からないでいると、タカハシの手がグイとぼくの顎を掴んで、口を開けさせた。割り入ってくる厚い舌。強く、深く、重なる唇。味わうように舌が這い回る。息が苦しい。乱れた吐息が絡まりあう。…すごい、水音――。うわ、ヤバいな。なんかエロい。波のように寄せては引く快さに、体の芯が疼いて溶けてしまいそうで…。  なのに、そこでついとタカハシがキスをやめた。不思議そうにぼくを見つめるほんの十センチ先の瞳を、どうしたのだろうと思ってぼくも見つめ返した。 「まさか初めて?」  図星をさされて耳まで熱くなった。小説や漫画で読んだことはあるけど、本当に分かっちゃうものなんだ。ぼくは、こく…と頷いた。  途端にタカハシの表情が険しくなる。びっくりした。もしかして、怒らせたのだろうか。  初心者のくせに俺様の相手を所望するとは何事だ、みたいに、遊び慣れている相手じゃないと嫌みたいな、タカハシ流の流儀でもあるのかもしれない。  タカハシが体を離して、元の胡坐に戻る。その表情はでも、怒っているというよりはむしろなにかが腑に落ちないと不審がっている様子で、ぼくは次になにを言われるのかと落ち着かず、そわそわした。 「おまえ、バックはヤられてんのに、なんでキスは初めてなんだ?」  タカハシが低く唸る。耳を疑った。心臓が口から飛び出そうになった。 「あれ…。どうして、分かった――?」  声が擦れる。あまりに衝撃的過ぎて否定することも忘れた。タカハシが呆れたように、ハァ、と小さい息を吐く。 「そんなの、見てれば分かる。会うたびにケツつらそうに揺らして歩いてるんだからな」  うわ、と、声になりそうだった。そんなふうに分かってしまうものなのか。  確かに何十回だか何百回だか他人のバックをほっていたら、やられた相手がどんな様子になるのかぐらい分かるようになるのかもしれない。なんたってお相手が二桁の男だもの。 「おまえのステディは、キスをしないのか?」  こう重ねてくるから、ぼくはもう言い訳をあれこれ考えるのも億劫になり、これにのってしまえと頷いた。悟さんを自分の「ステディ」などと呼ぶのにはかなり抵抗があるけど、言われてみればその通りだもの。彼はぶち込むだけぶち込んでやりたい放題だけれど、ぼくにキスだの前戯だのを仕掛けたことは一度もない。二言目には「お前は人形なんだから」とぼくをダッチワイフ代わりにしているのだからさもありなん、だ。 「決まったやつがいるのに、俺を好きなんだ?」  畳みかけられて、チクリと胸が痛んだ。なんだか責め口調だったから。 (――いえ。彼から受けているのはレイプなんです)  そう声にできたら、どんなに楽だろう。どんなにか、すっきりするだろう。  でもそんなのを打ち明けたところでなんになる。それでタカハシの胸に去来するのは、なんだというのだろう?  …かわいそうだという同情? それとも、厄介なやつとかかわっちまったなという懊悩、だろうか?  どちらであれ、やっぱり言えない。真実は言えない。 「でも、本当に好きなんだよ。あんたが」  それだけを告げるのが精一杯だった。  顔を見ていられなくて俯く。惨めだった。  時計を見れば九時半近い。そろそろ帰らなきゃ。魔法がとけちゃう。  シャワーを浴びて、直腸洗浄して。バックに油を塗ってさ。  十一時には強姦されに悟さんの部屋に行かなければならない。それがぼくのお仕事。春をひさぐのが、ぼくの職業ですから。ついでにM役もね。 「もう帰るよ。今日はありがとう。ご馳走さま」  タカハシは駅まで送ってくれた。一度断ったけど、ついてきてくれた。それはとても嬉しかったけれど、歩いている間、ぼくたちはまったく口をきかなかった。気まずい雰囲気だった。

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