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月見村にて
満月の夜だった。
いつもと同じ酒生家の縁側で、酒生昇一郎と中埜幸志は並んで庭と明月を楽しんでいた。
「『月見村』とは、よく言ったものですね」
大きく黄金に輝く満月に見とれながら、中埜はそう言って酒生との間に置いた酒杯に手を伸ばした。
「あ!」「あっ!」
その手が、たまたま酒肴として用意していた、茹でたての落花生に手を伸ばした酒生の手とぶつかった。
それだけのことなのに思わず声を上げ、2人は見つめ合うと恥ずかしそうに頬を染め、照れ隠しのようにクスリと笑った。
まるで、初めての恋だった。近付くだけで胸が高鳴り、触れただけで怯えたように緊張した。
「昇一郎さん…」
熱っぽい視線の中埜の声に、酒生は一瞬俯いて、心を決めたように顔を上げると中埜の目を見つめ、ゆっくりと指先で中埜の頬に触れた。
誘われるまま、中埜はゆっくりと酒生の唇に自分のそれをそっと重ねた。触れるだけの、遠慮がちの口付けにさえ、まだまだ慣れない2人だった。
「つ、月が…きれいですね」
「そうですね」
赤い頬で、ためらいがちに口にした酒生に対し、中埜はさらりと返事をした。その瞳は、どこかしどけない酒生を映すだけで月など見ていない。
「あ、あの…」
何かを言いかけた酒生に対し、中埜は喜びが溢れた笑顔で、呟いた。
「月よりも、ずっとあなたを見ていたいです」
決死の想いで打ち明けた「I Love You(月がきれいですね)」を、無視された酒生だったが、優しい中埜の言葉に胸がいっぱいになった。
満月だけが、2人の恋を知っている。
それだけで、十分だった。
若い頃の恋愛とは違い、誰かに知って欲しい、誰かに認めて欲しい、という気持ちは無かった。相手を想い、相手に想われているというだけで幸せだった。
相手に多くを求める必要も無かった。誰よりも近くに居てくれる、それだけで満たされた。
「…今、何が欲しいですか?」
欲望の滲んだ甘い声で、中埜が囁いた。この先の、濃艶な展開を期待している「現役」の中埜だった。
「そうですね…。上海の月餅があれば良かったな、と思います」
「はあ?」
無邪気な酒生が、人の良さそうな笑顔で、少しはしゃいで言葉を続けた。取り残された中埜はキョトンとしたまま動けない。
「日本で月餅と言えば、甘いお菓子のようなものが多いでしょう?あれは広東式で、飲茶の延長線上にあるんです。けれど、私は上海に多い、甘くない『蘇式』の月餅が好きなんです。中埜さんにも食べさせたいなって思って…」
「……」
恋人と2人だけで観月が出来る喜びに、興奮して饒舌になっている酒生を、中埜は少し困ったような顔をして黙って見ていた。
それを、「あれ?」という表情で酒生が見返した。
「…中埜さん?」
しばらく黙って見つめ合っていた酒生と中埜だったが、呆れていた中埜が先に吹き出した。
「あなたって人は…」
「なんか…、すみません」
ようやく、中埜が意味していたことに気付いた酒生は、耳まで赤くして俯いた。
「来年は、月餅と月見団子を並べて、一緒にお月見をしましょう」
中埜はそう言って座り位置をずらし、愛しい65歳を抱き寄せた。それは、人生の後半に手に入れた、温かで、穏やかで、ゆるぎない愛で結ばれた伴侶だった。
「来年も、一緒に、ですね」
はにかみながら返した酒生も、満ち足りていて、やっと自分も幸せになっていいのだと受け入れることができた。
ただ月だけが、2人を知っているのだ…。
《おしまい》
中秋節快楽!
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