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未来を囲む灯り3
食後、テーブルの上には紅茶とお母さんが焼いたというシフォンケーキが出てきた。美味しそうだった。食事もとても美味しかったし、料理上手なようだ。
「バウムクーヘンはあとで出すわねって。それと、紅茶かコーヒーか訊かずに紅茶にしてしまったけど大丈夫かってオンマが」
イジュンが通訳してくれて、俺は大丈夫だと答える。普段はカフェに行くことが多いからコーヒーを飲む機会の方が多いけれど、実家ではお母さんが紅茶好きなので、普通に紅茶を飲んでいる。そう言えば最近、帰ってないな。都内で近いから、いつでも帰れると思って、なんだかんだでお正月くらいしか帰ってない。帰国したら帰ってみようか。イジュンのお母さんを見ていてそう思った。
イジュンの隣に座り、何気ない会話を交わす。お母さんの言葉はイジュンが英語で通訳してくれるか、お婆さまが日本語に通訳してくれる。お婆さまとは日本語で話す。それくらい日本語が話せる。なので、言葉にはそんなに気を使うことはなかった。お父さんはあまり話すことはないけれど、うんうんと頷いている。温かな空間で俺の緊張は随分となくなった。来て良かった。と思っているときだった。玄関のドアが開き、軽やかな声が響いた。
「안녕하세요(こんにちは)!」
振り向くと、黒のダウンを着た若い女性が立っていた。艶やかな長い髪を揺らしながらリビングに入ってきて、そのまま当たり前のようにイジュンの隣に座る。空港でイジュンと親しげに話していた、あの女性だった。
「ソヨン!」
イジュンが驚いたように声をあげる。
「ごめんなさいね。お客様が来てるときに」
そう言いながらも帰るそぶりは全くない。
イジュンに、彼女は従姉妹だと聞かされている。でも、どこか距離が近い気がするのは俺の心が狭いせいだろうか。温かいと思っていた空気が一気に冷えて感じた。
「今日はどうしたの?」
イジュンの問いかけに、彼女はにっこりと笑って「近くに来たから寄ったの。悪い?」と答える。
「あら、ソヨン。来たのね。今、紅茶入れるわね」
キッチンにいたお母さんがソヨンさんに気がついた。誰もソヨンが急に来たことになにも言わない。韓国では普通なのだろうか。
「若い人が集まるのはいいわね」
とお婆さまは嬉しそうに言っている。その温かな空間の中で、俺だけが居場所を見失ったように感じていた。
「そういえば」
ソヨンさんが俺に視線を向けて、英語で言った。
「イジュンが日本人と起業するって貴方のこと?」
突然の問いかけに息を呑む。少しの間をあけてから俺は小さく頷いて返事をした。
「そうですけど」
「ふ〜ん」
ソヨンさんは意味ありげに唇を歪める。その表情はなにを現しているのか読み取ることはできなかった。ただ、好意的ではないことだけは痛いほど伝わってくる。
そんな俺に気づかないイジュンはあっけらかんとした様子でソヨンさんに言う。
「そうなんだ。明日海となら上手くいくと思ってるんだ」
いつもなら嬉しいその言葉も、今はなにも感じられない。ソヨンさんはそのままイジュンに話しかけ、楽しげに笑い合う。韓国語だからなにを言っているのかわからなくて、俺は輪に入ることはできない。普通、ここに韓国語がわからない外国人がいたら、その人がわかる言葉で話すものを彼女はそれをしようとはしない。それはつまり、俺のことは歓迎していないということだ。なんだか俺はここにいないかのような扱いをされている。イジュンの家に招かれ、イジュンの家族と共にお茶を飲んでいるはずなのに、彼女の方が招かれているみたいだ。そして、俺がこんな気持ちになっていることにイジュンは気づかないみたいだ。鈍感男!
俺はここではただの「友だち」で「ビジネスパートナー」だ。イジュンの家族は温かく迎えてくれたけれど、それは友情や未来の仕事を前提とした関係に過ぎない。恋人でなんかないから、ソヨンさんのように血のつながりで家族のように受け入れられているわけじゃない。心のどこかでその差を突きつけられた気がした。
「明日海さん。お腹いっぱい?」
お婆さまが訊いてくる。きっと、食べる俺の手が止まったからだろう。俺は作り笑顔で、はいと笑った。
イジュンとソヨンさんの楽しげな声。お婆さまの優しい声と微笑み。お父さんの静かな視線。温かさに包まれたはずの空間が、今はどこか遠くに霞んで見える。俺、帰った方がいいのかな。そんな問いが胸の奥で重く沈んでいった。
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