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第30話

 目覚めを告げたのは、本部の家に設置された『世界樹(ム・ミール)』を模した魔法石が光ったからだった。片手に乗るほどの小さなそれは、枝葉から実をつける。種のように小さな実の中には相手からの手紙が成っており、砕くと文字が空に浮かぶ。  橙に輝く実は、昨日別れたきりの月橘からのものだ。  ただ一言、これから『鳥籠』に行く、と。  総帥との話がどうなったのかはわからない。あるいは決別し、単身乗り込むのかもしれない。それでも、今の桂樹には彼の気持ちがよく理解出来た。何者であろうとも、それに魂をもぎ取られたのだ。魅入られ、それ以外を求められない。  すでに発っているだろう彼に送り返す術はない。だが、彼の望むようにと心から願うばかりだ。  そして桂樹も行かねばならない。今こうして腕の中で眠る彼を、このまま腕に抱いていられるために。  改めて面会を申し込むと、あっさりと許可が出た。桂樹は緋桐を伴って再び執務室の扉を叩いた。 「ね、連理さん。ちゃんと連れてきたでしょう? 私の勝ちですね」  中に入ると同時、緋桐を認めた宝石のように美しい翠の瞳が楽しそうに総帥を振り返った。対する総帥は端正な顔をしかめ、濃い紫の瞳を嫌そうに眇めた。 「それは昨日の話だろ。一回連れ帰ってるんた。この場合賭けは俺の勝ちだろう?」  さも当然と返した総帥の台詞に雛菊が何か反応するより早く、桂樹が精悍な顔を歪める。 「なんの賭けをしてるんだ、あなた達は……!」  心底嫌そうに群青の瞳が怒りに染まる。だがそれを平然とした態度で受け止め、総帥は無駄に整った顔を挑戦的に桂樹に向ける。 「お前が勝手に連れ帰るからだよ、桂樹。許可を出した覚えはないが?」  途端ぞろりと低くなった凛々しい声に、ピリリと桂樹の背筋が伸びる。  二人の間に這うように現われた剣呑な雰囲気に、緋桐が狼狽えたように視線を彷徨わせた。それに気付いた雛菊が、緋桐の腕を取りにこりと笑う。 「お茶を淹れてきましょうか。緋桐、手伝ってください」  小柄な緋桐よりもさらにひと回り小さい雛菊に腕を引かれ、その有無を言わせぬ圧力に緋桐の足が動く。 「え、でも…」  だが対峙する二人がどうしても気になり、緋桐は何度も後ろを振り返る。 「大丈夫です。殴り合いの喧嘩になっても、負けるのは連理さんです」  日頃鍛えてる人は体力がありますからねーと、からかい交じりに笑う雛菊に連れられ、緋桐は半ば押されるように執務室から連れ出された。  それを不服そうに顔をしかめて見送った連理は、軽く息を吐き桂樹に向き直る。均整の取れた顔に嵌め込まれた濃い紫の瞳が、威圧感もって桂樹に迫る。 「休暇中じゃなかったか?」  笑みさえ含む声なのに、ピリリと圧を感じて桂樹は腹に力を入れた。ここで気圧されては、再びこの人と対峙する意味がない。  挑むように、群青色が総帥を射抜く。 「確認したいことがあって」 「なんだ?」  面白いと言うように、連理の柳眉が動いた。 「緋桐は『(レル)』ですか?」  直球の問いかけだった。  飾り気も何もないそれに、連理は紫の瞳を狡猾な獣のように細めて見せた。 「月橘に何か唆されたか?」  二人が会って話をしたことは知られていた。もとより本部にいれば、嫌でも顔を合わせてしまうだろう。まして月橘は昨日総帥と会っている。彼の話を聞いただろうし、あるいは桂樹から聞いた話もしたかもしれない。  連理の笑みを含んだ問いに、桂樹はぐっと拳を握った。月橘の話を聞いていなければ、桂樹はまだ答えに出会っていないかもしれない。 「否定はしません。でも、緋桐が俺たちと違うことは事実です」 「続けろ」  話を聞く価値はあるかと、連理は桂樹の話を促し、執務机とは別の来客用のソファに腰を下ろした。座るよう勧められもしたが、桂樹はあえて立ったまま報告書の続きを読むよう口を開いた。 「緋桐はこの世界の人間じゃないと言いました」  そこでの日々は、決して幸せなものではなかった。自らの命を絶たなければならないほどの絶望を彼は見たのだ。その彼が、生き物が棲息しない『(リュス)』にいた。命を絶った後と『森』に至るまでの記憶はなく、意識の終わりが命の終わりで、始まりが『森』での目覚めだった。 「そのことから、緋桐は『森』を通じてあちらの世界とこちらの世界を移動してきたと仮説を立てます」  『森』が何らかの理由、あるいは偶発的な出来事により向こうの世界と通じたと仮定すれば、緋桐がいたのも理解が出来る。彼に『森』に至るまでの記憶がなくとも話は通る。  桂樹の仮定の話を、連理は黙って聞いていた。が、桂樹が結論を結ぶと、その均整の取れた小綺麗な顔を呆れたように歪めた。 「荒唐無稽な仮説だと思わないのか?」  この世界ではない、どこか違う世界から人間が移動してきたなどと。そもそも仮説として成り立つのか。その話と緋桐が『鳥』であることに関連性はない。  彼が『鳥』だと仮定するならば、もっと合理的で科学的根拠を並べる必要があるだろう。  それにその話の穴は、緋桐の言の真偽が誰にも測れないことだ。 「お前はその話を信じてるのか?」  あまりにも現実からかけ離れた、空想もいいところだ。研究者として、一人の学者として、それをただ鵜呑みにするのか。  突き付けられた問いに、桂樹は固まる。  桂樹は疑ってもいなかったのだ。頭の片隅にすら、疑うと言う単語がなかった。疑いを持って検証を重ねて重ねて、ようやく真実に辿り着く学者としては、有るまじき浅慮だ。  だが。  疑う余地が緋桐の中のどこを探しても見つからなかった。縋るような瞳が、細かに震える薄い体が、慟哭するその声が、全てで訴えかけていた。  研究者であろうとそれを疑うのであれば、人としての己が死ぬ。

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