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第一章:火花と氷4
放課後の教室には、夕方特有の静けさが満ちていた。黒板の端に残った小さなチョークの粉を指先でなぞり、俺は掃除の点検を終えようとしていた――そのとき。
「なぁ委員長。俺、お前を笑わせたい!」
「……は?」
雑巾を持った手を止める。振り返れば榎本は箒をマイク代わりに握りしめ、教室の後方で得意げに胸を張っていた。
「だってさ、お前一度も笑わねーし。聞いたところによると、B組のクラス全員が“鉄仮面の佐伯”って呼んでるらしいじゃん。そろそろ封印を解いてもいいだろ!」
「くだらない」
「よし第一段! ほうき芸!」
榎本はいきなり箒を股に挟み、「ひひーん!」と馬の真似を始めた。床を蹴って走り回る拍子に、教室の端にかけてあった使用済みの雑巾が床に散乱する。
「馬鹿なことをやめろ。掃除道具で遊ぶな」
「チッ、ダメか。じゃあ第二段!」
今度は机の上に飛び乗り、わざと大げさに転びながら「おっとっと~!」と情けない声をあげる。椅子がガタンと倒れる大きな音が響き、思わず眉をひそめた。
「榎本やめろ。くだらない上に危険だ」
「ぐぬぬ……委員長の鉄の仮面、マジで手強ぇ!」
榎本は立ち上がると素早く移動して俺の隣に立ち、胸を張って口調を真似した。
「“榎本、シャツをしまえ。校則違反だ”」
「……」
「“人間は規律を守ってこそ真に価値がある。違反は即刻、矯正だ”」
やけに似ていないモノマネの最中に、偶然教室に入って来たクラスメイトの数人が噴き出した。
「委員長、ちょっと口元が動いたぞ!」
「……くだらない」
表情を崩さぬまま返すと、榎本は天を仰いでガクッと崩れ落ちた。
「くっそー、絶対いつか笑わせてやるからな!」
床に散らばった雑巾を拾い直しながら、俺はため息をつく。榎本の登場で掃除の点検に、無駄な作業が増えてしまった。
俺が黙々と後片付けをしている間に「絶対笑わせてやる!」と息巻いた榎本の宣言は、なぜかB組全体を巻き込んだ。気づけば部活に行ってない連中が集まり、榎本の周りを取り囲んでいる。
「委員長笑わせ隊、参上!」
「よっしゃ、俺も混ざる!」
「どっちが先に笑わせるか勝負な!」
瞬く間に、教室は即席の舞台と化した。変顔、漫才、謎の告白劇――次々とくだらない芸が披露され、教室は笑いの渦に包まれていく。
「お前たち、静粛にしろ」
冷たい声で一喝するも、逆に火がついたようだった。
「委員長が笑ったら勝ち!」
「佐伯が笑った瞬間、笑わせたヤツが優勝だからな!」
バカ騒ぎの熱気が最高潮に達したところで、榎本が教壇に飛び乗った。
「ラストはこの俺、榎本虎太郎だぁぁ!」
彼はおもむろに制服の上着を脱ぎ捨て、黒板消しを両手に装備。
「必殺! チョークダスト・ドラゴン!」
意味不明の叫びとともに黒板消しを叩き合わせ、白い粉をぶわっと蒔き散らす。咳き込みながらもドヤ顔でポーズを決める榎本。その場にいる全員が爆笑して、床を転げ回る者まで出た。
「くだらない……掃除が増えるだけだ」
俺はハンカチで口元を押さえ、冷たく言い放つ。だがクラスメイトは「委員長、今ちょっと口角上がったぞ!」「見た見た! 絶対笑った!」と勝手に騒ぎ立てた。
「勝者は榎本だな!」
「いやいや、まだ笑ってねーだろ!」
混乱は頂点に達し、教室中が笑いに包まれる。
俺は深いため息をつき、うんざりした顔で席に戻ろうとしたが、不意に視界に入った榎本の姿に足が止まる。チョークの粉で髪も制服も真っ白。それでも満面の笑みで親指を立てる姿に、なぜか胸の奥がざわついた。
(アイツの行動そのものが理解不能だ――)
表情は変えないまま席に着いたが、心の奥に小さな熱を残したのは確かだった。榎本は勝ち誇るように指を差し、大声で叫ぶ。
「よっしゃー! 今度こそ笑わせたからな委員長!」
――そのとき。
「さっきからうるさいぞお前ら、いい加減にしろぉぉ!」
怒号とともに教室の扉が開かれた。生活指導担当で体育教師の|轟《とどろき》が、腕を組んで仁王立ちしていた。教室のざわめきが一瞬で凍りついた。
「黒板消しでドラゴンだぁ? チョークの粉は何だ、雪合戦でもしてるのか!?」
「……いえ、その……」
「言い訳は無用! お前ら全員、教室掃除だ!」
悲鳴混じりのため息があちこちで漏れる。だが教師の鋭い視線が、榎本と俺に突き刺さった。
「特に榎本! 元凶はお前だな! それから佐伯。委員長のくせに止められなかった責任は重い。二人で教室と廊下を、ピカピカに磨いとけ!」
この瞬間、その場にいた者が「巻き添え回避」の安堵の笑みを浮かべる中、俺と榎本だけが犠牲者に決定した。
「マジかよ……俺だけならまだしも、委員長まで一緒とは」
「これは、余計なことをしたお前のせいだ」
窓から射す夕陽が、教室の床を赤く染めていた。俺と榎本は、黒板と床を分担して掃除を始める。モップがきしむ音と、雑巾を絞る水音だけが響いていた。
「チョーク粉って、思ったより落ちねぇな……」
榎本がしゃがみ込んで、力任せに雑巾をこすった。額から汗が流れ落ち、乱れた前髪の隙間から覗く双眸が揺れていたのが見て取れた瞬間だった。
「うわっ!」
バケツの縁を引っかけた榎本が、盛大に水をぶちまけた。飛び散った水滴が俺の足にかかり、裾がぐっしょり濡れた。
「っ……!」
「わ、悪ぃ! ちょっと待てよ!」
榎本は慌てて雑巾を掴み、俺のズボンを拭こうと手を伸ばす。
「触るな!」
反射的に声を荒げたが次の瞬間、榎本の大きな手が俺の手首を掴んだ。濡れた指先が皮膚に触れ、ぞくりと電流のような感覚が走る。
至近距離で、榎本と目が合った。淡い茶色の瞳が、妙にまっすぐに俺を見つめてくる。ふざけているわけでも、挑発しているわけでもない。どこか必死な色を帯びた視線に、心臓が一瞬で跳ね上がった。
「委員長?」
「……くっ!」
息が詰まるのを感じて、俺は乱暴に榎本の手を振り払う。
「余計な真似はするな。濡れたくらい、自分で始末できる」
「ハイハイ。委員長ってホントに頑固だな」
榎本は苦笑しながらバケツを拾い直す。俺は掃除の続きをしようとするのに、掴まれた手首の感触がいつまでも残っていて、雑巾を握りしめたまま動けなかった。
(なぜ……こんなにも俺は動揺しているんだ)
夕日の差し込む教室で、俺の世界はほんの少しだけ色を変える。理屈では説明できないざわめきが、心の奥底で静かに息づいていた。
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