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――四月。 期待より不安が胸に重くのしかかるなか、米田新(よねだあらた)は男子高等学校の門をくぐる。 鼻先に少し湿った土の匂いが掠める。昨日の晩降っていた雨のせいだろう。 中学三年間は、教室と家と図書室を往復して終わってしまった。 せめてひとりは友達が欲しいと目標を掲げて進学した先の校訓は「文武両道・切磋琢磨」 なんでふたつもあるんだと思ったら近所にあった隣り合った学校が併合して生まれた名残だとか。 学校が併合されたのは、ただの人口減少のせいだ。出生率の低下――あの法律がもたらした〝ありがた迷惑〟の産物。 新は文武の武が苦手なので文の方で切磋琢磨できる仲間を見つけられたらいいと考えていた。参加必須の部活動も事前に文芸部があるのを調査済み。そこでなら確実に似た趣味の男子もいるだろう。球技というか運動自体遠慮したいので、絶対文化系! 絶対文芸部! それだけ意気込んで壁に掲示されたクラス分け表に従い、教室に向かう。 校内はそれなりに広いが新入学生は三クラスだけ。昔は一学年五クラスあった名残か、空き教室が目立つ。ぼんやりと風景を見ながら廊下を進む。 校庭には桜の木が数本並んでおり、満開とはいかないが咲いている。風に吹かれて花びらが舞い、校舎に吹き寄せてくる。植えられた低木に身を寄せて深緑に桃色の花が開花する。「……」 文豪の書いた一節の文章よろしくと言ったところか、我ながらロマンチストだなと心で嘲笑する。普段から物語に触れている癖だ。幼少期から空想の世界、児童文学や小説の世界が大好きでいつからか自分でも書くようになっていた。 自分しか知らない世界を作り上げる楽しさ、日常から得られるヒントも加えて自己流で今も続けている。新しい生活であるだろう出会いも、きっと物語のスパイスになる。 それすら楽しめるように願いを込めて、深呼吸をひとつして引き戸を開ける。 ……到着した教室にはすでに生徒が数名着席しており、互いに挨拶したり、どこから来たのかという話で盛り上がっている。黒板にはチョークで長方形に間仕切りがされた座席表が書かれていて、皆これに倣って座っているようだ。 自分の席は窓側から二列目、前から四番目の席。教室の中をゆっくりと進み、机を確認すれば入学式で使うであろう、「祝・御入学」と書かれた胸飾りと、学校のしおりと書かれた冊子が一冊。 表紙にイラストはなく今日のタイムスケジュールが書かれている。 卒業生からのお下がりであろう机自体は比較的綺麗……だが、椅子を引くと座面には色々彫られていた。 「こっちか……」 若干の座り辛さを覚えながら着席。そして深呼吸をひとつして、そのまま周囲を見渡す。廊下側の席には五名ほど、騒がしいまではいかない音量で自己紹介をし合っている。 それから後方、ロッカーが並ぶ方には運動部らしき容姿の生徒が久しぶり、と言い合いハイタッチ。旧知の仲なのだろう。こうやって人間観察するのが日課なので、悪く思わないでもらいたい。 そして自分の周囲で席についているのが四名……前側は背中しかわからないが各々好きなことをしているように見える。そして後ろは……、と気づかれない程度に振り向き、新は息を飲んだ。 窓際の最後列。彼は窓の外をぼんやりと眺めていた。光の粒を背にして座るその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。 手には小さな文庫本。 胸の奥がちくりと疼き、視線を逸らすのが一瞬遅れる。 何を読んでいるんだろう――。 好きな作家は? ジャンルは? 疑問が次々と浮かぶのに、口を開く勇気はない。 再度正面を向き深呼吸……と、スピーカーから木管楽器の音階が聞こえ、続けて教師であろう少し重厚感のある声が今から入学式が始まることを伝え、二十分後に体育館、とまで言い終わると今度は逆音階で放送が終わったことを告げた。 見惚れていた間に教室はクラスメイトで席は埋まり、放送の後は皆席を立ったりグループを作り体育館へ向かい出す。 「……あ」 出遅れてしまった。既にグループ形成が始まっている。前の席に居る生徒も移動を始めていている。急いで新も立ち上がる……と、同タイミングで窓側の彼も立ち上がった。 「……」 先ほど新は彼の姿が絵のようだと表現したがそれは雰囲気を伝えたもので容姿を言及したものではない。目が合った。少し釣り上がった大きな瞳は不思議な色をしている。肌は陶器のように白く唇はほんのり桃色をして潤っている。 髪は紺がかった黒で制服は詰襟を一番上まできっちりと締めていた。 とても綺麗だ。中性的というか、けれど男性だとはっきりとわかる。不思議な人……。 「行かないの」 「え」 「体育館」 「い、行く! 行きます!」 少し低い声。とても落ち着く声。こういう声をなんというのか、確か名称があった気がする。 当たり前なのだが見渡す限り男子しかいない体育館に少し緊張をする。怖いわけではない。これだけ同性が集まれば趣味の合う人間がひとりはいるだろうなという期待を込めて。 入学式が始まり、教職員の紹介、校長の話、新入生・在校生の挨拶。 隣に佇む綺麗な彼にチラチラと視線を送っていたら気付かれた。背は新よりわずかに低い。 抱きしめたら折れそうな、細い肩。 「……」 「……なに」 「えっ」 「僕じゃあなくて、前」 「あ、はい……っ」 校長先生の話は、学校の始まりから人間と稀人(まれびと)それぞれの校長が手を取り合って併合に至ったというところまで、よくある長い話だった。隣の彼はまっすぐ前を見て傾聴している。 真面目なんだな、自分もそういうタイプだと思うが、こう長い話は別のことを考えて時間を潰したりする。 ……天帝域(てんていいき)がある以上自分たちの見上げている景色は本当の空ではない。天帝の作り上げた幻術、「天網」が見せる幻なのだ。うわの空で見上げる青も偽物……。 ……教科書で読んだ世界の話を、思い返す。 世界はふたつに分かれている。人域(じんいき)と天帝域。小学生の授業で叩き込まれる常識だ。 人域の世界の空は青く澄み渡り、しかし蜃気楼のようにそこに天帝域は存在している。 両界は交流もあるし、お互い認識をし合っている。 でもどこか線引きされていて、人域の住人は天帝域をないものとして生活をしている。 政府はあくまで対等な関係とはいうけれど、新はそうは思えなかった。 稀人はいつだって贔屓される。特別だ、と持ち上げられて。 「両界統一法」「稀人(まれびと)」「天網」……校長の声が遠くで木魚のように響いていた。 退屈な式典の中で、その言葉たちだけが鮮やかに浮かび上がる。 確かに今まで人域に存在しなかった植物や食料が天帝域からもたらされて随分ここでの生活も豊かになった。選択肢が増えるということは、結婚相手として無個性な人間が選ばれる確率を下げ、国民総人口のうち純粋な人間の数は減り、結果冒頭で伝えた出生率を下げるに至った。 電車の中、トレインビジョンに「出生率、過去最低」と赤い字幕が滲む。 稀人に対して人間は何の感情も持ち合わせない。 恋愛なんて、この世界じゃもう風化しつつある。教科書の脚注か、小説の中でしか見かけない言葉みたいに。叶わない恋ならばいっそ心中してしまおう。かつての文豪が流行らせたというその行為ももはや物語でしか聞かない。 ――稀人と人類が手を取り合い、歩んでいく。それをまず我が校で学んでいきましょう。 校長の話はそう締め括られ、終わった。 「……空が繋がっているわけも無いのに」 ざわめく式典の中、その声だけがやけに鮮明に響く。 俺も、そう思う。 「結局、この教室に稀人がいるってのもわかんねェんだし。共に歩めって言われてもな」 教室に戻って早々、ひとりの生徒がそう言い出した。彼が言っているのは「両界統一法」のことだ。 天帝域の住民は、申請すれば人域で暮らせる。 出生書類と許可証を役所に提出すればいいだけで、周囲に打ち明ける義務もない。 稀人は、容姿や力が“異質”だからこそ──それが危険を招くこともあるからだ その言葉に反応した生徒もいたが内輪での盛り上がりに終わって、教師が到着したところで室内がしんとした。 それから授業の流れや部活動についての説明、各書類が渡されて昼休み。 新はここまでの状況に少し違和感を覚えた。 ……自己紹介でも誰も彼を見ない。話題にも上らない。その沈黙が、ざわつくよりもよほど異様に感じられた。 「龍烏津軽(たつおつがる)です」 ただそれだけ。澄んだ声が空気を震わせた。心が静かに整うような声だった。 ――自分ばかり視線を送っている気がする。 龍烏くんは俺の視線にも気付かない。最後列の特権で教師の話を聞いていなくても目立たないのをいいことに、朝と同じ文庫本を指先でめくり続けていた。細い指がページを捲るたび、ほんの一瞬だけ光を弾く。その声が、視線が、僕を惹きつける。龍烏くんを通して流れてくる空気は、雨上がりの森みたいに澄んだ匂いがした。 「米田くんは部活どうするか決めてる?」 不意に名前を呼ばれ、現実に引き戻される。お弁当を突きながら部活申請書と睨み合っていると、隣の席の鴨宮がこちらを覗き込んでいた。 「俺……映画研究部希望なんだけどさ。二年の先輩に話聞いたらもうひとり一年連れてこいって言われてて」 「ああ、そういうこと……」 この学校は運動部の方に力が入っているし、全国的にも有名だ。ゆえに文化系の部は常に存続の危機と隣り合わせ。新入生の奪い合いだ。 「ね、説明会だけでも……」 「いや、俺はもう決めてて」 「そうか……無念」 鴨宮はそのまま菓子パンを齧り、眉毛を下げた。彼の話を聞いていたのか、その前の席の生徒が後ろを向いてくる。 「あ、俺興味ある。連れてってよ」 「お〜まじ?」 鴨宮の下がっていた眉毛が一瞬で元の位置に戻り、声のトーンも少し明るくなった。 「うん。鴨宮だっけ、よろしく」 「……」 話を、キャッチボールを続けられるようにしたかったのに、途中で掻っ攫われてしまう。 口を開くタイミングを探す前に、会話は僕の手の届かない場所に転がっていった。 鴨宮に話しかけられた時も内心びくびくしていた。よく怖けずに返答できた方だと思う。それでも、高校生になったし、少しは変わりたい。「もう少し頑張れよ」と心の中の声が呟く。けれどもう、映画で盛り上がるふたりの会話に混ざる勇気はなかった。 自分の弁当箱を空にして、机の中から単行本を取り出す。入学祝いに祖母から贈られた本。長編でまだ序盤だが、架空の国で特殊な人種と人間が恋をする物語だった。恋愛なんて概念、俺はよくわからない。親世代の頃は当たり前だったのに、今じゃ物語の中でしか見ない感情だ。 ふとまた、龍烏くんの方から優しい匂いが漂ってくる。昼食を摂っている様子はない。ただ、文庫本を開いたまま、俺と視線が合うこともなく――けれどその存在は、なぜか自分の意識だけを静かに攫っていく。 「授業は明後日から。明日は部活動のオリエンテーションがあるから興味のある部には積極的に見学するように」 帰りのホームルームの締め括りに担任はそう言って教室を出て行った。 筆記用具とメモ帳、単行本をリュックに詰めて席を立つ準備をしていると、後ろから声を掛けられた。 「米田くん、ちょっと」 ……龍烏くんだ。あの澄んだ声で僕の名前を呼んでくれた。その瞬間心臓が大きく揺れる。 驚いて小さく声が漏れる。振り返るとじっとこちらを見つめて先に席を立つ龍烏くんがいた。 ――ついてこい、ということだろうか。 そのまま扉の方へ向かう彼の後ろ姿を慌てて着いていく。彼とはまだ会話らしい会話もなく、ただ一方的に視線を送っていただけなのに。 着いた先は図書室。利用者はまばらで、返却された本を整理する音と紙の匂いが漂っている。 遠くで部活動に励む生徒の声がかすかに届き、その静けさがかえって心臓の鼓動を意識させた。 窓際に座る彼は逆光を背負い、まるで後光を差した仏のように見えた。 息を呑むほどに綺麗だ――。 「米田くん、僕に何か用?」 感情の読めない顔つきで逆に問われ、胸が跳ねる。彼が僕の視線に気付いていて、あえて無視していたのだと悟った瞬間、羞恥心が一気に膨れあがる。 「えっと、ですね」 素直に伝えるべきか、軽く受け流したほうがいいのか、わからなくて声が詰まる。 「僕の顔に何か付いてる?」 「……綺麗な目と鼻と口が……」 「そりゃそうだろ」 少し不機嫌そうな声に、冗談が通じなかったのだと察した。意地悪をするつもりなんてなかったのに――。 頭の上から血の気が引いていく感覚の中、必死で言葉を紡ぐ。 「龍烏くんがあんまりにも綺麗だから。どうして、誰も見惚れたりしないんだろうって」 それを聞いた龍烏くんの表情に呆れを感じた。彼の無表情が驚いた表情に変わったのだ。 「僕が、綺麗?」 そんな言葉を投げられるとは思っていなかったのだろう。白い頬がわずかに赤みを帯びているのは、夕陽のせいだけではないはずだ。 「う、うん。すごく綺麗で、絵画から抜け出してきたみたいで……! 声も、すごく印象的」 勢いのまま、止められない。気持ちが溢れて、次の言葉まで出てしまう。 だがその間に、龍烏くんの顔色はゆっくりと青ざめていった。 こんなふうに褒められても、彼にとってはただ気味が悪いだけなのかもしれない。 「……僕は、君みたいなのに興味を持たれるんだな」 喉の奥でかすれるような声。微かに滲む寂しさが、胸を締めつけた。 「まず、君は僕を綺麗だと言うが生まれてこのかたそんなことを言われた経験がない」 彼は澄んだ瞳で僕を見つめそう言った。そんなわけないだろう。こんなに目立つ容姿をしているというのにそれを指摘もされないなんて 「そんなのあり得ないよ……」 僕は受け入れることが出来ず、窓の外と龍烏くんの顔を交互に見る。内面に問題でもあるのだろうか。少しそっけない感じはするが嫌われる程ではない。 大した話ではないのに、それがなんともショックでそれ以上の言葉が出てこない。 「普通の人間は、僕に興味を持たない」 その言い方妙な違和感を感じて、自分の中で反復させる。 とても綺麗な容姿、でも人間から好意を持たれない、興味も関心も寄せられない。ひとつあるとすれば彼が人間ではない種族という可能性。 ……綺麗な瞳。黒いけれど青を孕んだ虹彩。その奥にはまた神秘的な色が潜んでいる。 長いまつげは髪と同じ色なのに、透けて見える。香水かと思った独特な匂いには科学的な調合を感じない……。 彼の言葉は確信を得ないまま、ただじっと僕を見据える。それ以上の言葉もなく、僕もそれ以上は聞けなかった。 「僕も、人間に惹かれるものもない」 ピシャリと言い切った明らかな拒絶。読書仲間になりたいと、これからどうにか交流をしたと考えていたのに。俺がいけないのはわかっている。見知らぬ人間に、何度も視線を送られて気味が悪いと思わない方がおかしいのだ。 謝らなきゃ。けれど肺の奥が熱を持ったまま固まるみたいで、声を探しても出てこなかった。 『鍵締めたいんだけどー?』 司書の声が、あまりにも現実的で。 図書室には相応しくない、少し大きな声に新は一瞬驚いた。先程まで雑談をしていた生徒の姿はなく、室内には司書と僕たちだけだった。 「はい、今出ます」 龍烏くんは静かな口調で返事をし、一瞬だけ僕を射抜くように見て、背を向けた。 「なんだったんだ今の……」 ただ茫然と立ち尽くす俺に司書の女性はまた声を掛ける。 「――普通の人間は、僕に興味を持たない」 その言葉が僕の耳に絡みついたまま離れなかった。 図書室の静けさがやけに遠い世界のもののように感じられる。 体育館には折りたたみ椅子が並び、新入生が肩を寄せ合うように座っていた。マイクを通した声が反響し、オリエンテーションが淡々と進む。最初は運動部、そして文化部。美術部、映画研究部、吹奏楽部……文化部は圧倒的に少なく、最後は軽音部の紹介で締めくくられた。 新は最初から最後まで一言も聞き漏らさないよう耳を傾けていた。だが、その中に先日調べたはずの部活の名前はなかった。 「……そんなはず、ない」 胸の奥が冷え、手に持ったメモ帳がやけに重く感じる。存在すらしないのでは、話にならない。 数年前の広報には、文芸部の部員が地域文学賞を受賞したという記事が大きく載っていた。そこには生徒と顧問教員の笑顔のインタビューまで添えられていた。それを見て、新は「絶対にこの文芸部に入る」と決め、この高校に進学したのだ。 オリエンテーションを終え、勢いそのままに教員室に向かう。 教員室の扉を開けると、コーヒーの香りとキーボードを叩く音が混ざった空気が漂っていた。文芸部の顧問の顔は広報で知っているから、室内をぐるっと見回し、声を掛ける。 笑顔で振り向く初老の男性はいかにも文芸部の顧問を思わせる風貌だった。 「ああ……文芸部ね。今年の卒業生を最後に廃部になったよ。去年も部員が集まらなくて」 そして意外にもあっさりと紹介されなかった理由がわかり、全身の力が徐々に抜けていく。 「部としての活動できる最低人数になってからは部誌も発行していないし、かれこれもう五年くらいはほぼ休止状態だったねぇ……」 懐かしそうに話す元顧問に、これ以上聞くことはない。 文学賞受賞は翌年の部員勧誘有利な状況をもたらすと考えていたけれど結局成果を得ず、近年は運動部や他の文化部に馴染めない生徒の溜まり場と化して、去年はついに新入部員ゼロ。結果、三年生卒業を機に廃部……ということらしい。 「けど三名以上の有志が集まれば同好会は作れるよ。部費も出ないけど……」 顧問と放課後空いている教室を確認して申請すれば、簡単に作れる。が、そこから部に昇格させるのは至難の業だけど。申し訳なさそうに元顧問は教示し、そして申請書とのど飴を手渡してくれた。 鴨宮と寄居は映画研究部。大磯は野球部、その他サッカーや剣道……クラスは運動部と文化部でちょうど半々くらいだろうか、教室での会話に聞き耳を立てた結果だ。確実に合っているかはわからない。 誰か誘える生徒……と考えたものの、一週間も経てば皆、確定し始めてきた。 そわそわしたまま、意識して龍烏くんを見ないように心がけていた。あの心地いい匂いと、本に視線を落としていると目立つ長いまつ毛。 あの時、決して金輪際見てくれるなよと言われたわけではない。ただどうしようもない嫌悪を向けられた。時折龍烏くんとは放課後、図書室で一緒になることがある。会話もない。目線も合わない。ただ意図せず席が近くなることがあるから、その時は龍烏くんがそこにいると感じるだけでどうしようもない多幸感が身体を駆け抜ける。 利用者の少ない図書室。その静寂が心地よかった。 「龍烏くんはさ……部活、決まった?」 それからまた少し経ったある放課後。図書室で一緒になった龍烏くんに勇気を出して声を掛けてみた。夕陽が室内を橙色に染め始めていて、時折青も混じる。 「別に、決まってない」 「……え、絶対参加なのに?」 お互い目線は手元のまま、返事をしてくれるとは思っていなかったから、すぐに返答が出来ずに一拍おいて答えた。 龍烏くんはそれを知らないのか、視線を上げてまっすぐ前を見つめ「……知らなかった」と小さく漏らす。いや、オリエンテーションでも教室でも担任も何度も言っていたのに。 やはり、そこまで聞いていなかったんだ。 二週間後、つまりは明後日に提出しなければいけない。締め切りは絶対だと、口を酸っぱくして言っていたのに。授業中も文庫本に没頭していた彼がそんな話を聞いているはずもない。 ……これはチャンスかもしれない。 そう思った瞬間、胸の奥がひどくざわついた。 声をかける勇気と、彼に拒まれる恐れ。その間で心が揺れる。 ……知りたいのだ。彼という存在を。それを、物語にしたい。彼が主人公の小説を書きたいのだ。 「たつおくん、ひとつ提案があるんだけど」 声が震える。これまでの生活で自己主張を強くしたことは少ない。遊ぶのはいつだって気の知れた幼馴染だけだったし、家柄も相まって友人は少ない。 教室で鴨宮に話しかけられたのも嬉しかった。文芸部に心が決まっていなかったらついて行っただろう。けれど、変わりたい。ここで変われば今後だって、将来も明るいと言い聞かせて龍烏くんを、文芸同好会に誘うんだ。 自分の鼓動が鮮明に聞こえる。普段より明らかに速い。少しは落ち着いてもらわないと、次の言葉が出てこない。 ゆっくりと沈んでいく太陽がもう半分以上見えなくなっていた。校内にチャイムが流れる。廊下の電灯が順に点灯して、図書室にも灯りが点いた。それはまるで夜を告げるようで、橙色に染まっていた龍烏くんの肌が蛍光灯に当てられて白い肌に戻る。 人魚姫が、陸に上がったその肌は白く、けれど彼の美しさは少しも損なわれない。 思わずまた綺麗、と言ってしまいそうになるのを抑える。また怪訝な顔でもされたら立ち直れない。 「……俺と、文芸同好会を作りませんか」 言い切った瞬間、一気に喉が渇いた。心臓の音ばかりがやけに響く。 しばしの沈黙。龍烏くんが本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。 「え、やだ」 その淡々とした声に、鼓動が一瞬で跳ね上がった。 可愛い。その一言が喉まで出かかるのに、声にならない。言葉は泡のように揺れて消えた。 そんなことを言ったらまた嫌悪感を滲ませてこちらを睨んでくるのはわかっている。 「でも、何かしら入らないといけないんですよ」 「いつもやっていることと変わらないじゃないか」 つまり放課後、図書室で本を読んでいるこの行為が部活動になるものかと言いたいんだろう。しかも勧誘者が得体の知れない僕だなんて不審に思うのもわかる。 「つまり普段通りに図書室に通っていれば立派な部活動になります」 「……」 これで伝わるだろうか。 多分、龍烏くんは部活動なんてしたくない。けれどどこかに在籍しないといけない校則がある。幽霊部員なんていう言葉があるがこの学校では不可能に近い。 だから自分たちで都合のいい同好会を作ってしまえばいい。成果なんていくらでもでっち上げしようと思えば可能なのだから。 「名前だけ、貸せばいいの?」 「今のところ俺たちしかいないから、活動方針も自由自在」 「……なるほど」 龍烏くんは、多分部活動規約も何もよくわかっていないと踏んでこの話をしてみた。こんな都合のいい話乗っかるのか、不審に思われるかも知れない。 彼には適当に同好会を作って、適当に過ごそうと言う誘いだと解釈してもらいたい。そして在籍してほしい。騙すかたちにはなるがどうしても彼といる口実も欲しいのだ。 お気づきだろうが新は名前だけ貸せばいいのか、という問いにも答えてはいない。欲しいのは名前じゃない。龍烏くんが在籍すると言う事実。 この学校では部活動・同好会共に年に一度は実績を報告しないといけない。それは目に見えて把握できる必要があって、文芸部としてその最たるもの、部誌。 文芸部がしっかりと機能していた頃は学園祭のタイミングで部誌を発行していた。 俺は龍烏くんをモデルにした主人公で物語を紡ぎたい。そのためには、彼をもっと知りたい。もっと近くで、もっと深く。そのためなら騙すような真似をしてでも、彼と同じ場所にいたい。 だから文芸部を復活させるんだ。足りない人員は、幽霊部員を集めてでも。 俺は彼の解像度を上げたい。 顧問は以前も文芸部を担当していた二年の古文担当、平塚先生にお願いした。 部員はとりあえず米田と龍烏のみだと伝えると、元々文芸部は存在していたし優秀な実績もあることを理由に承認会議で部員ふたりでも活動できるよう融通が効くか頼んでみると言ってくれた。 申請書に必要事項を記入して平塚先生に手渡すと、「学校の印刷機を使って部誌を学園祭に合わせて発行するのを目標にしてみる?」と言って文言を書き足し、教員室へ戻って行った。 それから活動場所には図書室を使っていいと司書の先生から承諾ももらえた。 文武両道の校訓はあっても利用者が少ないのが現状で、生徒の役に立てるなら、と場所を提供してもらえことに。次の日、時間を作って図書室に来てくれた先生から、半年以内にもうひとり部員を入れることを条件に「文芸同好会」は承認。 滞りなく、事が進んでいく。書類のやりとりも、活動場所の承認も、先生たちの好意でどんどん形になっていく。ただひとり、龍烏くんだけが浮かない顔をして。 「聞いていた話と違う」 明らかに不機嫌な表情で龍烏くんは僕の前に仁王立ちし、不服を申し立てた。 そりゃあそうだ。 名前だけのはずが部誌を一緒に作るようにと顧問に指示もされてしまったのだし。 怒った顔も可愛いと言うわけにも行かず、騙していたわけじゃないんだけど……としどろもどろに伝えるとため息を吐いて、本当にそうなのかと凄んできた。 「う、嘘です……」 「わかってる。そういう顔をしていたからな」 俺は君がわからないのに。怒った表情だけど、少し悲しそうな声音で龍烏くんは視線を逸らす。活動方針を決める話し合いをしてから、会話らしい会話をしてこなかった。彼なり優しさでどうやら僕からアクションがあるのを待っていてくれたらしい。僕らはキャッチボールが足らないのだ。 「ご、ごめん……今日は図書室の外で話し合いをしよう……か」 応援されている手前、言い合う姿を司書に見せるわけにも行かず、カバンを肩に掛け、一旦図書室を出る。少し夏も近づいてきている。気温上昇傾向で、冷房のない場所は遠慮したい。耐えられないわけでもないが、龍烏くんは暑さに弱そうな見た目をしているから、平塚先生にお願いをして視聴覚室の鍵を借りた。 急速冷房を付けて少し窓を開けておけば空気が入れ替わるのがわかる。 申し訳ないと言う気持ちはあった。ちゃんと説明する機会をもらおうと思っていた。龍烏くんは喋らないし、表情も読めない。けれど同好会を組んでからは当たり前のように向かい合った席で本を読んでいてくれた。 龍烏くんは何を目的に本を読んでいるのか。どんな作品が好きなのか、情報を共有し合って仲良くなれればいいと考えていたけれど浅はかな願いだ。事実を伝えないまま仲良くするなんてできっこない。 「米田くん。僕は怒っているんじゃないんだ」 いや、怒ってますよね……眉間に皺を寄せた彼はいつもより雰囲気があって怖い。 「言ってくれれば情報を精査できたんだ。それを君は怠った」 部誌を作ると言う最終目標がわかっていれば入部もしなかっただろう。 「俺の私欲を優先させて、ちゃんと説明しなくて……ごめんなさい」 まず謝罪するのではなく、その原因をしっかり伝えた上でそう伝えた。怒られる理由がわかっていないと思われたくなかったからだ。 「話を聞こう」 許してもらったわけではないけど、そう言われたことで落ち着いて次の言葉を紡ぐことができた。それから文芸部の過去の実績と活動内容、平塚先生が言ってた部誌について伝え、新は部誌で書きたい小説の内容に触れる。 「……で、龍烏くんをモデルにした主人公を創作して」 「冗談だろ」 そうきっぱりと言われてしまうと続く言葉を発しづらいが、俺は本気だ。 そもそも龍烏くんは自分の醸し出す魅力がわからない。生来のもの過ぎて自覚がないのだ。 「簡単に言うと俺は君に一目惚れ、しちゃったんだ」 恥ずかしいがこれが一番わかりやすい表現だと思い、口にした。 自分の鼓動で龍烏くんの声が聞こえないくらいには緊張していた。が、龍烏くんの表情は変わらない。驚くくらい落ち着いた口調で、「そうか」と言い、少し間を空けて続けた。 「僕は両親をよく知らないんだ。どんな存在かも、顔も」 冷房の音がやけに大きく反響する。ごうごうと地響きみたいに鳴って、少し宙に浮いていた気持ちが一気に地上に落とされる。 龍烏くんは祖父に育てられた。いわゆる育児放棄に近い状況で古本屋を営んでいた祖父は毎日彼を連れて店頭に立っていた。それが理由かわからないが、感情の発達が遅れて育ち、龍烏くんは好きや嫌いと言うものがわからず、祖父が与えてくれた愛情も実感が湧かずただ言葉としての意味しか知らなかった。身体ばかり成長しても彼は異性からも同性からも向けられた好意に気付かない。 そして自分の異能に気付いたあとは存分に発揮し、今の誰にも注目されない自分を作り上げた。 「気付いているだろうが僕は人間じゃない」 だったら何者かいう言及はせず、だから君がわからないと言った顔を見せ黙った。 ――言わせてしまったと思った。言わなくていい情報を、彼の口から。浅はかな願望のせいで彼は僕との間に明確な線引きの言葉を吐いた。 もう少し上手くコミュニケーションが取れていればこんな話せずに済んだはずだ。ちゃんと相談して龍烏くんに「いいよ、じゃあ同好会を起こそう」と言ってもらえていればこんなことは。 一目惚れなんて、彼が一番嫌がる言葉だったんじゃないか。後悔と冷気が籠った室内を包む。 「先に言っておくが僕は君に謝ってほしいわけじゃない」 「……え」 意外な回答に少し驚いて、言葉に詰まる。 先ほどよりも優しいトーンで龍烏くんは自ら望んで告白したんだと諭すように。 「理由を教えてさえくれれば応える。僕だってそれくらいはできる」 それ以上語らないし、聞くつもりもない。少し歯に噛んで微笑む龍烏くんには違和感しかない。笑顔が下手くそ過ぎる。僕もつられて笑うけど、上手く笑えているかわからない。 龍烏くんは謎が多過ぎるけれど、この世界では至極普通のことだ。 彼が何者であろうと、不思議じゃない。 ただ、それでも――俺は彼を知りたい。 「何故本を読むのか?」 少しだけ心を許してくれた(と、僕は思っている)龍烏くんとちょっとだけ距離を縮めた新はかねてから気になっていた疑問を彼にぶつけてみた。と言っても物質的な距離感はまだまだあるし、龍烏くんから直接何か言われたわけでもないので実質新の主観でしかない。 「……僕は人間がわからないから」 単行本から視線を上げ、少し寂しそうに窓の外を見つめる。 窓の外に視線を向ける仕草は、まるでそこに答えを探しているようだった。 太陽が西の山へ落ちていく放課後。 相変わらず図書室には自分たち以外の生徒はおらず、司書も欠伸をしながら返却された本を整理していた。 「わからないから、読むの?」 「ベストセラーを読めばそれで泣いたという人間と同じ体験が出来ると思って」 「それで……どうだった」 「うん……」 うまくいっていない事は明白だ。 少し残念そうな表情でこちらを向き直し「何がいけないのか」と問いかけてくる。 もしかしたら俺は、彼に初めて与えられる“正解”になってしまうのかもしれない。その怖さに気付いて、言葉を飲み込んだ。与えたものは彼の心の底から湧いた感想ではない。なんと言って伝えればいいのか。 まるで産まれたてのひよこだ。初めて見た存在を母親と認識するインプリンティング。いや、新は男だし龍烏が求めているのは本の感想……、感情だ。 龍烏の指先が触れ、本のページを弄ぶ。 彼は常に地味で目立つ行動を避ける。側から見れば明らかに俳優のような容姿を隠すことなく街を闊歩しているのに、何故か彼は誰にも気付かれない。 「……不思議な香りがするねェ」 同じ家に住んでいるけど、行動パターンが被らない祖母から話し掛けられたのは入学式以来だった。 祓い屋を生業としているひとで常に忙しそうに日本中を駆け回っている。いい加減年齢を考えて、と母に言われ少しずつ仕事の割り振りを母へ振っているもののそれでも日々仕事の相談が増えているから、結局ゆっくりと休息をとっている余裕もない。 一人息子だし、その血脈を全く受け継いでいないわけじゃないので新も将来は祖母や母と同じ道を勧めと諭されるだろう。米田家は女系一族だから妹でも産まれていれば話は違った。けれど母にとってお産はかなり負担のかかるものだったからきょうだいは増えなかった。 会えば祖母は仕事の話をしてくれる。山岳進行など郷土、地域の違いや風習までその全てが興味深いものばかりで本の虫となった今の新を形成しているものと言える。 しつけの厳しい人だけど尊敬する存在なのは確かだった。 そんな祖母から自分にまとわりつく何かの話をされたのは初めてだ。 「沈丁花の香りだね……うん、人ならざるものだ」 何か納得するような祖母の言葉が胸に引っかかる。鼻に腕を引き寄せ嗅いでみるけれど自分では何も感じない。新の仕草をみて首を横に振り「嗅いでもわからんよ」と言って笑う。 「……人じゃない子はね、香りでわかるものさ」 祖母は静かに続ける。 「人によっては麻薬のように、まぁ何も感じないって奴もいるけど……お前は米田の子だから、移り香を貰ったんだね」 龍烏と一緒にいると感じるあの空気を思い出す。他の同級生と行動する時より空気が澄んでいるように感じていたのは錯覚ではないと言うことだ。 そして本人さえ言及していなかった「稀人」という単語が新の心に重くのしかかる。 だって、龍烏くんからそうだと聞いたわけじゃないし……。 祖母の言葉には嘘がないように思えた。そんな嘘を言ったところでなんのメリットもないから。家族に龍烏のことを話した覚えはない。同級生と同好会を立ち上げたと伝えただけだ。 本当に新は本が好きだな、と父も笑っていた。祖母はいなかったが母から聞いたのだろうか。 「……」 返す言葉も見つからなくてしばらく俯いて、なんと言えばいいかを思案する。 「交友関係にとやかく言うつもりはないよ……ただ米田の男子としての未来を忘れちゃいけない」 言葉の一つ一つが背中にのしかかるように重い。忘れたりすることのできない「米田家の男子」の「未来」。産まれた瞬間に敷かれたレールの話ではなく、運命。避けられない事実。 「大丈夫だよ、おばあちゃん。ちゃんと全うするから」 「……男の子に産まれたばっかりに」 湯呑みに添えられた手は節くれ立ち、皺の一本一本が積み重ねた年月を物語っているようだった。それだけ辛いことも経験してきたんだろう。 自分を悲しませないようにと思ってくれているのもわかる。 けれどどうしてもこの欲求を抑える事はできない。 ……彼のそばにいたい、知りたい。そんな単純でどうしようもない欲求だ。 「龍烏くん、君は転んだらどうする?」 明らかに足りないのだ、彼には経験が。僕も言える立場じゃないのはわかっているが、龍烏くんは子供らしい行いが少なかったんだと思う。 「転んだら……起き上がるしかないだろ」 いや、だからそこに至るまでにワンクッション足りないんだよな。 「龍烏くんは、痛くない? 転んだら」 「痛いだろ、転んだんだから」 当たり前のことを言わすなと言った態度が見て取れる。でも、それが彼には必要なこと。 「……なんで人間を感じたいの?」 そもそも、だ。彼は人間ではない。それは覆らない事実だし、産まれた環境が違う分分かり合えないこともあるだろう。龍雄くんはまるで人間になりたいみたいに、真似事をする。けれどその真意を理解できない。だって、人間とは違う存在なんだから。 「僕の祖父は人間だ……。稀人の祖母と結婚して稀人の母が産まれた」 稀人と人間の子供は、人間が産まれる確率の方が高い。それでも限りなく低い確率で稀人が誕生する。 稀と呼ばれるくらいには貴重な存在なのだ。 龍雄くんは少し視線を逸らして、息を吐く。 「……母は天帝域での生活が許されてたが、人間として育てられた。祖母は天帝域に辛い記憶しかなかったらしく母を想って人域で暮らした」 寂しそうな声音。少し震えている。言葉を選ぶように視線を落とし、パタンと閉じられた単行本に栞は挟まれていない。いつか彼の悲しみの一切を共有できたらいいのに。好奇心以外の感情を新は知らない。だから気付かない間に芽生え始めた恋心に当面気づく予定もない。 「折り合いは良くなかったと思う。自分が人間なのにと思えば思うほど、周囲との違いを思い知らされるのだから」 龍烏くんのお母さんは両親の制止も振り切り天帝域へ移った。稀人もより人外に近いもの、その中間、より人間に近いものに分けられている。人外に近ければ近いほど人域での生活には合わないとされている。お母さんはそのタイプだったのだ。 「……天帝域に人域での常識は通じない。その逆も然り、だ。母は天網を守る神官に選ばれ、天帝域の秩序を保つ役割を担った。その職に就くことは誇りであり、同時に孤独を伴った。」 天帝に近い存在であるほど、異能も強く領域の神官に抜擢されることもある。先ほどの雰囲気とは違ってやけにドライな言い方だった。 その関係の確執を主張するような言い方に、彼の持っている傷の大きさを感じた。 「母は麒麟族の稀人で、その遺伝子を残すことを仕事のなかで求められた。麒麟は天帝域でも貴重な存在だから。よく知りもしない相手と結ばれて産まれたのが僕。僕も産まれてすぐは天帝域に住んでいた。けど……」 そこまで言うと龍烏くんは口をつぐんだ。言うのを躊躇っているんだ、自分の成り立ちを。こんな僕に、心を許そうとしてくれている。僕はこれ以上彼に辛い思い出を想起して欲しくなくて、割り込むように話し出した。決していい思い出だけじゃないんだ。龍雄くんは人域に移り、祖父母によって育てられた。どういう経緯があったのかは想像も出来ない。 「……俺の家は昔から祓い屋を営んでいてね。母さんもおばあちゃんも、そのまたお母さんも……って米田の業を背負って生まれてきた。僕もそう」 僕が龍烏くんに惹かれるのも米田の血がそうさせているかもしれない。龍雄くんは黙ってその綺麗な双眸で僕を見つめる。 「ウチはね、代々女性が当主を務めていて……珍しいでしょ。俺の姉が受け継ぐ予定だった」 「……姉がいるのか」 「死産だったけどね。それで、俺が生まれた。米田は仕事柄、天帝域の存在によく思われてない。特に男子は……産まれた子が男なら、たとえ才能があっても未来はないんだ」 死産と聞き小さく声も漏らした後、龍雄くんはまた静かに僕の言葉を待ってくれた。 彼が打ち明けてくれたように、僕は米田の秘密を打ち明ける。誰にも話した事はない。冷や汗が額を流れ鼓動が早くなっていく。怖い、これを聞いた上で龍烏くんは同好会にいてくれるのだろうか。 「未来がない……?」 彼の声はかすかに震えていた。まっすぐ向けられた視線が、僕の心を射抜く。 喉の奥がひゅっと狭まる。けれど言わなければならない。 「うん、米田に産まれた男子は十八歳を迎えると呪われる」 二年かけて身体にじんわりと呪いが広がって、苦しみ悶えて死に至る。その辛さから自ら死を選ぶ者もいたらしい。 「俺が女の子だったら家業を継がなきゃなんだけど……運よく逃れられた。でも、逃れた先には二十歳で死ぬ未来があるだけ」 言葉にすると、胸の奥にじんと重さが広がる。 「だからこそ、書きたいんだ。小さい頃から憧れていた小説家になりたい。俺の全部を物語に刻んで、生きた証をたくさん残して往生する……作品が俺の意思を引き継いでくれるから」 その為に龍烏くんと仲良くなりたい。僕が初めて知りたいと思った人。 龍烏くんは俯き、カバンに手を掛けたと思うとそのまま無言で図書室を出ていった。 ――これは、理想だ。龍烏くんと仲良くなって、彼を知って、それを元に物語を描く。 夢を見た。小学生の自分は机に向かい、黒板の前で教科書を手に本文を読む教師が浮かんでくる。あの教師は融通が効かない頑固な人で、習った漢字をひらがなで書くと容赦なく減点してきた。 その教師の授業……歴史の時間だ。 今から四百年ほど前、人間界の空に突然影が落ちた。意図的に天網の幻術を切って天帝域が姿を現したのだ。宙に浮いた要塞に当時の人々は世界の終わりさえ覚悟した。 突然現れた人ならざるものたちは半神半人の姿で人々に開国を求めた。 その威圧的な態度は黒船来航の再来と言わしめ、武力に置いても存分に差を見せつけた。 一度人間は神々の力に抵抗を示した。が、その力の前には無力。 なす術なく、江戸城は開門した。それから近代に至るまで一方的な条約が結ばれ搾取ばかりが行われた。転機が訪れたのは五十年前。 天帝の次に権力を持つ龍神族、麒麟族、鳳凰族の御三家のうち、鳳凰の稀人、撫子の君。 彼女が天帝の元へ入内し、ふたつの種族は歩み寄りを始めた。政治的な理由が大きい輿入れだったが聡明な撫子の君を天帝はいたく気に入り、どうか人間にも慈悲をと願う撫子の君の願いを聞き入れ交渉が始まった。 撫子の君の存在がなければ、両界統一法も生まれず、龍烏くんと同じ教室にいることもなかったのか。縁のない世界の話が、いま隣に座る彼の姿となって現実に重なっていた。 上の空で聞いていたあの授業の大切さが、今になってようやく身に沁みる。 元々天帝域で稀人の地位は低かった。混血とはいえ人間の反面を持つ以上、厄介な存在のはずだった。撫子の君が入内できたのはその異能があったから。と言っても実際どんなものだったかは我々の世界に降りてきてはいない……。 そういえば龍烏くんの異能はなんだろう。 彼はその力で、地味な雰囲気を放っているというけれどどういう効果なのか実際よくわかっていない。自分には効いていないわけだし。 「……おい、起きろ。先生が来るぞ、おい」 肩を揺らされ目覚めると、そこは放課後の図書室だった。日が長くなったからまだ外は明るい。じっとりと額に汗が纏わりついている。 開けられた窓から通り雨の後の湿った匂いが入ってきて鼻を掠める。生乾きの服を思い出してあまりいい気持ちにはなれない匂いだ。 「龍烏、くん……?」 「……本当に大丈夫か」 少し怪訝な顔で僕の顔を覗き込む綺麗な顔は、夢の続きを彷彿とさせる。 「夢を見て疲れちゃった」 「顔色が悪い。今日の報告会、ずらしてもらうか?」 龍烏くんが、優しい。ぶっきらぼうな彼が。僕の想像する最高の龍烏くんじゃないか。 やはり夢か。 けれどいつまでも微睡んでいると今度は鼻を摘まれて覚醒しろと急かされた。 貸出カウンターの壁面に飾られたカレンダーを確認すると、今日は同好会が始まってから初めての月末会の日だ。今月の活動報告を先生に伝える日で、夏休みに何をするか——先生に聞かれたとき、龍烏くんは“することなんてないだろう”と即答した。その言葉が、なぜか今も心に引っかかっていた。 額の他に、シャツが背中にピッタリと張り付いた感覚がしてやはり気持ち悪い。僕は夏が苦手だ。 「ああ、ごめん遅くなったね」 引き戸がガラリと開いて平塚先生が到着した。片手にファイルを二冊持ってきて先生は近くの席に腰掛けた。少し深く呼吸をして鼓動と整える。嫌な汗がまだ身体にこびりついている。まるで蛇が絡みついてきているみたいだ。 「じゃあ俺から今月の報告を……」 「はい、米田くんお願いしますね」 初めての会なのでフォーマットも決めずにとりあえずやってみましょうという先生からの提案で自分なりに考えて、今月読んだ本とか、おすすめの本……あと部誌発行への意気込みを一枚にまとめて、伝えた。 少し上擦った声や途中つっかえもしたが、「緊張しやすくて」と付け加えて締めたので 「ちゃんと纏まっていていいと思うよ」と先生は穏やかな笑顔で僕から報告書を受け取り、持ってきていたファイルに挟んだ。 「じゃあ、龍烏くん」 龍烏くんもカバンから綺麗に畳んだ紙を取り出し、似たようなフォーマットで報告をする。龍烏くんは授業中でも、授業の合間でも本を読んでいるから僕より読書量が多かった。 僕とは違い終始落ち着いた口調の龍烏くんに「龍烏くんはおすすめしたい本をまとめたら部誌に載せられますね」とまた穏やかな空気でまとめてくれた。 「さて、来週からの夏休みなんですが……。文芸部としても特に何かしては来なかったので同好会もそれでいいと思っています。でもせっかくですし、何かアイデアはありますか?」 高校生になって初めての夏休み。有意義なものにしたいと新は挙手をし「部誌の準備に創作をしてみます」と意気揚々と答えた。 「いいですね。龍烏くんはどうしますか?」 「……僕は、少し遠くへ出掛けるので」 前者とは対照的に落ち着いた雰囲気で、何もできないぞと申告しているようだった。 「ご旅行の道中を短い文章にするのもいい思い出になりますよ」 龍烏くんが放つ雰囲気を拭うように先生は優しく提案する。けれど彼は不快感を露わにした表情で「旅行じゃない」と小さく呟き俯いた。 結局夏休みの活動は各々の自主性に任せる、という結論に至り、僕たちは図書室を後にした。龍烏くんの夏休みの予定が引っかかって抜けない棘みたいに僕の中に滞留していた。聞けば答えてくれるのだろうか。龍烏くんは未だわからないことの方が多い。帰路の間ずっと龍烏くんは不機嫌だった。 まるで自分が原因を作ったかと思うくらいに新は罪悪感を背負ってしまい治ったはずの顔色は再び青ざめていく。 龍烏くんとの距離感は未だにわからない。近付き過ぎれば離れるし、心を許されている感覚もない。まぁ友人が少ない手前、それがどういうものか明確に判断できる材料も持ち合わせていないけども。 「米田、」 少し躊躇うような声で僕の名前が紡がれた。いつの間にか呼び捨てだし。 「僕は、間違えたか……?」 やっと落ち始めた夕陽を背に受けて橙のシャツが震えている。 住宅街から夕食の香りが漂ってくる。走って過ぎていく小学生。夏休みに備えて大きな荷物を抱えて笑っている。蝉の声がやけに近くから聞こえる。頬を伝う汗がぽたりと地面に落ちた。立ち止まり、俯く彼の姿がまるで泣くのを我慢しているように思えた。 その言葉に込められた重さの意味、全て……僕は知らない。 ……まだひよこなんだから、間違えて当然なのに。その自覚がないからこうやって後悔し続けるんだろうな。 「俺も龍烏って呼んでいいかい?」 彼に合わせて立ち止まり、僕はそれだけ聞いてみた。首を小さく縦に振って彼は応えた。 「焦らなくていいよ……俺が一緒なんだから」 彼の知的好奇心は、まだ羽の生えきらない翼みたいだ。試しに羽ばたくたびに、痛みと成長を繰り返していく。答えを伝えるのは簡単で、けれどそこで成長は止まってしまう。俺に出来るのはせいぜい答え合わせで、けれど彼の望む正解を与えられるかも自信はない。 彼はひよこで、俺もまた期限付きの不完全な生き物。彼が望む限り僕は手を差し伸べられる。そして命の続く限り、彼の姿を記しておきたい。 そっと彼の頬に触れる。彼はそれを払いのけることをせず、俺の掌を許してくれた。思ったより少し低めの体温は掌の熱を奪っていく。彼のまつ毛がかげる。夕日の橙が混ざって神秘的だ。人間離れした、綺麗な龍烏。外見の完成度とは裏腹に、まだ幼い部分を抱えた龍烏。俺の心も、原稿用紙も、瞬く間に彼で埋め尽くされていく。 人類よりか強い力と長い寿命の天帝域の存在と人間が交わり生まれた新しい世代、稀人。 夏の暑さに弱い新の関心は専ら龍烏の暑さ耐性に向けられていた。天帝域の気候は人域と違って四季がなく、けれど穏やかで天帝の匙加減ひとつで雨が降るとされている。 夏休みが始まり、週の半分は区立図書館へ通う目標を立てていた計画は開始一週目で儚く散った。 気温が高すぎるのだ。自転車で二十分の距離も出る気にはなれず、夕方になって動き出してももう閉館時間になっている。積んだ。その夏の暑さは異常とまではいかなかったのだが新はどうも耐えられなかった。龍烏なら涼しい顔で自転車を漕いでいるはずだ。……そもそも龍烏は自転車に乗れるのだろうか。真実はわからないが彼ならやってのけるだろう。 汗ひとつかかずに文庫のページを捲る綺麗な指先が容易に想像出来る。 家族にも心配されたが体調自体は至って普通で、仮に憑き物が一緒にいたとして僕の家柄的に家に持ち込まれる可能性は極めて低い。自己診断の結果は原因不明の体調不良ということにして、新は机に向かいただひたすら原稿用紙に文字を綴っていく。 執筆は初めてではない。短い幼稚な文章を昔から書いている。児童書にもならない内容ばかりだけど、それがあって今の自分が出来ている。龍烏をどう描くか……頭はそのことで埋め尽くされて、白紙の用紙が恐ろしい速度で減っていく。 まるっきり龍烏本人を描くわけではない。夏休み前の邂逅から新は、龍烏が願う理想の龍烏を描くと決めた。ひよこではない、成長した龍烏だ。本人が読んでくれるかはわからないがヒントを隠すみたいな物語にしたい。そう思ってアイデアをまとめていく。 名前はそうだな、天帝域には苗字という概念がないと聞いたので龍烏、じゃなくて「達郎」とか。安直すぎるかな。名は体を表すともいうし、彼の未来を祈って……「ひりゅう」にしようかな。そして「ひりゅう」に恋する人間の物語。切なくてもどかしい、俺たちみたいな関係の……男女がいいだろう。近年同性愛者への偏見も薄まっている。天帝域も巻き込んで同性結婚を認める法律も国会で審議中だと報道も飛び交っている。 けれどまだマイノリティには変わりなない。龍烏……いやひりゅうへの気持ちが当たり前に認められる世界であってほしい。そんな祈りを込めて相手役の女性の名前は「りんどう」……名前なんて重要じゃないという人もいるけど、俺は名前にこそ物語の願いを込めておきたい。

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