6 / 29

第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い3

***  朝の巡回時、真琴の顔を見たときから、胸の奥がざわついていた。 「今日はスパイス市があるって、ご近所さんから教えてもらったんです。これから仕入れに行ってきますね」  笑いながら話してくれた瞬間から、背筋に冷たい予感が這い上がるように、ざわめきが広がっていく。いつもなら「気をつけて行け」で済ませるはずだったのに、今日はどうしても口が動かなかった。 「……私も行く」  やっと絞り出したセリフを聞いた真琴は、何度も目を瞬かせた。 「え? リオン様はお忙しいのでは?」 「君だけじゃ、変な商人に絡まれるかもしれない」  強引な理屈だと自分でもわかっている。本当はただ理由なんていらないほど、隣にいたかっただけ。そんな簡単でだからこそ恐ろしく素直な理由を、自分の口から言えるわけがない。 「そ、そうですか。ありがとうございます」  困ったように微笑む真琴の笑顔が、胸に触れたみたいに温かかった。  王都の大通りは、季節祭りの前で人の波ができていた。色とりどりの屋台の上を、いろんな香りが混ざり合っていく。 (――近い)  真琴がふと横に立つたび、袖が触れそうで勝手に一歩下がる。だが、真琴が露店に引かれてふらりと離れると、今度は無意識に距離を詰めてしまった。  どれだけ気を配っても、視線が真琴を追っている。情けないと思うほど、視線の先にいる真琴が愛おしかった。 「わ、これ美味しそう……リオン様も食べますか?」  串焼きを差し出してくる真琴。火照った頬と、湯気の向こうにのぞく無邪気な笑顔が眩しい。 「じゃあ、少しだけ」  本当は全部食べたい。真琴が買ったものを分け合いたい。そんな欲求が喉にこびりついて離れなかった。  串焼きを分け合いながら歩くと、真琴がスープの屋台に目を留めた。熱いカップを手渡され、指先が触れそうになるだけで、心が溶けるように揺らぐ。  飲み終わったカップを見つめ、捨てるべきだとわかっているのに指が動かない。たかが紙カップ。それでも今日、彼が初めて自分に手渡してくれた温度ごと、捨ててしまうなんてできなかった。 (私は馬鹿だ、本当に――)  香辛料商の店に入ると、強くて甘い香りがあふれていた。主人が差し出した小瓶を、真琴が試しに嗅いでみる。  次の瞬間、真琴がぽつりと言った。 「これ……リオン様に似合いそう」 (――私に似合うとは?)  それだけで鼓動が乱れて、息が一瞬止まる。強すぎる反応だとわかっていたが、どうしても抑えられなかった。 「私?」 「はい。落ち着いた香りですし、なんかリオン様っぽいなって」  なんだそれは。けれど、その“なんか”に全身が熱くなる。 「そうか。じゃあ買う」 「えっ、自分用にですか?」 「……深い意味はない」  目を伏せて小さな声で告げる。実際、深い意味しかない。真琴の言葉を持ち帰りたくてたまらないだけなのに。  夕暮れの城壁沿い、二人の影が長く伸びた。 「リオン様、今日はとっても楽しかったです。一緒に来てくれて、ありがとうございました」  とても穏やかで静かな声が耳に残る。その一言が、胸に刺さって抜けない。 「私も……悪くなかった」  本当はもっと言いたいことがある――楽しかった。もっと歩きたかった。もっと君の笑顔が見たかった。でもそんなものを口にしたら、間違いなく引き返せなくなる。  複雑な感情を無きものにしようと真顔を決め込む私を見て、真琴がくすっと笑う。その笑みが心に触れた瞬間、思わず言っていた。 「前を見ろ。つまずく」 「えっ、そんなに危なっかしいですか?」  違う。ただ、その笑顔を直視すると心が壊れそうなだけだ。  工房に戻ると、真琴が倉庫の整理に向かった。自分は先に厨房に入る。袋の中から小瓶を取り出して、蓋を開けた。真琴が“似合う”と言った香りが、室内に溶けるように広がる。  胸の奥が静かに疼く――ああ、これは、もう。 「……どうしようもないくらい、彼のことが好きなんだな……私は」  誰にも届いてほしくない声で呟く。認めたくなかった現実を、とうとう言葉にしてしまった。  真琴に出会って言葉を交わし、丹精込めて彼が作ったチョコを口にしながら真琴を見たら、嬉しそうに微笑む笑顔に自然と心が惹かれて――異界からやって来た彼の人柄を知れば知るほど、胸の奥が蕩けるように熱くなった。 「これは今日ふたりきりで出かけた、思い出の一品になる」  小瓶の蓋は閉めず、机の端にそっと置く。今日の香りも、今日の笑顔も、全部ここに残しておきたい。  真琴はまだ気づかない。自分がどれほど心を持っていかれたのか。どれほど名前を呼ばれるたびに、私の胸が揺れるのか。  けれどそれでいい。気づかれたら終わる気がする。それでも、この距離が永遠でないことくらい、わかっていた。今は気づかれないまま、少しだけこの距離を楽しみたい。  夕暮れの残り香の中で、そっと目を閉じた。今日の記憶を、誰にも触れられない場所に仕舞うように。  ――真琴の知らないところで、騎士として抑えてきた想いは、もう恋と呼ぶしかない熱になっていた。

ともだちにシェアしよう!