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第1話

 高木 宗介 (33) 営業職  真面目で堅物で仕事出来上司。  周りに隠しているが、恋愛対象は男。  小森 叶(23) 営業職  ヤンチャで真っ直ぐな部下。  最初は反発していたが、今は宗介に懐いている。  ───────────────────  ──ヤッてしまった朝  天井の白が、やけに遠くてまぶしい。  こめかみの奥で、ガンガンと鳴る音に二日酔いを自覚する。吐き気はない。けれど、身体の芯は重く、腰のあたりに鈍い違和感がまとわりついている。冷房の風が肌をなでて、遅れて鳥肌が立つ。  見覚えの、ない天井。  見覚えの、ないカーテン。  見覚えの、ない──ベッドサイドと見覚えのあるアイツのスマホ。  跳ね起きようとした瞬間、シーツが肌に張りついて、汗が引いたところだけ妙に冷たかった。  ぬぐった手の指先にざらりと残るのは、乾いたものの感触。  視界の端に、丸まったティッシュ。ベッドの端には、黒いゴムの輪がいくつも入った透明なプラ包装。  高木(たかぎ)宗介(そうすけ)は、己の呼吸が荒くなるのを止められなかった。 (──落ち着け)  深呼吸をする。吸って、吐いて、吸って……吐いて。鼻腔に残る、知らないボディソープの匂いと、知っているアルコールの残り香。頭痛は変わらず。カーテンの隙間から斜めに射し込む朝の光が、ホテル特有の薄いカーペットを照らしている。 (ホテル……だな)  壁際の姿見に、脱ぎ散らかしたワイシャツや背広がかかっている。ボタンは雑に外され、片袖が裏返ったまま。革のベルトは床に蛇のように転がって、バックルには爪で引っかいたような小さな傷が増えていた。  ─喉の奥がひりつく。昨夜の酒。日本酒の四合瓶。|アイツ《・・・》は、俺の静止も無視してぐいぐい飲んで……俺も付き合うように酒を口にして…… 「……高木さーん、起きてますぅ?」  背中から声。布団の海の反対側で、誰かが寝返りを打つ。  振り向くのが怖い、などと三十過ぎにもなって情けないことを思う。振り向けば……ヤツがいる……。  OJT三ヶ月をともに走りきった、やんちゃで、癇に障って、けれど憎めない手のかかるかわいい部下。  小森(こもり) (かなと)  半分だけめくれたシーツの中からひょい、と顔を出した彼は、寝起きのくせにまぶしいほど笑った。 「おはようございます。……って やっべ……えっぐ」  そう指摘しながら数える赤い痕。憎らしいほどに清々しい声と笑顔に、一瞬惚けるが、 「ほら、高木さんもこことか……」  と触れられた箇所に、熱が灯った。  瞬間ぶわっと昨夜の記憶が脳内を駆け巡る。  酒の匂い。氷の音。薄暗い小洒落たBARで肩を寄せ合ったカウンター。  「最後くらい、ふたりで飲みに行きましょうよ」という、甘えた声。  「また生意気なことを」と笑いながら断れなかった自分。  店をでる時には、俺はまともに動けなくなっていて……ソレを支えるように小森は俺に連れ添って……。 「介抱するんで」とホテルに泊まることを促した小森……部屋に入るなりどちらともなく唇を重ねて……  唇を重ねながらも、小森は告白めいた言葉を口にしつつ何度も確認した。 『高木さんのこと……俺……好きなんです』 『正直……OJT終わったら……離れなきゃなんねーのかなって寂しくなって……酒の勢いとか流れでなんとかなんねーかなって』 『本当に、いいんですか? 無理させてないですよね』  恐る恐る伺うように、触れながら……それでも逃がさないと雄弁に語る目に……  素面ならきっと、応えることのなかった手……それを俺は……取ってしまった。  立場のこと。年齢のこと。正しさのこと。  年上として上司として……気の迷いだと窘めるべき言葉は、どれも喉奥に絡みついて口にする事を躊躇って……  彼の目がまっすぐで、逃げ道も、逃げ場なんてものもなくて…… 『お前……きっと……後悔するぞ』 『しません。するとしたら……今夜あなたに逃げられたらだ……』  それが決定打だった。      ◇  OJTが始まったのは、四月の半ばだった。  トップセールスと呼ばれる肩書は、正直足枷になることもある。現場で数字を取り続けるうえに、次世代の育成という錘までぶら下がる。  配属初日に、明るめの前髪をかきあげて「よろしくお願いします!小森です!」と笑った新人は、ひと言で言えば──鬱陶しいくらい眩しかった。  顧客の名前は一発で覚える。場の空気を読むのは上等。だが、その場の勢いで喋りすぎる。余計なことまで言う。打ち合わせからの帰り道、何度も「そこは言わなくていい」と言い聞かせた。  項垂れるかと思えば、「でも、刺さってましたよね?」と首を傾げ、こちらの急所を不意に突く。  困ったちゃん、という言葉が似合いすぎた。  沢山の尻拭いをした。窘めもしたし、厳しくも接した。しかし、三ヶ月を並走するうちに小森の癖や為人、いろんなとこをわかってやれるやうになった。  数字が伸びない週は、笑顔がわずかに薄くなる。客先で褒められると過剰に照れる。人前では生意気を口にしながら、報告書は夜中に推敲してから出してくる。  何より、こちらが思っているよりずっと俺に食らいつき、懐いた。手のかかる部下に愛着を覚えたのは何時からだろうか……。 「高木さん、そうやって黙るとき、たぶん本気で考えてるんですよね」 「考えてないときは?」 「眉間にしわ、寄ってます」  クライアント先の訪問後、昼下がり、助手席で俺の真似をしつつ笑う小森。その顔に不意に息苦しくなる。歳を考えろ。相手は十も下の同性で、育て導くべき部下で……。「お前……俺をよく見てるな」なんて軽口で返せば「めっちゃみてますよ。取り零したくないんで」とはにかむ小森を直視できずに、顔を背けた。  ─決定的だったのは……雨の日、ふたりでコンビニの軒下に逃げ込んだとき、小森は濡れた睫毛を震わせながら言った。 「俺、高木さんのこと……けっこう好きですから。男として」  男として。  その言葉に胸の奥がギュッと締め付けられつたのは、否定できない。      ◇  そして昨夜。OJTの最後の夜。  ふたりきりで飲みに行きましょう。と袖を引かれ断り切れなかった。  堅物と呼ばれていても、甘いんですねと笑われるのが目に見えていたのに。 「乾杯」 「OJT、お疲れ様でした。俺、高木さんと一緒でよかった。めっちゃ楽しかったです」  やわらかい笑い方だった。  一件目二軒目と強請られるまま付き合い、注がれるまま酒を飲み込んだ。 「高木さん、あんま飲めないくせにいいんですか?」 「お前が注ぐからだ」 「俺だから……ですか?」 「あぁ……俺はお前がかわいいからな。かわいい部下の気持ちを無碍にできないんだよ」  何気ない一言。  そこで小森は、真顔になった。  薄暗いカウンター。ふたり分の影が重なって、互いの肩が軽く触れる。 「……それ……本気にしちゃいますよ?」 「ん?」  沈黙。氷の音。店の奥で水が落ちる音。   「高木さん……俺……あなたを帰したくない」  握られた手……向けられた熱の意味に気付かない程、俺は鈍感ではないのに……。 「いいよ。お前が望むなら」  自分でも、驚くほど素直な声が出た。      ◇  ホテルの一室。鍵を閉める。  それが、はっきり記憶にある。  廊下の明かり。部屋の白。冷房の初動の音。  そして、慌てて靴を脱ぐ自分を、笑いながら支える腕の力。 『本当に、いいんですか』 『部下にこんなこと言わせないでくださいよ』 『悪い……俺も……ずるかったな……お前が欲しいよ小森』  身体に触れる小森の手は、予想よりずっとやさしかった。  キスは、思っていたより甘かった。  肩にかけていたジャケットを落とし、シャツのボタンに手をかけると、小森は手を重ねてきた。 『俺にやらせてください』  耳の裏に息を吹きかけられて、堪えきれずに名前を呼んだ。  「叶」  それは一度呼べば、二度、三度、口が覚えてしまう危険な音。  ソファに腰を下ろし、膝の上に引き寄せられる。  唇。首筋。喉仏。鎖骨。  ひとつずつ、確かめるみたいに口付けられ、痕が残る。痛みはほとんどなく、触れられたところから熱が灯っていく。  ベルトを緩められ、露出した腹に、小森の掌がぴたりと貼りついて…… 『ここ、好き。ずっと見てました』  その言葉にゾクゾクと喜びと欲が湧き上がる 『よかった……高木さん……ちゃんと感じてくれてる』 安堵する小森が可愛くて、それでいて俺への奉仕にばかり熱心な小森がもどかしくて…… 『……お前のも、見せろ』 そういって引き寄せキスをした 『あ──っ不意打ちにっそういうのは……俺……もう止まれないですよ?』  ベッドに移って、シーツの上で向かい合ったとき、小森は真剣な顔でコンドームを取り出した。 『いちおう、ちゃんと。ね』  いちおう、じゃなくて当たり前だ。そんなツッコミが喉の奥まで来て、代わりに別の音になって漏れた。  潤滑剤の冷たさ。指のねっとりした感触。  ひと呼吸ごとに、身体が受け入れていく。痛みはあった。久しぶりだから当然だ。けれど、小森は動きを止めるたびに「大丈夫ですか?」と聞いてきた。  そのたびに、首にしがみついて肯いた。 『俺、ゆっくりいきますから』  ゆっくり、は、たしかにゆっくりだった。  探るように……恐る恐る。ゆっくりと俺の良い所を伺いながら……。何度も押しては離れて、徐々に深く繋がって……。  腰の奥から熱が上がり、胸にたまり喉から零れた。  小森は仕事の時と同じように……こちらの表情を食い入るように見つめていた。違っているのは、その奥にある確かな情欲で……目が笑っているのに、真剣で、満たすことに夢中で。  名前を呼ばれる。何度も。  「宗介さん」  たぶん、初めて下の名前で呼ばれた。 『叶─』  背中を撫でる手が、汗で滑る。  重なる呼吸。  重なる心音。  最後はふたりとも真っ白になって、笑った。  落ちるみたいに眠った。  たぶん、互いに腕の中で。      ◇  ─そして、朝だ。  ゆっくりと身体を起こす。鈍い違和感はあるが、悪くない。  小森は枕元で胡坐をかいて、スマホをいじっていた。寝癖の跳ねた前髪が、子犬みたいで心臓が変に落ち着かない。 「コーヒー、頼んどきました。あと、ポカリ。……朝ごはん軽めでいいですか?」 「なんでお前が仕切ってる」 「だってこういうのは……ほら。ケア、大事っすよ。俺、やらかして終わりとか嫌なんで」  やらかして、という言い方に苦笑が漏れる。  彼はスマホを置き、こちらに向き直った。 「それで──改めて確認なんですけど」  その真剣な口火で、空気の温度が変わる。  彼の視線。逃げ場のないまっすぐさ。  昨夜と同じ。いや、昨夜よりも真っ直ぐに澄んでいる。 「俺、今日のこと後悔してません。好きな人抱けて……正直嬉しいしすげぇ幸せでした。高木さん気にしそうなんで、先に言います。……でも、高木さんの立場のことちゃんと考えたい。会社では今まで通りでいいです。俺からも、なんか変なこと言ったり……距離詰めたりしません。だから、ひとつだけ聞かせてください」  喉が鳴った。 「高木さんは、どうでしたか?」  どう、とは。  ──良かったに決まっている。  けれど、言葉にするのは難しい。  コイツの前だと、何でも言葉にしてしまえそうになるのに、核心に触れる言葉ほど口が重くなる。 「……ずるいな」 「え?」 「お前はいつも、核心を平然と突く」  小森は、困ったように笑って軽く肩をすくめた。  窓の外で車のクラクションが短く鳴る。  俺は深く息を吐いて、手を取った。 「後悔は──していない。していないが、仕事は仕事だ。そこは線を引く。引かなきゃ駄目だ」 「はい」 「ただ、昨夜のことは俺の意思だ。お前に押し切られたとか、そういう言い訳はしない」 「……はい」 「それから」  言いよどむ。  この先の言葉は、うっかりすると全部を変える。 「俺は、お前に懐かれているだろう?」 「懐いてますよ。全力で」 「……俺も、お前に……愛着を持ってる」 「お前が思ってるよりも……ずっと強く」  指先が、ぎゅっと握り返された。  笑うでも泣くでもなく、ただ熱が伝わる。 「よかった」 「何が」 「それ、聞けただけで俺の勝ちなんで」  調子のいいことを言う。  でも、そのあからさまさに救われる。  逃げ場を潰されるのは、恐ろしくもあるのにこんな風に息がしやすくなることもあるのだと、昨夜身体で知った。  ノックの音。  ルームサービスのカートが入ってきて、温かいパンの匂いが部屋に満ちる。  コーヒーをひと口飲む。苦味が舌に広がり、頭の芯が少しだけ澄んだ。  小森はオレンジジュースを一気に飲み、こくり、と喉を鳴らす。 「明日から、俺、正式配属っすよ」 「ああ」 「部署、離れたらどうします?」 「離れない」 「え?」 「お前は、俺のチームに残る。……上には、もう話を通してある」  三ヶ月のあいだに、自分は決めていたのだ。才能を、圧倒的なまっすぐさを手放すのは惜しい。  それが、仕事の話であると同時に、個人的な欲も混じっていることを認めるのは苦かった。 「ただし。この話はこの話だ。仕事では、俺は上司でお前は部下。それを忘れるな」 「はい。……高木さんのそういうところ好きです」 「調子に乗るな」 「乗ります。今だけは」  パンをひとかじりして、嬉しそうに笑う小森。  食事を終えるころには、頭痛はだいぶ退いていた。  シャワーを浴びようと立ち上がると、小森がバスタオルを差し出してくる。  手つきが自然で、ふと笑ってしまう。 「何笑ってるんです?」 「いや。子守りって、こういうことかと思って」 「子守りじゃないですよ。相手、オッサンですよ」 「誰がオッサンだ」 「俺から見たら、充分」  悪態をつきあいながら、浴室へ向かう。  温かい水が背中を打つ。身体についた痕に水が触れて、そこだけがピクリと。  鏡越しに、自分の首筋に残る赤い印を見て、思わずため息が漏れた。  ──どうやって隠す。  会議のとき、誰がどこを見ているか、案外みんな敏感だ。  タオルで押さえながら、笑ってしまう。  昨夜の自分に、完全に負けたのだ。勝ち負けではないのに、そう言いたくなるくらい、完敗だった。      ◇  チェックアウトの時間ぎりぎり。エレベーターの中で、ふたりで壁の違う方を見た。  ロビーでは距離を開ける。  外に出ると、日曜の朝の空気が薄く軽い。駅までの道を歩く間、小森は何も言わなかった。足音だけがやけに揃っていた。  改札の前で、彼が小さく咳ばらいをした。 「じゃ、また明日。……じゃない、明日からも、よろしくお願いします」 「あぁ」  人混みの中、小森は一歩、近づいてから踏みとどまった。  視線だけが絡む。  こちらが、ほんの少し頷いてみせる。  それだけで、彼は嬉しそうに目を細めた。 「……俺、頑張ります。仕事も、それ以外も。だから、嫌になったらちゃんと言ってください。俺……止まれますから」  手を挙げて、背を向ける。  歩き出して十歩で、背中に視線を感じた。  振り返るのはやめた。  代わりに、胸の内側で昨夜呼ばれた名前を思い出す。  ──宗介さん。  子どもみたいに懐いてくる生意気な部下と、口数の少ない堅物な上司。  火のつきやすい若さと、消し方を知っている年齢。  それでも……ふっと灯がともることがある。  それはきっと、不謹慎で、でも正直で、仕事の論理とは別のところにある小さな焔だ。 (困ったやつだ)  それでも、胸のどこかで嬉しさが滲む。  愛着──そう呼ぶしかないやわらかい重みが、歩調を乱さない程度に、心の片隅に座り込む。  明日は月曜。  会議は九時から。  奴はいつもより早く来るだろう。  こちらも、いつも通りに出社して、いつも通りに資料を直し、そして──昨日までと同じ顔で、違う関係を慎重に仕舞い込む。  ホームに風が吹き抜けた。  電車が滑り込んでくる。  扉が開く瞬間、胸の奥で小さく炎が踊った。  それは、誰にも見せない顔のまま静かに灯り続ける──。

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