1 / 1
第1話
西野 瑛 (31) 営業職
受け 普通であろうとした
2年間付き合ってきた彼女に、結婚間近で振られる
春川 秀次(31)営業職
攻め 普通であろうとした受けを黙って見守っていた
───────────────────
「とりあえず、乾杯、でいいのか?瑛」
玄関に転がしたコンビニの袋から、ガサガサと取り出した缶ビールと安いウイスキーと氷。トクトクと音を立てながら、春川が器用に二つのグラスへ琥珀を落とす。夜十時半。終電はまだ先だが、今日は誰も駅の時間を気にしない種類の夜だ。
「慰めの会、って言ってたのはどっちだっけ」
「俺。お前が否定しなかった」
キッチンの蛍光灯が白い。ソファに腰を落とすと、クッションが沈む。背もたれに頭を預けた拍子に、喉の奥へくつと笑いがひっかかった。
「……振られた」
声に出すと、やっと現実が形を持った。グラスの縁が指に冷たい。一拍の静けさの後、カランと氷が音を立てる。
「婚約解消。─お互いの親には謝った。俺の親は何も聞かずにいてくれたけど、向こうの……彼女の両親には土下座に近かった。彼女も、怒るでも泣くでもなくて……『あなたのことは好きだった。でも、あなたが私をみてくれることはなかった』って」
──向こうから好きだと告げられて、その真っ直ぐに向けられた好意と言葉が眩しくて……彼女なら……俺も『普通』でいられるんじゃないかって、打算を腹の底に隠しつつ応えた結果の婚約解消……。
2年間、俺なりに誠実に向き合い彼女を愛した。世間一般の『普通』と照らし合わせて、彼女が喜ぶことをしてきた……そのつもりだった。31歳……俺もいい歳だし3つ下の彼女も望んでると思って進めた婚約……。
「彼女となら……結婚して家庭を築けるかなって……」
思ったんだけどな……という言葉は、琥珀色のウィスキーで喉奥にグッと流し込んだ。
「嘘じゃなかったんだ……」
彼女を幸せにしようと思って告げたプロポーズも、大切にしようと思った気持ちも……
「……全部見透かされてた」
「瑛」
名前を呼ばれて、顔をあげる。秀次は、いつも通りの顔をしている。痛みも苦しみも苦味も……受け止めてくれる俺の親友。
「バチが当たったんだ」
自分で笑った。乾いた音だった。笑いながら、指が震えるのがわかった。
「バチ?……瑛お前まさか……浮気でもしたのか?」
「……してない。けど……まぁ……浮気みたいなもんか」
自嘲気味に呟き視線を落とす。
「『他の人を好きなあなたとは、結婚できない』ってさ……」
零すつもりのなかった言葉が、冷え冷えとした空間にぽつりと落ちる。……バチが当たった。『普通』でいるために、彼女の好意を利用した。『アイツ』への想いに蓋をする為に……愛そうとした。だから今、こうして|秀次《コイツ》とここでこんな夜を過ごすのは、俺への罰で彼女への贖罪なんだと思う。
「他に……好きな人」
つっと罪をなぞるような秀次の言葉に、喉奥がひりつく。あぁ……同期として、親友として、共に過ごしてきた時間と関係。ストイックで他者を寄せ付けない秀次が、唯一隣を許してくれたのは、俺だった。
俺しか知らない、コイツの砕けた態度や気を許した笑顔……それが今から軽蔑の色に染まるのが……正直……辛い。
「あぁ。ずっと……彼女と付き合う前から……好きだった相手がいたんだ」
「別に……その相手とどうにかなるつもりもなくて。片想いで……墓場まで持ってくつもりだった」
「彼女に告白されて、その真っ直ぐな言葉や思いをぶつけられて……彼女となら、相手を忘れることができる……そう思って」
それが、彼女をこんな形で傷付けるとは思わなかった。
「うまく……隠せてると……思ってたんだけどな」
空いたグラスの縁を、ついっと指先でなぞる。カランと氷が重なる落とすがして、俺は目を伏せた。
「馬鹿だよな……俺」
こんな風に、誰かを傷つけたことを、こいつに告げるつもりはなかった……コイツにだけは……真面目で堅物なコイツは……こんな不義理をおかした俺を軽蔑するだろう。
「あぁ……そうだな。大バカだ」
思いの外近くで聞こえた秀次の声に、へ?と顔を向ける。
「瑛はさ……嘘がつけないんだよ」
「しゅう……じ?」
なにが?という言葉は、かさついた唇で塞がれていた。静寂と沈黙。驚きとともに呆然と整った秀次の顔をみあげる。
「なっ……キ……」
キスを……された……。ソッと離れた秀次の唇……それをみつめ狼狽える俺に、秀次は苦しそうに言葉を続ける。
「お前が嘘なんてつけないのに……嘘をつかせた俺は……お前以上にバカだけどな」
「秀次……それって……」
隣に腰を下ろし、片手でその整った黒髪をくしゃくしゃと崩す秀次。
「お前が『普通』を選ぶのを見て、安心したから。ああ、やっぱり俺の勘違いだ……って。親友でいられる言い訳が増えたから。お前の人生を狂わせなくて済む……言わなくて済む便利な言葉を、お前の人生に押し付けた」
俺は目を閉じる。耳の奥で鼓動がうるさい。彼の言葉は、いつだって柔らかい。柔らかいけれど、逃げ場を与えない。
「……秀次」
秀次が告げる……言葉の意味をひとつひとつ落としていく……大人で……まわりくどくて……少し……卑怯で
「なぁ……秀次。今日は、駆け引きとか……いらない」
「最初からするつもりない」
ふっと笑う気配。横をみると鋭い視線。痛くはない。熱いだけだ。こんな目をする奴だと知っていた気がする。仕事で取る難しい案件の時、会議室を出る直前の目。逃さないという強い視線。
「吐き出すか?お互いの抱えてた嘘とか全部」
意を決してウィスキーを手にとる。グラスが二度、三度、唇に触れる。アルコールより先に、言葉が口先から回り始めた。
「彼女、いい人だった。仕事で遅くなるのも、急な出張も、文句言わなかった。俺の案が落ちた日だけは、電話で黙って聴いてくれて『次があるよ』って笑った。優しくて……いい人で俺も彼女のいい人であろうとしたんだけど……あぁ、思い出すほど俺は最悪だ」
「最悪とは違う。違うけど鈍い。自分に鈍いのは罪だよ、瑛」
「─わかってる」
「わかってないから今になった」
「そうだな」
苦笑が同時に出る。奇妙に揃うのが、少しだけ救いだった。─大人になるほど嘘をつく。自分にも、周りにも。『普通』を押し付けられて、『普通』に安心して……枠から外れることを恐れて……上手に隠すことに安堵した。
「彼女が言ったんだ。『他に好きな人いるよね?』って。俺は反射で否定した。『いない』って。そしたら、彼女、丁寧に首を振って、『いるよ。あなたの話し方が変わるの。その相手の時だけ。声が、柔らかい』って。……怖かった。俺は、そんなにわかりやすいのか、って。そんなにわかりやすいのに、知らないふりしてきたのか、って」
秀次は、黙って聞いている。ただ、ときどき「うん」と短く相槌を打つ。促すようなそのリズムを頼りに俺は続ける。
「今日、最後に言われた。『これ以上逃げないで。逃げずにちゃんと傷ついて。私は、ちゃんと傷ついたから』って。——あれ、優しすぎるよな」
「あぁ……優しいな」
気づけば、ウイスキーが底を見せていた。立ち上がった秀次が、キッチンで水を足して戻ってくる。氷がまた新しい音を立てる。
「瑛」
呼ばれて、グラスから顔を上げる。秀次の左手が、テーブルの上で止まった。触れてはいない。届く距離の手。その存在だけで、心臓がバクバクと音を立てる。
「言ってみる?」
「何を」
「ずっと言わなかったやつ」
息が詰まる。笑うことも、逸らすことも、今日だけは許されない気がした。
「……好きだよ」
声は驚くほど簡単に出た。言ってしまえば、拍子抜けするほど短い。短いのに、9年分の重さが喉をこすって出ていく。
「同期で、親友で、助けてもらってばっかりで。尊敬してるし嫉妬もしてる。秀次が笑ってると安心するし、苦しそうだと何も手につかなくなる。……それを『普通』に閉じ込められると思ってた」
秀次の喉仏がひとつ動く。彼は、まっすぐに頷いた。
「俺も、好きだよ」
それだけ。飾りも、言い訳もなかった。簡単な言葉ほど、重い。
「俺も……いや俺はずっと、言わなかった。言わないままで、瑛の隣にいた。お前が『普通』を選ぶのを見て、勝手に諦めた。……それでも、今日ここに来たのは、慰めるためなんかじゃない。言い訳に乗っかって、逃げないため」
息を呑む音が、自分のものか彼のものか、判別できない。視界が少し滲む。酔いのせいじゃない。
「——もう一度キスしていい?」
秀次の声は低い。低いくせに、柔らかい。問いは、逃げ道を残してくれる。けれど、逃げる場所はもうない。いらない。
「して」
言い終わる前に、唇が触れた。最初は、驚くほど軽かった。確認するみたいに、触れて離れて、また触れる。角度が変わる。呼吸が近づく。二度目のキスは、少しだけ深くて、舌先がかすった瞬間に全身が跳ねた。
「……ん」
無意識に漏れた声を、秀次の指が頬の下で受け止める。親指が耳の後ろを撫で、髪にふれる。優しい。優しいから、余計に熱い。肩を掴む手に力が入る。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも、欲しい」
笑いながら唇がまた重なる。三度目には、もう遠慮がなかった。歯が触れる。舌がからむ。口内の温度が上がって、呼吸の仕方を一瞬忘れる。背中に腕が回る。ソファの背もたれに押し付けられて、逃げようとしたわけでもないのに、身体が沈む。
「なぁ、瑛」
「なに」
「今日だけ……にさせないから」
その言葉が、身体の奥に落ちた。重さが心地いい。俺は頷きながら、彼の首筋に額を寄せる。汗の匂いと、ウイスキーの残り香。現実だ。この温度は、夢じゃない。
「脱ぐ?」
「うん」
シンプルな会話が、それが全部だった。シャツのボタンが二人分、外れてく。秀次こ指は迷わない。迷わないでいてくれることが、ありがたい。胸の上に落ちる彼の手。触れ方が丁寧で、胸の奥をほどくみたいだ。唇が喉を辿ると、声が勝手に出る。手の甲で口元を押さえると、秀次が唇で笑った。
「抑えなくていい……聞かせて?」
ベルトの金具が鳴り、布が肌をなぞる。触れられる度に、嘘が剥がれていく。自分で張った“普通”の皮が、ゆっくりと音もなく脱げていく感覚。
「綺麗だな」
「やめろ」
「言わせろ。俺、こんな風に言える時をずっと妄想してたんだから」
耳が熱くなる。視線を逸らしたいのに、逸らす場所がない。秀次が、俺の目を見たまま、またキスをする。今度は、言葉を飲み込ませるみたいに深く。声と呼吸の合間に、唇が名を呼ぶ。
「瑛」
「秀次」
名前だけで、充分に足りる。身体が覚える。知らなかった重さ、腕の回し方、腰の揺れ、小さな吐息。どれも初めてなのに……ずっと、こうなる未来があったのだ、と身体の方が先に理解していく。
「痛くない?」
「今日……繋がりたい……ちゃんと通じあったんだって実感したい」
その言葉ひとつで、秀次の瞳の奥がわずかに色を変える。優しさを手放さないまま、求め方を変える。深さが増す。指先が確かめる。色と熱が混ざる。言葉が崩れる。何度も、何度も、互いの呼吸を合わせていく。
——欲しかったのは、難しい愛の理屈じゃない。ただ、“いま”を同じ熱で分け合うこと。
強く抱きしめられた瞬間、胸の奥でほどけていくものがあった。後悔も、罪悪感も、消えはしない。消えないけれど、重ねられる。息が合ったところで、ゆっくりと波が引く。しっとりと汗ばむ肩に、額を押し付けて、互いの鼓動が落ち着くのを待った。
「……ごめん」
最初に出た言葉がそれだった自分に、苦笑する。秀次は「なんで」と首を傾げた。
「全部。遅くて」
「遅いのは……俺も。9年前から遅刻しっぱなし」
「長すぎる」
「でも、今は間に合った」
熱を持った秀次の掌が背中を撫でる。汗が冷えないように、タオルケットを引き寄せてくれる。身体が布に包まれると、急に眠気が襲ってきた。目を閉じる前に、喉の奥から何かが込み上げてくるのを感じる。
「秀次」
「ん」
「俺、これからどうすればいい」
子どもみたいな問いだった。秀次は少しだけ考えて、すぐに答える。
「そうだな……謝るべき人にはちゃんと謝る。仕事は、今まで通り。俺たちは、今日のことをなかったことにしない。……これでいいか?」
「うん」
「俺は瑛とちゃんと付き合いたい」
「うん……俺……も」
眠気が、会話を切れ切れにする。言い切れなかった言葉を、彼の胸の上に置いておく。胸は温かく、規則正しく動く。この音が、世界のテンポを整える。
「それと」
「……なに」
「お互いに嘘はつかないこと……自分に対しても」
「努力する」
笑い声が胸に響く。心地よさに沈みながら、最後にひとつだけ確かめる。
「秀次」
「うん」
「好き」
「……知ってる」
返事が、眠りへ落ちる場所に柔らかく灯った。
***
朝。薄い光がカーテンの隙間から白く差し込んでいる。携帯のバイブが枕元で震えて、反射的に手を伸ばす。
隣にあるはずの温もりの残骸。くしゃくしゃになった1人分のシーツの皺を、そっと手の腹で撫ぜる。
台所から、水の音。立ち上がると、身体が抗議するみたいにだるい。昨夜の熱の名残が、まだ皮膚に残っている。タオルケットを腰に巻いたままキッチンに顔を出すと、秀次がマグカップを二つ並べていた。
「砂糖2つでよかったか?」
「─いらない。ブラックで」
「大人ぶるな」
「じゃあひとつだけ」
藍色のカップに砂糖を一杯だけ落とす秀次。湯気の向こうで目が合う。見慣れた顔。初めて見る目。心がひとつだけ居場所を見つけたみたいに、穏やかになる。
「瑛。会議、何時?」
「九時半。お前は?」
「今日はアポが10時から。余裕あるし送る」
「いいよ。歩ける」
「歩いても送る」
俺が無理させたし……なんて押し問答を二往復。どちらも引かない時の方が、穏やかに譲り合えることを、俺たちは知っている。
ダイニングテーブルでコーヒーを飲む。味は、少し甘い。砂糖のせいだけじゃない。昨夜、何度も呼んだ名前が、口の中にまだ残っている。
「……彼女に、連絡する」
「うん」
「ちゃんと話す。……お前のことも」
秀次は頷く。驚かない。止めもしない。
「俺からも言うことがある」
「なに」
「俺は、ずっと前からお前が好きだった。仕事でも、人生でも、横に立ちたいって思ってた。だから、もし誰かに説明が必要なら、俺も一緒に話する。説明がいらない場所では、ただ隣にいる」
「ありがとう」
言葉だけじゃ足りない。手を伸ばす。指が触れる。確かにそこにある熱の残滓。そこに、夜の続きがある。朝の光の下で確かめ直すみたいに、軽くキスをする。コーヒーの苦味と、甘さが混ざる。
「行くか」
「うん」
身支度は、自然と段取りが噛み合う。シャツのボタンを留める手を手伝う。ネクタイの結び目を直し合う。こんなことをする日が来るなんて、想像したこともなかった。想像できなかったのは、たぶん怖かったからだ。失う想像ばかりして、得る想像をしていなかった。
玄関で靴を履く。ドアに手をかけたとき、秀次がふいに言う。
「瑛」
「なに」
「今日、八時。いつもの店」
「了解。既読つけとく」
「スタンプじゃ許さない」
「……文章で」
いつものやりとりに、いつもと違う甘えがまじる。
笑いながら、外に出る。空気が少し冷たい。秋が深まっていく。並んで歩く道は、昨日と同じはずなのに、景色が違って見える。信号待ちで、互い手の甲がかすかに触れる。繋がない。繋がなくても、俺たちはちゃんと繋がっている。
夜を越えて、新しい朝がきた。
俺の横には変わらず秀次がいて、でも今までと違う関係で……
この先の道が滑らかだとは限らない。彼女を傷付けた事実は消えない。けれど、言葉を惜しまないことだけは、選べる。俺はもう嘘をつかない。秀次の隣で変わらず歩けるように。
ともだちにシェアしよう!

