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第7話
互いにいたたまれない状態にあった酒生と中埜の緊張の糸は、一瞬で切れた。
「クシュン!」
「あ、冷えてきましたね」
酒生のくしゃみに、中埜は急いで立ち上がり、雨戸を閉め、ガラス戸も閉めた。その慣れた仕草を、酒生が温かい眼差しで見守っている。
酒生はその姿に、数年後の未来の暮らしを思い浮かべた。
あと数年で中埜は定年退職し、この家へと越してくるという。そこから、2人の生活が始まるのだ。それはきっと、ずっと穏やかで、明るく、楽しい毎日になるだろう。もしかすると、たまにはケンカもするかもしれない。そんな時は多分、中埜が折れてくれるに違いない。
そう思うと、なんだかおかしくて、酒生はクスリと笑った。
「何ですか?」
1人で笑っている酒生に気付き、中埜が声を掛けた。
「いえ、ちょっと…」
この歳になって、まだ未来に希望を持てる自分の幸運が嬉しかった。
(ずっと、この人と一緒に居よう。この人を信じて生きていこう)
酒生は、両腕を開いて中埜を求めた。
何も言わずとも、中埜は酒生の隣に跪き、自分も腕を開いてギュッと愛しい人を抱きすくめた。
「…中埜さん…」
浮かされたような声で囁く酒生に、中埜は少し拗ねたように言った。
「俺の名前、知ってます?」
ちょっと自信が無さそうな中埜が可愛らしくに思えて、酒生は恋人の頬に手を添え、そっと唇を重ねてご機嫌を取ってから言った。
「もちろん覚えていますよ。中埜幸志。『幸 せ』を『志 す』。素晴らしい名前です」
単に下の名前を呼んで欲しかっただけの中埜は、少しがっかりするが、酒生に名前を褒めてもらえたのは嬉しかった。
「今夜は一晩中、『幸志』と呼んでいいですか?」
「え?」
思いも寄らなかった酒生の申し出に、中埜は驚いて二の句が継げない。
「私の寝室まで、付き添ってくれますよね」
そう言う笑顔の酒生が艶然としていて、中埜は急に心拍数が上がった。
「あ、…と、その、あの…」
「もちろん、『介護』のためじゃないですよ。そんなことされたら、ガッカリです」
酒生はそこまで言って、後は楽しそうに笑っているだけだった。
その笑顔を見つめながら、中埜の頭の中は目まぐるしく働いていた。
(え~っと、つまり、あれだな、そういうことだな。そうなると、あれが、ああだから、こうなって、それからあれが…)
黙り込んだ中埜に気付き、酒生が不思議そうに顔を覗き込んだ。
「幸志?なにか、不都合でも?」
自分を見つめる酒生の眼差しに、中埜は吸い込まれるような気がした。
そこにあるのは一点の曇りもない、純粋で、揺るぎない気持ちそのものだった。
(そうだ、もう迷うことなんてない)
長い沈黙に戸惑った酒生が、中埜に声を掛けようとした直前に、中埜の方が先に口を開いた。
「朝まで、ずっと一緒ですね」
「…はい」
それ以上、言葉は必要ではなかった。
酒生と中埜は何も言わずに見つめ合い、睦まじく微笑み合った。
2人はそっと抱き合い、唇を重ねた。これだけでも幸せだと思っていた。
けれど、それだけでは十分ではないことも知っていた。
中埜が立ち上がり、酒生の腕を取ろうとした時、ふと何かを思い出したように酒生が呟いた。
「階段、上がる時に手を借りねばなりませんね」
申し訳なさそうな酒生に、中埜がクスリと笑って言った。
「お姫様だっこで、お連れしましょうか?」
「え!そ、そんなご面倒をお掛けするわけには…」
恥ずかしそうに断った酒生だったが、すぐに中埜の表情から、それが冗談だと気付いた。
そして、もう一度柔らかく笑顔を交わし、次の瞬間には、大きな声を上げて、この上なく楽しそうに笑った。
こうして、酒生教授と中埜さんは、愉快な笑い声に包まれながら、2人だけの楽しい退院祝いを締めくくったのだった。
***
翌朝の中埜は忙しかった。
昨夜は夢中になってしまい、お風呂に入ることも忘れて寝落ちしてしまった。勝手知ったる酒生家、ということで朝から1人で入浴を済ませ、座敷の雨戸を開放して朝日を取り入れ、朝食の支度を始めた。
今朝は、炊き立てのご飯に、塩鮭を焼き、ちょっぴり甘い卵焼きを作り、ご近所からの差し入れのカボチャの煮物と、切り干し大根の煮物と、キュウリのぬか漬けを並べた。
お味噌汁は、定番の豆腐とワカメ。
(ん、昇一郎さん好みの味だ)
納得のいく自分の味付けに、中埜はニンマリとした。
そして、チラリと視線を上に向けると、柔らかな表情になり、2階の酒生の寝室へと向かった。
洋室に改造された寝室のドアを中埜がそっと開けると、まだベッドの上は膨らんでいる。そこにまだ酒生が眠っているのだろう。
昨夜のことを思い出し、どうしても中埜の頬が緩む。
同性との行為が初めてだった中埜を、酒生が巧みにリードしたおかげで、中埜は戸惑いや恥じらいや引け目を感じることなく、この上ない満足を得た。何もかも与え、与えられ、満たされた。
「昇一郎さん?」
小さな声でその名を呼んで、眠っているはずの恋人の顔を覗き込んだ。
「……」
やはり酒生はまだ眠ったままだ。疲れ切っているのかと、中埜はフフフっとくすぐったそうに笑った。
この先、こんな穏やかで、満ち足りた朝を何度も迎えるのだろう。
ようやく見つけた幸せを分かち合うのが、酒生昇一郎という人で良かった、と中埜は思う。
「ふっ…」
その時、寝たふりをして我慢していた酒生が、堪え切れずに吹き出してしまった。
「昇一郎さん、起きていたんですか?」
「ええ。王子さまのキスで目を覚ましたくて、待ってました」
「は?」
キョトンとする中埜に、酒生は声を上げて笑った。
その明るく楽しそうな笑顔に、中埜が胸いっぱいに温かくなる。
それは、酒生も同じだった。
泣きわめくような熱い情熱は、もう、無い。
ただ、ひたすらに穏やかで、温かく、優しい気持ちがあればいい。
「愛していますよ、昇一郎さん」
「私も、ずっと愛しています。…幸志」
2人の影が、朝日に照らされて重なった。
〈おしまい〉
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