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短編

 長々と感じる講義もこの日はいつもよりさらに遅くなっているんじゃないかと感じた。  さっさと終われ、と時計をにらんでも教授の弁が早くなることはないし、秒針だってカチカチと取っているリズムが崩れたりはしない。でも晴也はとにかく今日は急いでいた。  だってこの後恋人と数週間ぶりにデートをする約束をしているからだ。  大学生になって初めてお付き合いする人ができた晴也にとって、一日一日はとても貴重な物だった。マッチングアプリで出会ったのが二か月前、はれて告白してから一か月と二週間経ったけれど、いつだって会いたくて仕方がない。  はぁ、とため息を吐くとスマホがなにかを感知したのか画面がつく。そこには晴也と〝彼氏〟の自撮り写真が映っていた。幼い顔立ちが目立つ晴也と違い、しゅっと顎が細くて切れ長の目をしたイケメンが微笑んでいる。にへ、と晴也の口元がゆるんだ。  まさかオレに彼氏ができるなんて、幸せすぎるって。  彼の恋愛対象は男性だ。いままで恋人なんてできやしないさとあきらめていたが、とあるSNSのコミュニティでおすすめされたアプリを入れてみたらあれよあれよとお付き合いにこぎつけたのだった。だからいまでも信じられない。  画面には続けてメッセージの通知が現れた。彼氏の健翔からで「早く会いたいね」としょんぼりしている絵文字付き。  お、れ、も。と教授にバレないようにメッセージを打ち返す。おかげで時間は少しばかり早く進んでくれたらしい。  よし、と晴也は気合いを入れた。講義に集中すればもっと時間が巻かれるだろう。  晴也は大学二年生で、コミュニケーション学を専攻している。対して健翔は年上の営業マンだ。東京で大手のナントカ会社に勤めていて、売上の業績もいいらしい。社会人のことなんてまだまったくわからないけれど、話を聞くのは楽しかった。  なにより教えてくれるときの健翔の目がキラキラして綺麗なのだ。見惚れていると、恥ずかしそうに頬をかくところも親しみがあって良い。  健翔はとにかく顔ができあがっている好青年で、オレにはもったいない人だと晴也はため息が出てしまう。自分は相変わらず子どもっぽい自覚はあるけれど、決してからかわず、子ども扱いせず恋人として扱ってくれる。  もしかして全部夢か妄想だったらどうしよう。それかロマンス詐欺に引っかかってるとか。マッチングアプリはそういうのが横行しているから気をつけましょうとニュースでも取り上げられていたのを思い出す。  健翔は違うよな、と訊けるわけもない。でもこの二か月間、金銭をせびられたことも、商品を勧められたことももちろんなかった。  だからたぶん、本当に恋人なんだと思う。信じたい。そのためにたくさん会って、話をして確信していきたい。  キンコンとチャイムが鳴った。長かったこの日最後の講義もようやく終わったのだ。急いでカバンに教科書とノート、ペンケースを突っ込み、クラスメイトに別れを告げて教室を飛び出した。  山手線に揺られて約束している地、新橋へと向かう。外国人観光客の大きいバッグにつぶされそうになったが気にならなかった。だってもうすぐ健翔に会えるから。スマホを何度も確認するが、まだ彼の仕事が終わる時間ではなかった。後から向かうんだから、晴也の方が先に着く。それでも良かった。駅に着いたので電車から降り、トイレの列に並んだ。  用を足してから、鏡で髪型が崩れてないか確認する。クマもなし、ひげもなし、眉毛もちゃんと整えたばかりなので問題なし。  服も一昨日に友人と買いに行った。古着が好きなのだが、あまり古着に見えないものを頑張って選んだつもりだ。というよりもスマートなものをちゃんと考えた。だってこの後、隣にはスーツの健翔が並ぶんだからカジュアルすぎてはいけない。  仕事終わりの彼と会うのは初めてかも。いつもの私服ももちろん格好いいのだけれど、世の中には三割マシという言葉がある。つまりもっと格好よくなってる可能性に晴也は「心臓持つかしら」と心配になってきた。もし気絶したら台無しだ。振られたらどうしよう。いやいや、妄想で考えることじゃないだろ。  鏡をもう一度見て、オールオッケーと鼻息を漏らしてから、改札を抜けたすぐの柱に立つ。ちょうど健翔から「終わったから向かうね」と連絡が来ていた。はやくはやく、とまた電車のダイヤが自分たちのために巻きで動いてくれないか祈ってみる。実際にそうなったらきっと都内は大騒ぎになるだろう。  そして十分ほど経ったところで、急いで向かってきている健翔の姿が改札に表れた。 「ごめん! 待たせたよね、定時で飛び出してきたつもりなんだけど、ハァ」  息を切らして額に汗を浮かべている。オレのために、と晴也は胸がきゅっと締まった。 「へーきです。定時に上がれるなんて珍しいですね」 「うん。はるくんのために頑張った。ってか明日の俺に全部任せちゃった」 「また万能説ですか?」 「正解。明日の俺はなんでもできる超人だからね」  健翔が手を取り、すぐに握ってくれた。煙草の匂いが鼻をくすぐって身じろぎする。 「まだ慣れない?」と困り眉で訊かれ首を縮めた。  手をつないでもらえるのは嬉しいけれど、どうにも晴也は周りの目が気になってしまう。いままで恋人ができたことがなかったこと、そして同性が好きという秘密にしてきたことが引っかかって素直になれない。 「ほら、誰も見てないから大丈夫。なんか言われても俺の話術で相手を懐柔できるから」 「健翔さんならマジでやりそう。あは、やり手の営業マンですもんね」 「そうです。でもそのせいで月末は寂しい思いさせてる、よな?」 「平気ですってば」と握った手を振った。「オレもテストとかで忙しいから、ちょうどいいじゃないですか」 「よくできた彼氏だなぁ。よし、ならいまのうちに英気を養おうぜ。夜ご飯はステーキでいい?」 「はい! ぜひ!」  新橋で有名なステーキハウスを教えてもらったと、健翔がウキウキなテンションで連れて行ってくれた。  たらふく食べ、血糖値があがりすぎたので目的の場所までは歩いて向かうことになった。それくらいの距離感らしい。  きらびやかににぎわっている飲み屋街を通り抜ける。仕事終わりの人たちが酒を呷って楽しそうな雰囲気に、まるで外国に来た気分になった。行き交うタクシーも、香ってくるアルコールと煙草も晴也には知らない世界だった。手を引いてくれる健翔の背中が大きく感じ、握っていた手の力を強くした。  まだ酒に慣れていない晴也が無理をしないように、健翔は居酒屋とかバーには連れて行こうとはしない。どこまでこっちに気を遣うんだよ、と優しさに理不尽な怒りも湧きそうだ。それだけ大事にしてくれている、って信じていいんだよね?  とくに会話もなく、たまに鼻歌を健翔が歌いながらゆっくり歩き続ける。このまま目的地に着かなくてもいいなぁ、と思い始めたところで健翔のスマホが鳴った。どうやら仕事の連絡らしく、謝られたので「どうぞ」とジェスチャーした。 「はい、わかりました。明日には作成します。あー、あの会社ですか? 担当との話は進んでます」  信号を待ちながら、なるべく聞かないようにそっぽを向く。晴也に話しかけてくれるときとは声色が違っていて新鮮だ。手の甲を撫でられたので、ドキッと心臓が跳ねた。振り向くと、いたずらっぽく目を細めていた。 「えぇ、それはもう八割できてます。明日の会議には、はい。八代さんにも渡してあります。朝一で共有ですか? 人使い荒いっすねー」  信号が変わったので歩き出す。足の長い健翔は電話をしていても、晴也に歩幅を合わせてくれる。くそぉ、非の打ちどころがない。だから詐欺じゃないかって疑いたくもなるのだ。 「電話終わった?」とスマホを耳から離した健翔に訊く。 「終わったよ。そして到着しました」  じゃじゃーん、とつないでいない手を広げた健翔に「おっかしいの」と笑ってしまった。  今日は二人でプラネタリウムを見る約束をしていた。最近話題になった商業ビルの中に入っている施設だ。様々なテーマが設けられ、映画のように日に何回も上映が行われているから大人から子ども、親子でもカップルで楽しめることを売りにしていた。  どんな感じなんだろ、とわくわくしながら入り口をくぐる。しかし待機所に来た瞬間に晴也はがっくりと肩を落とした。いや、わかっていたことなのだけれど、目の当たりにするときついというか。  男女のカップルだらけじゃん。  うっかり手を解いていた。もう一度つなごうとした健翔の手を避ける。 「はるくん?」と驚いた健翔の顔。下からのぞき込む。 「のど乾いたなぁ、あとアイスクリームも食べたい」 「あ、あぁ。カフェ見たかったの?」  うなずく。メニューに駆け寄り、これと指を差した。 「それコーヒーだよ」 「いいです。飲みます」 「そ、そうですか。アイスと、──なら俺はこのドーナツにしよっかな。すげー青色」  ふと、健翔の声がうわずっているのに気づいた。というよりも子供っぽくなっている気がした。 「席とっときますね」 「うん。ほかはいい?」 「はい」とうなずいてから、空いているソファ席に行くことにした。  それにしても本当に男女しかいない。しかもみんな美男美女に見える。東京って怖。  腰を下ろしたソファはふかふかで体がちょっと沈んだ。驚いていると、健翔が後ろから買ってきたものを机に置いて、晴也の肩を掴んで浮かせてくれた。 「はるくん軽いからなぁ。ご飯もっと食べた方が良いよ」 「太るのイヤだし。今日見るのどれでしたっけ」 「超王道な、ザ・プラネタリウムって感じのやつ」 「ふぅん、オレ、子どものころ以来だから楽しみ」 「俺はちょくちょく見に行ってるよ。ここじゃないけど。科学館とか無料で開放してたりするんだ」 「そうなんですか? だったらあんまり来たくなかった?」 「え? まさか! 一回ここにも来てみたかったんだけど、まぁ、ほらさ」  健翔が周りをぐるりと見渡して肩をすくめた。 「これじゃあ、一人だと浮くだろ。だからはるくんが行きたいって言ってくれて良かった」 「お役に立てたならなにより」 「……お腹痛い?」  飲んでいたコーヒーが喉につまりかけた。晴也の態度がさっきと変わったことに敏感に気づいたようだ。慌ててコーヒーを飲みなおして冷静を装う。 「ぜ、ぜんぜん?」 「ふぅん、だったらなんで苦手なコーヒーを飲んでるのかな」  あわ、と動揺するとカップの中の氷がカランカラン鳴った。しまった、やっぱり怪しすぎたか。 健翔の言う通り晴也はまだ子ども舌だからコーヒーを自ら好んで飲むことはしてこなかった。カフェに行っても甘いドリンクばかり頼んでいたのを健翔はきちんと覚えているらしい。 「夜、寝れなくなったらどうしよう」  バレたのなら素直に認めよう。しゅんとしぼんだ晴也に、健翔は肩を叩いて「大丈夫」と微笑んだ。 「むしろ寝ない方が良いだろ? ヒーリング音楽と暗い中で星なんか見たら絶対眠気が来るんだから」 「そうですけど、このまま徹夜したら夜が長いじゃないですか」 「かわいいこと言うねぇ」  からかうなよ、とにらめば、健翔が飲んでいたカップを晴也の前に移動させ、コーヒーと入れ替えた。 「ならお茶にしときな。こっちは俺がもらうから。周りにビビってるくらいじゃまだこれは早いな」 「げ、そっちもバレてたか」 「わかりやすすぎるんだよ。そういうところ、好きだよ」 「うっ……」と直球の気持ちに見事ヒットを決められ後ろにひっくり返りそうになった。 「気にしなくていいのに。よし、なら中でたくさんイチャつこう」 「な、なんですかそれ」 「だって暗いんだから、はるくんも気にしないかなーって」  だからってイチャつくのはいいのか。迷惑じゃないの。晴也のいぶかし気な目に健翔がため息を吐く。 「周りの人たちもたぶん目的はそっちだよ」 「ヨコシマだ。東京ってやっぱ怖い」  そうこうしている内に入場時間になり、二人はホールの中に入った。健翔が選んでいたチケットは二人が横になりながら鑑賞できるプレミアムシートだった。宇宙をイメージした素敵なシートだけれど、あからさますぎと晴也は勝手に慌てる。だがたしかに館内はほんのり薄暗くて隣はあまり気にならない。しぶしぶと健翔の隣に寝そべれば、腕が頭の下に来てぐっと体が寄せられた。  また香ってきた煙草の匂いにドキドキと心臓が早鐘を打つ。こんなに近いのはキスをするときくらいだろうか。そういえばそのときって目をつむってるからじっくり健翔のまつげを数えられそうな距離は、初めてかも。 「終わったらグッズショップも見ようよ」と健翔の小声が耳をくすぐってこしょばゆい。  うなずくと、アナウンスがあって上映が始まった。  子どものころとは技術の進歩のおかげか、まったく星空の質が違った。本当に外で満点の星を眺めているみたいで驚いた。  優しい声の俳優のナレーションが静かな中に響く。音楽も耳心地がよく、きっと眠っている人も多いなと納得する。ロケ地の絶景を交えながら、星座の説明が続く。  不思議とイチャつく気持ちにはならなかった。むしろ健翔が真剣にナレーションに耳を傾けているのがわかったし、プラネタリウムによく行くと言っていたから、好きなんだろうと邪魔するつもりも起きなかった。  波の音、鳥や虫の声。自分勝手だけど、健翔が目まぐるしく働いていることはずっと心配している。きっとここなら癒されるんじゃないか、と期待もしていたし、事実そうなっているようで安堵した。 「あ、オリオン座」  健翔がツイ、と手を挙げて指を差した。つられて視線を上げる。 「好きなの?」 「うん。見つけやすいから」 「昔、理科の宿題で探したことありますよ」 「それで知るよな。神話も面白くて良いんだ」 「文系の方だ?」 「かもね。ごめん、興味ないよな」  かぶりを振る。だって健翔の瞳がキラキラと星を取り込んで綺麗なのだから、本当に好きなんだと嬉しくなった。  かっこいいとか、完璧超人だとあこがれすぎて彼のことをぜんぜん知ろうとしてこなかった。晴也は己の愚かさに反省する。  プロフィールにもあんまり書いていなくって、無難な人だと思っていた。もちろんそういうところも好きだ。でもオレばっかり話していているときもあるし、聞いてくれるのはもちろんうれしいけど、健翔のこともっと知らなくっちゃ。恋人だと信じるのはそれからだって十分だろう。  さらに体を近づけ、恥ずかしそうにしながら星を眺めている健翔の頬を軽く撫でた。チュ、と口を当てると彼が叫びそうになったので、すんでのところで口を手でふさぎ「シーッ!」と注意しながら笑ってしまった。  そのあとはお互い星座を見つけ合いしながら、健翔が解説したくてうずうずしているのを止めたりして楽しんだ。つまりあっという間に上映時間が終わり、館内から退場のアナウンスが流れてがっかりした。  まどろみがホールに残る中、ゆっくりと立ち上がって健翔と手をつなぐ。 「また来よっか」  うん、とうなずくと健翔も嬉しそうに、子どもみたいな顔で誘ってくれた。  それからグッズショップで銀河をイメージしたバスボムと、おいしかったので紅茶を買った。時刻は二十一時を回ったところで、そろそろ解散の気配もそこまで来ている。やっぱり夜から会うと短くって寂しい。  駅まで送ってもらったが、改札に入るのはイヤでなんとか話をして別れのときを必死に引き延ばした。 「ねぇ、はるくん。このあと用事とかある?」 「ないです。だからこうして話してるんですけど」 「あはは、なるほど。だったらさ、……明日は?」  ハッと地面と眺めていた顔を上げた。健翔の耳が赤くなっている。どうやら健翔の耳は血流がよくなるとすぐに真っ赤になるようだ。かわいいことを知った。 「それは、その」と晴也がしどろもどろに探りを入れれば、健翔が小さくうなずいた。 「俺んチ、来る?」 「い、行く! すぐ行く!」 「即答は良くないよ」 「別に困らないし、健翔さんの気持ちが変わる前に向かいましょう」 「こらこら。ガツガツしすぎだって」  苦笑した健翔をぐいぐい引っ張って改札に入った。電車代なんてあとでチャージすればいいのだ。 「もっと星の話とか聞かせてくださいよ。それ以外も、健翔さんのことたくさん知りたいんです」 「えぇ? 恥ずかしいからヤダよ」 「オレのことばっかり知ってるくせに、不平等だ」 「だってはるくん面白いから。俺はつまらないんだって」 「それを決めるのはオレです。そうだ、せっかく買ったんだからバスボムも使いましょう」 「二人で入るってこと?」 「そうですよ」と強く返事をすれば、健翔の口角がへらっと緩まった。 「はるくんがいいならいいんだ。うん」  もちろんその先だっていいんだぞ。晴也はごほんと咳払いをして電車に乗り込みつつ健翔の肩にもたれかかった。  さて、もしかしたら今日こそいろんなことを飛び越えて、彼の好きも自分の好きもついに信じられるかもしれない。

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