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第1話
ワース・マドルが誰かに対して頭を下げて教えを乞うことなど、滅多にない。
ましてや、それが自分よりも下の立場の相手なら尚更だった。
しかしこの瞬間に限っては、そんなプライドを捨てざるを得なかった。
「……頼む」
アドラ寮のキッチン。小麦粉を計量していたマッシュ・バーンデッドはその手を止めて、頭を下げるワースを呆然と見つめた。
「なにごと?」
重い空気に包まれるキッチン。
それでもマッシュは馴れた手付きでボウルに入れた小麦粉と溶かしバターを混ぜながら、特に親しい間柄でもない上級生の態度に首を傾げた。
ごくり、と唾を呑み込む音と、シャカシャカという泡立て器の無機質な音だけが反響する。
やがてワースは意を決したように顔を上げるとマッシュを正面から見据えた。
「俺にケーキの作り方を教えてくれ」
再び空間を支配する静寂。
マッシュだけではない。その場にいた全員がワースの放った予想外の言葉に硬直していた。
「ワース、先輩が……?」
口火を切ったのはフィン・エイムズ。
努力家で悪い人ではないと聞いていたが、プライドの塊でもあるワースが下級生のマッシュにケーキの作り方を教わるために頭を下げるなど信じられず、目を瞬かせた。
「たしかに手作りなんて相手を思う真心の塊だけどよ」
次に口を開いたはドット・バレット。
その見た目に反して、仲間を大切に思う気持ちや相手を思いやる心の機微は彼の右に出るものはいない。
そう考えれば、ワースの行動は利にかなっていて最善の選択だった。それでも腑に落ちない部分はある。
「好きな人のためにケーキを手作りするなんてステキです!!」
どこか飛躍しつつも、そう叫んだのはレモン・アーヴィン。
レモンの言葉に、マッシュ以外の全員は目が点になり、思考停止する。
「は……?」
「好き、な……?」
「ほほう」
「好っ……バッ、ちげぇよ!!」
思考停止状態からようやく我に返ったワースも、後輩たちにあらぬ疑いを持たれたくないと、顔をしかめて否定の言葉を放つ。
「違うんですかあ? 手作りしたケーキを渡したい相手なんて、好きな人以外にあるわけないんですけど」
レモンの突飛な発言は相変わらず飛躍し過ぎていたが、この瞬間に限ってそれは的確に的を射ていた。
サングラス越しのワースの顔が誰から見ても明らかなほどに赤く染まっていく。
何かを察したフィンは「あ」と小さく声をあげ、片手で自らの口を覆う。
そしてくぐもった声で小さく告げた。
「……相手がアベル先輩だったら、手作りとかじゃなくて一流パティシエのケーキを用意しますよね?」
どんなに尊敬する指導者相手でも、失礼がないように努めるならば、ここで選ぶべきは思いを込めた手作りケーキではなく、誰もが認める価値のある高級品。
そして、ワースにそれを手配する財力がないわけではない。金銭面の問題で妥協するというなら、なにもケーキでなければならない理由もない。渡したい相手がマッシュでないのならなおさら。
フィンの指摘はもっともだった。だからこそワースは言葉に詰まる。
認められたパティシエの作ったケーキには、それ相応の価値がある。
それに比べれば、素人の自分が作ったケーキにどれだけの価値があるのか。価値なんて、ほとんど無いに等しい。それどころか喜んでくれるかも分からない。
「……ちげぇっつってんだろ!」
ぐるぐると巡る厄介な思考を無理やり追い出すように、ワースは弾けたように叫ぶ。
再びキッチンを支配する静寂。
耳が痛くなるほどの静けさに、居た堪れなくなったワースはぐっと拳を握りしめる。
下級生のマッシュにこんなことを頼むなど、間違っているとワース自身が一番よく理解していた。
学業や魔法ならば同級生の誰にも負けない自信がある。しかし製菓となれば話は別だった。
みっともないという自責の思いが、なおもワースの心を蝕む。
「ちげぇ……」
否定することだけで精一杯だった。
「……兄貴の、誕生日だから……その……」
羞恥と恥辱の思いで今にも胸が張り裂けそうなワースを黙って見ていたマッシュはしばらく間をおいたあと、ようやく口を開いた。
「いいよ、教えましょう」
ワースが頭を下げて願い出たその瞬間から、マッシュの返事はすでに決まっていた。
「……本当、か?」
わずかに見えた光明。
サングラスの奥に潜んだワースの瞳がわずかに揺れ動いだことには、その場の誰も気づくことはなかった。
***
魔法局の業務も終了し、静まり返った局内。時刻はすでに夜半に差し掛かりつつあった。
「兄、さん……」
重い扉を押し開けそろりとワースが顔を覗かせると、大きな窓を背後に賛えた執務デスクに目的の人物であるオーターの姿があった。
規則に厳しいオーターが時刻を超過してまで業務に従事していることはない。
今日この日だからこそ、オーターは職員の捌けた執務室でひとりワースの到着を待っていた。
「……遅かったな」
その視線はワースに向けられていない。ぱらりと本を捲る紙の音だけが響く。
ワースは息を切らせながらもゆっくりと部屋の中に入る。大切に抱えた箱の中には、この時間になるまで何度もマッシュの師事を受けてようやく完成させたケーキが入っていた。
納得できるまで何度も作り直した。残飯処理として初めは目を輝かせていたフィン、ドット、レモンの三名も次第に涙を浮かべるほど、何度も。
そして、ようやく完成した。
一歩足を踏み入れるとワースの乾いた足音が響く。
折角完成した傑作を、転んで落としてしまったら格好が付かない。一歩ずつ、慎重にデスクへ歩み寄る。
ばたんと、重い音が響く。ハードカバーの小説をオーターが閉じた音だった。
読んでいた本をデスクの隅に置き、オーターはゆっくりとワースへ視線を送る。
最後の一瞬まで気を抜かずに、ゆっくりとケーキの箱をデスクの上に置く。張り詰めていた緊張からようやく解放された感覚があった。
気取られないように、ワースは小さく息を吐く。しかしこの先にさらなる緊張が待っている。
言いたいことは山程あったが、それを堪えて箱に手をかける。
ゆっくりと外箱を持ち上げると、中には小さなホールケーキがひとつ。
「……ほらよ」
チョコレートの土台に、白い文字で書かれた「Happy Birthday」の文字。
ふわりと漂うブランデーの甘い香り。
オーターはケーキを見るとわずかに目を細め、そしてそれから立ったままのワースを見上げる。
「他に言うことは?」
「……ご注文の品デス。誕生日オメデトウゴザイマス」
どこかぎこちないワースの口調。
ワースがオーターから誕生日に手作りケーキを所望されたのは、数日前の出来事だった。
ケーキどころか、料理すらまともにしたことのないワースにとって、オーターからの要望は晴天の霹靂だった。
しかし、誕生日に何が欲しいのかと聞いたワース自身にも責任があった。
初めてオーターから要望された。それをワースは期待と受け取った。
期待には応えたい。誰よりも、大切なオーターからの希望だったから。
それでもワースはまだ緊張から解放されない。
まだ崩さずにケーキを運べただけだった。問題は――味。
ワースが息を殺して見守っていると、眼の前に銀製のフォークが差し出される。
「……なんだよ」
「食べさせてくれないのか?」
「は?」
冗談を言っているようには見えない。それ以前にこれまでの人生でオーターが冗談を言っているところを見たことがない。
誕生日に手作りのケーキを望んだり、あまつさえそれを手ずから食べさせろなど、最近のオーターの思考はワースには理解できないことばかりだった。
いつだったか、ラブ・キュートが告げた言葉が不意に脳裏に蘇る。
――好きな男の人にはあ、たぁっくさん甘えたくなるんだよお?
その時は、またいつもの戯言と聞き流していたワースだったが、今その言葉が何故か今朝見た夢のように思い起こされた。
オーターからフォークを受け取り、ガラス細工のように繊細な細工で彩ったケーキを、ワースは自らの手で壊す。
一口分、一口分だけだと分かってはいるものの、待ちわびるオーターの視線によって緊張は更に増し、フォークを持つ手が震える。
「あっ」
声を上げたときにはもう遅かった。切ったフォークで上手にすくい取れず、ケーキの欠片がデスクに転がる。
当然のこともできなくなっている現実に、ワースの頭の中が真っ白になる。
「わっ、悪ィ! これは俺がっ……!」
こぼれ落ちた欠片を思わず指先で掴み上げる。ケーキで汚したデスクを拭かなければと考えたワースが視線を巡らせたその瞬間――
「これでいい」
オーターはケーキを拾ったワースの手を掴み、そのまま自らの口元に運ぶ。
指先を包み込む温かい感触。生暖かいというよりも、燃えるように熱かった。
指を這う舌先の感触。それはまるでケーキをというよりも、ワースの指を食べているかのような舌使い。
「バッ……汚ぇって!!」
ワースの停止した思考が再起動し始めたとき、ワースはそう言って手を引くことで手一杯だった。
しかし、その判断が間違っていた。
――カチャン。
勢いよく手を引いた反動で、フォークが宙を舞い絨毯に落ちる。
食べさせろと言われていたのにも関わらず、ワースのその手にフォークはもうない。
「続きを」
ワースの動揺など歯牙にもかけず、オーターは少し端の欠けたケーキを指差す。
「続き……っつっても……」
食べるためにはカトラリーが必要。ワースは投げ飛ばしてしまったフォークに恭しく視線を向ける。
無意識に持ち上げた片手の指先にはケーキのクリームと、ほのかに漂うアルコールの香り。そして窓から差し込む月光によりてらてらと反射する――唾液の残滓。
「――ッ!!」
ワースは自らの体温が一気に上昇したことを感じた。指の先から耳の端まで、酒を飲んだときのように燃えるほど暑い。
衝動的にその指を口に含みたくなった。ケーキでも、ましてや僅かなアルコールのためでもなく、そこに確かに存在している血を分けた肉親の体液に対して。
冬も近い秋だというのにも関わらず、全身の毛穴から汗が噴き出しているような、嫌な感覚。
「……その程度か」
オーターがぽつりと告げたその言葉で、ワースは我に返る。
しくじったとワースが気付いたとき、オーターは既に自らの手で指先で、ケーキのクリームを掬い上げその口に運んでいた。
一度目は意識をしている余裕なんてなかった。指先に絡み付く舌の感触で頭がいっぱいになってしまい、それ以外のことが何も考えられなくなっていた。
全身が心臓になってしまったのような衝動。耳元で直接打ち鳴っているような心臓の鼓動。
「にい、さ……」
唇の間に吸い込まれていく指先。微かに残るクリームを舐めとる赤い舌先の動き。僅かに細められる目。
酷く、喉が渇いたような感覚があった。
「お前にしては上出来だ」
そう、聞こえた気がした。
笑顔を向けてくれた、そんな気がした。
それだけで、全てが報われるようだった。
次の瞬間、ワースは膝から崩れ落ちていた。
「俺っ……頑張ったんだぞっ……!」
「ああ、分かってる」
「一年のマッシュ・バーンデッドに頭下げて作り方教わって……!」
「賢明な判断だな」
ワースが何を告げても、それを肯定する言葉が返ってくる。
こんな風に、ずっと昔から認めて欲しかった。
気付いた時、ワースは両目からぼろぼろと涙を流していた。
「アンタに喜んで欲しくてッ!」
認めて欲しいという感情が、喜んで欲しいに変わったのはいつのことだっただろうか。
認めて貰いたい気持ちは確かにあるが、今はそれ以上に自分のした事で喜ばせたいという気持ちが大きい。
感情と言葉がワースの内から止めどなく溢れ出てくる。
「……だから、喜んでいる」
「へっ?」
カタッと椅子が動き、オーターが立ち上がる。
その動きを視線で追うだけのワースだったが、デスクを回り込んだオーターはワースの隣に立っていた。
「気が付かぬ内に、背丈も追い抜かれてしまったな」
伸ばされるオーターの片手。その指先がワースの頬に触れる。
指先は肌の上をなぞり、やがて溢れ続ける涙を拭い取った。
「泣き虫なのは、相変わらずのようだが」
「るせぇな……」
頬に触れるオーターの手を取れば、ほんのりと暖かい体温が指先から伝わってくる。
もうワースの手は震えていなかった。
月明かりに照らされた執務室。
二人の他には誰もいない。
ワースはそっとオーターに身を寄せ、耳元で小さく呟いた。
――俺も、食べてぇんだけど。
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