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短編
「しずせんせい、ばいばい〜」
「はい、さようなら。また来週ね」
母に引かれながらもこちらを振り返り、小さな手をぶんぶんと懸命に振る可愛い園児に、「しずせんせい」こと町田静流 はにっこり笑いかけた。
男性であるが、ふんわりとした雰囲気の静流は園児からも保護者からも同僚からも癒されキャラとして親しまれている。
仕事もそつなくこなす美形であるが、静流が独身である女性の同僚やシンママからのアプローチをそこまで受けないですむのは、本人は気づいていないが特に仕事中はあまり男らしさを感じさせない性格だからなのかもしれない。
「町田さん、今日は延長保育もないし、掃除を終えたらもう上がっていいわよ」
「はい、ありがとうございます」
静流は月曜の事前準備と掃除を終えると、「お疲れ様です」と声を掛けながら同僚のベテラン保育士にぺこりと頭を下げて仕事場を離れた。
静流がちらりと左手を持ち上げてその手首に光る腕時計を見れば、まだ十八時半。
普段の週末であればこのままスーパーに寄っておつまみを適当に買い晩酌でもするのだが、今日は同窓会がある。
今日は珍しく予定通りに仕事が終わったなと思いながら、自宅とは逆方面に向かうホームに立つ。
そして、この辺りで一番大きな飲み屋街のある駅方面へと向かった。
***
「久しぶり」
賑やかに話すグループを見つけて、静流はホッと息を吐いた。
卒業してからはほぼ会うこともないけれど、中高時代を一緒に過ごした仲間はやはり安心する。
ただし、男子校だからか傍目から見てとってもむさくるしい。
もう大人だと主張していた汗臭く泥まみれだった少年たちは、爽やかなコロンや煙草の香りを身に纏う程度には成長したが。
「遅かったな町田!」
「ごめんね、仕事だったんだ」
「よう、みんな集まってるぞ」
「土曜まで仕事かー、お疲れさん」
「お、来たぞ~! 俺らの癒しが~」
「皆もう出来上がってるみたいだね」
集合時間より一時間遅く合流した静流は、「静流、こっちこっちー」という声に誘導されて、空いている席へと着席した。
「静流はひとまずビールでいい?」
「うん」
「コートこっちにかけるから、預かるよ」
静流は埃がたたないようもそもそとコートを脱ぐと向かいでハンガーを持ったまま待ってくれる友人に脱いだコートを渡してふんわり微笑んだ。
「ありがとう、陽那樹 」
「ううん、静流が同窓会来るの、卒業以来初めてじゃない? 会えて嬉しい~」
可愛くニコニコと笑う陽那樹から純粋な好意を向けられ、静流は先程別れた園児を思い出して、ふふ、と小さく笑う。
「食べ物も好きなの頼めよ」
そんな静流に、陽那樹の隣に座っていた海霧 が、オーダー用のタブレットをこちらに向けた。
「海霧も久しぶり。でも、たくさん余ってるから大丈夫だよ」
働き盛りの男たちが注文した大皿には確かに少しずつ料理が残されているものの、明らかな残飯で到底美味しそうには見えないし、一食分として足りるとも思えない。
そして何より、本当に美味しいものはとうに空になった上、その皿すらも片付けられたあとだ。
相変わらず控え目な性格の静流に、二人は顔を見合わせる。
「遠慮しなくていいから、新しいの頼みなよ~」
「そうだ、あとから来たんだから、自分が好きなのだけ頼め」
陽那樹がタブレットを反対側から覗き込みながら、「これとか美味しかったよ」と静流に教える。
二人は変わらず優しいなぁ、と思いながら静流は「じゃあ、お魚でも食べようかな」と笑顔で答えた。
同窓会は、不思議だ。
お酒を一緒に飲むことが出来なかった時代を、当時はああだったこうだった、何が楽しかった何が嫌だった、とお酒を一緒に飲みながら語り合うのだ。
陽那樹は笑い上戸なんだな、とか。
海霧は眠くなるタイプなんだな、とか。
当時は知る由もない側面を知りながら楽しい思い出話に花を咲かせつつ、静流は当時と同様周りのメンバーの話に相槌を打ってはふんわり笑った。
それでも、違和感は拭えない。
皆、ぎゃあぎゃあと賑やかに話しながら、静流を気にしてある人物の話題を極力避けている。
そしてそれを、静流はひしひしと感じてしまう。
――ああ、気を遣わせてしまっている。
やはり同窓会に来るべきではなかったかな、と思いながら、それでも今だけはと懐かしい日々に浸った。
***
「静流……!」
居酒屋から出たところで静流の腕を掴んだのは、静流が忘れたくても忘れられない大切だった人……そして、同窓会で皆が話題を避けた人物だった。
鳴田汰一 。
この同窓会にいる誰もが知る静流の元カレであり、初カレであり……連絡を切って六年は経過している相手である。
「……あれ?」
静流は目の前の存在をぼうと眺めて、首を軽く傾げる。
夜だというのに、相変わらず太陽のように明るく人目を惹く汰一。
目の前にいるのが、汰一だとは思えなかった。
彼がこの同窓会にいないと聞いたから参加したのだし、そもそも汰一が自分を振ったのだ。
その汰一が、なぜ自分に話し掛け、そして腕を掴んでいるのだろう。
そう思ったから、反応に遅れた。
「……今日は、来ないんじゃ」
ぽつりと呟く。
「仕事だったから、不参加で連絡した。でも、静流が来ているって聞いて、慌てて駆け付けた」
そう話す汰一の額には、夜だというのにしっとりと汗が滲んでいる。
そしてまだ整えることもままならない状態の、荒い息。
そこでようやく静流は、相手が本当に汰一本人であることを認知した。
自分の腕を掴むのは、静流の勘違いでも幻覚でもなんでもないことを。
何度も夢に出て来て苦しめてきた相手が、現実として目の前にいることを。
その瞬間、どす黒い嫌悪感が静流の胸を占領した。
掴まれていた腕を振り払うと、ギッと汰一を睨みつける。
そうしなければ、手が震えそうで嫌だった。
「……そうなんだ。お仕事、お疲れ様。でも僕はもう、帰るから」
顔を背け、掠れないように、動揺を悟られないように、平坦な声でポツリと呟く。
「静流……」
それなのに、汰一の深い悲しみを含んだ声で名前を呼ばれ、静流は思わず心配になりその顔をちらりと見てしまう。
なんでお前が、そんな辛そうな顔をしているんだよ。
お前にそんな権利はないのに。
僕を捨てたのは、お前のほうなのに。
その時静流は、同級生たちがハラハラしたような顔で自分たちを見ているのに気づいた。
特に陽那樹は静流に声を掛けて助けようかどうか悩んでいるみたいで、海霧はその腕を掴んで自分に引き寄せ、部外者は口出しをしないほうがいいと傍観者の立場であることを決めているようだ。
「ごめん、少しだけ話していくから、先に帰ってていいよ。またね、二人とも」
「静流……」
「大丈夫だよ、陽那樹。海霧も、また」
「ああ、お疲れ」
ちらちらとこちらを気にしながら去って行く同窓会メンバーに軽く手を振りつつ、笑顔でその背中を見送る。
「……静流」
全員がいなくなると、泣きそうな顔をした汰一がその手を静流の頬にそっと伸ばす。
いったいこの手に、何度優しく触れられただろう。
頬だけではなくて、それこそ身体中の全て、この手が触れなかったところはないのかもしれない。
けれどもそれは、過去のこと。
それはもう、終わった恋だから。
静流はそれが触れる前に思い切り叩き落とす。
温厚で穏やかな「しずせんせい」は見る影もなく、瞳の奥底には憎悪に似た怒りだけが揺らめいて見えた。
怒りを浮かべた瞳すらも美しいと目の前にいる相手が感じていることなんて露ほども思わないまま、静流ははっきりとした声で拒絶する。
「触らないでくれる?」
「静流」
「いっとくけど僕、鳴田の話し相手をするほど暇じゃないから。わざわざ時間をかけて赤の他人の話を聞かなきゃいけないなら、お金取るよ」
「静流……!」
汰一は静流に叩き落された手をグッと握りながら、瞳を閉じて眉間に皺を寄せる。
汰一はいつも、即断即決だ。
悩むのは一瞬で、次に目を見開いた時には、気持ちが決まっている。
そんな一瞬で過去の僕は捨てられたのだ、と思う静流には、乾いた笑いしか出ない。
「わかった。俺が静流の時間を買うから、ひとまずホテルに入ろう。話がしたい」
「そう? ……じゃあ先払いで五万ね」
「ああ」
わざと嫌味を言ったのに、なんの躊躇もなく五万を手渡された静流ははぁ、と溜息を吐いた。
汰一は逃げられないようにか、そんな静流の腕をぐっと掴む。
「ちょっと、放してよ」
そんなことをしなくても、僕は逃げやしないのに。
逃げたのは……汰一のほうなのに。
二人はそのまま、なんの情緒も躊躇もなくホテルの一室に連れ立って入った。
***
「町田、好きだ! ずっと好きだった! 俺と付き合ってくれ」
「……え? ええと、僕、男なんだけど……」
二人が交際を始めたのは、中高一貫の男子校で中学三年に行われたクラス替えで、同じクラスになってからだった。
一学年だけで三百人以上いる学校であるため静流は汰一をその時初めて認識したのだが、どうやら汰一はそうでなかったらしい。
汰一と同じクラスになって早々告白された静流は、面食らった。
しかも、クラスメイト全員が注目する最中のことである。
はっきり言って、たちの悪い冗談なのかと思った。
もしくは、イジメや罰ゲームの延長か何か。
どのみちクラスメイト全員の前で汰一を振ることは、静流にとってとても負荷のかかることだった。
だから結局「想いに応えることはできないかもしれないけど、ひとまずお友達からで」と苦渋の決断で返事をした。
すると静流の返事を聞いたクラスメイトたちは「頑張れ、まだ望みはあるぞ!」と汰一の背中や肩を叩いて励ましていたから、驚いたのだ。
これから少なくとも一年間、クラスメイトたちの好奇の目に晒されるという針の筵の状態の生活を強いられるかと思うと、気が遠くなりそうだった。
そして汰一が「俺は静流に惚れてる」と以前から同級生たちに公言していたことを、あとで知った。
「町田、まずはお試しで、俺と付き合ってみない?」
汰一は差別や偏見をものともせず、どこであろうが堂々と静流を口説いた。
やがて静流が根負けをして折れる形で汰一の何度目かの告白に応じた時は、「おめでとう!」「やったな!」と汰一の恋の成就を祝う声でクラス内が賑わった。
しかし、健全たる男たちが集まってする会話なんて、部活や勉強より猥談が当たり前である。
「……で、どっちがウケなの?」
汰一がいない時、真正面からそう同級生に問われた静流は、耳元で囁かれた時に意味がわからず首を傾げた。
汰一は静流との週末デートでいつも楽しませてくれ、一緒に勉強をし、そして緊張したような面持ちでキスをした。
静流は「付き合うとはこういうものか」と思いながら、汰一に全部丸投げして「恋人とのイベント」を謳歌した。
そして必然的にキスの先を汰一から求められるようになったが、静流はその全てを許した。
だから自分が「ウケ」をするのも、ごく自然に思えた。
二人の関係はいつだって汰一が自分を求めて、静流がそれを受け止めたからだ。
「静流、好きだ。卒業後も一緒にいたい」
「うん、わかった」
汰一の一途な重たい愛は静流の脳を、身体を溶かして心まで侵食した。
気付けば汰一の「恋人」であることが静流の当たり前になっていた。
校庭の片隅で、教室のカーテンの裏で、空き教室で、階段の踊り場で、何度こっそりキスを交わしただろう。
それまで静流は、なんとなく自分もいつか恋人が出来て、結婚をして、子どもができて養って……という平凡な人生を送るのだと思っていた。
交際直後は特に、付き合っていても汰一はその平凡な人生の中における過程だとばかり思っていた。
けれども気付けば、静流にとって汰一は誰よりも大事な人になっていた。
汰一が自分を大事にしてくれるたび、特別扱いをするたび、その想いに同じ大きさ以上で応えたいと思うようになっていた。
そんな二人の仲睦まじい状態は、四年近く続いた。
――だからそれは、衝撃的だった。
高校三年生になって、汰一と進路について話したあとのことだ。
汰一の横に一生いるという自分の姿を、静流が思い描けるようになった頃のこと。
汰一は静流に言ったのだ。
「静流、俺たちさ、別れたほうが、いいよな」
「え?」
静流には汰一から言われた言葉が、理解できなかった。
いや、理解することを、頭が拒否していた。
いつだって、ずっと一緒にいてくれと言っていた汰一が、言うわけのない言葉。
でも、目の前にいるのは確かに汰一で。
今まで見たことのない絶望したような表情を浮かべて、いつも真っ直ぐに人の瞳を見つめる顔を俯かせて、歯切れ悪くぽつぽつと話す恋人。
「やっぱり子供は、欲しいだろ」
「……は?」
汰一の絞り出すような言葉に、静流は顔を歪めた。
静流は子供が好きだ。
だから、この中高一貫の男子校の進路としては珍しく、保育士の資格を卒業と同時に取ることが出来る大学への進学を決めたのだ。
「そりゃ、子どもは好きだし、欲しいけど」
汰一と一生一緒にいると決めた時点で、自分の人生に子どもは望めないし、望まないから。
だから自分の人生に、たくさんの子供たちと触れ合う機会を投入したのだ。
汰一のほうが大事だと、大事にしたいと、思ったから。
なのに、どうして今更。
知らずぼたぼた、と溢れた涙が滴り落ちて、静流の足元に小さな水溜まりを作った。
「僕と付き合っていた時点で、一生一緒にいようって言った時点で、そんなことはわかってただろ」
「わかってた、つもりでいた」
「わかってたつもりって……」
なんでだよ。
なんで、急に。
自分はそれでもいいって、構わないって、覚悟を決めたのに。
流れる涙を抑えることが出来ない静流の顔には、幾筋もの涙が滝のように流れた。
何が汰一の考えを変えたのか、理解できなかった。
「本当に、ごめん。今まで、悪かった」
「……っ」
悪かった、なんて言って欲しくなかった。
一緒にいて楽しかったのは、一緒に過ごした時間を宝物のようだと思っているのは、まるで静流ただひとりのように感じたから。
目の前にいる、誰よりも近かった汰一が、急に遠く感じた。
そうか。
覚悟を決めていたのは、自分だけだったのか。
いくらでも不妊だってある時代、たとえ女性と結ばれたって子どもは出来ないかもしれないのに。
そんな不確定な要素で、切り捨てられるような存在だったってことか。
そのことに気付いた瞬間、静流の頬に流れていた涙が、ピタリと止まった。
それは、汰一への想いも断ち切られた瞬間だった。
ぷつり、と綺麗に切れたのではない。
それは捻り千切られたような無残な切り口で、止まった涙のかわりにそこからぼたぼたと血が滴り落ちるているかのような、酷い痛みを伴っていた。
「そう、わかった」
自分でも驚くような冷たい声が、静流の口から零れる。
パッと弾かれたように顔を上げた汰一が目にしたのは、もうなんの感情も映さない瞳でただ目の前の景色を投射する、能面のような静流の顔だった。
「静流」
「話はそれだけ? じゃあ、僕はもう行くから」
二人はそうして、別れたのだった。
***
「それで、話って何?」
当時の胸を抉られるような感覚は、もうない。
それでも、全身で汰一を意識してしまう自分の弱さが、静流は嫌だった。
しかし、あまりにもとげとげした態度はまるで当時の気持ちを引き摺っているように見えてしまうかもしれない。
そう思い直した静流は少しだけ雰囲気を和らげる努力をする。
「ビール、飲んでもいい?」
ラブホテルに入るのかと思えばビジネスホテルですらないこの大きな駅周辺で一番高いラグジュアリーホテルに汰一が部屋を借りて、静流は内心驚いた。
初めて入室した豪奢な造りの室内に、あえて心を向ける。
「ああ、勿論。静流はビール派?」
「うん。でも休みの前の日だけね。普段は飲まないよ」
酒臭い、と園児に思わせたくないからだ。
静流にとってそれは、ごく当たり前のことだ。
怪我をさせたくないから爪も短くキープしておくし、絆創膏やシールはいつも持ち歩く癖がついている。
「そっか。偉いな」
「別に偉くもなんともないけど」
こんな会話を続けるなら、さっさと帰りたい。
そう思いながら静流は、ホテル窓から見える夜景を見下ろしながら、プシュ、と小気味いい音を立てて開けた缶ビールに口をつける。
部屋を借りた汰一への当てつけに普段は飲まないお高めのビールを開けてやったのだが、喉越しはいいはずなのに味がしない。
「静流」
「ん?」
少し酔っているかもしれないな、と窓ガラスに反射する自分の顔を見て思いながら、振り向く。
思っていたより近くに汰一がいて、一瞬驚いた。
じり、と一歩下がって距離をとる。
「……その、子ども」
「子ども?」
「お前のSNSで、ここ四年間くらいずっと赤ちゃんの頃から写ってた、双子の子ども」
「ああ、姉さんの子どもかな。僕の姪っ子」
静流はなんの話かと目を一度ぱちくりとしたあと、無意識にふわりと笑った。
静流にとって保育園の子どもたちは勿論みんな可愛いが、双子の姪っ子たちは特に目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。
実家に住んでいる静流の徒歩五分離れた家に姉夫婦が住んでいて、共働きである姉夫婦はしょっちゅう静流に子守りを頼むのだ。
正直、姉の旦那よりも静流のほうが双子から父親だと認識されているような状態である。
「やっぱり、静流の子ども、じゃない?」
「うん、違うけど。……え? なに、それがどうかしたの?」
唐突にプライベートに首を突っ込まれ、静流は眉を顰めた。
汰一と別れてから三人の人と付き合ったが、どれもスパンは短く、汰一との思い出を塗り替えるほどの魅力はなかったのだ。
ただ、勝手に美化されている可能性が高いな、と静流は思い込もうとしているのだが。
「静流がその、俺と別れてから、男と付き合ったって聞いて」
付き合った人の中で、最初の二人は女性だった。
その時に童貞は捨てたが、エスコートされ慣れていた静流は自分から女性を誘うことが極端に少なく、結局二人とも愛されていると思えない、と言い残して静流の元から去って行った。
そして最後に付き合ったのが男性だったのだが、静流と似てとても穏やかな性格で良い人だったし色々計画もしてくれたけれど、彼はベッドで「ウケ」だった。
静流は上手くリードできず、自然消滅的に関係は終わった。
ちなみに彼と付き合って初めて、「ウケる側」を「ネコ」と呼ぶのだと知った。
「……それって汰一に関係ある?」
「だって、子どもが欲しいから俺と別れたのに、男とって」
「は? なにそれ、子どもが欲しいから別れたのは、汰一のほうでしょ」
責められるように言われ、一度抑えたはずの静流の怒りが再燃する。
その怒りに触れてか、はっと何かに気づいたかのように、汰一の顔色が変わった。
戸惑うような、伺うような表情から、真剣そのものの表情へと。
「違う。俺はずっと、静流しか好きじゃない」
真っ直ぐにそう言われても、静流は警戒心が強まるばかりだった。
子どもが欲しくて自分と別れた結果、自分より好きな女性ができなかったと言われたところで、何も嬉しくはない。
「はは……、僕を振った癖に、調子がいいヤツだな」
「好きで別れたわけじゃない。静流が、子どもが好きだから……! 子どもが好きで、保育士になるって進路を決めるくらい、本当に好きなんだって知ったから」
「うん。そりゃあ、好きだよ。ずっと関わっていきたいと思ったから進路に選んだし、実際保育士やってて、毎日物凄く楽しいし、癒される」
それ以上に、大変なこともあるけど。
保育士は子ども以上に親との関わりも大事だって、当時は知らなかったし。
「だから! お前がいつか、子どもが欲しいからって理由で俺と別れるならと思って、話したんだ。でも、本当は心のどこかで期待してた。お前が俺を、選んでくれるんじゃないかって」
「……え?」
汰一の歪んだ表情を見ながら、静流は少しだけ動揺した。
「静流は俺に別れたくないって、言わなかった。子どもは欲しいって、やっぱり思ってるんだって知って」
静流は懸命に、別れた当時の会話を思い出そうとした。
けれども靄がかかったみたいに、上手く思い出せない。
僕は汰一が良いって、一言でも言ったか?
好きだって、愛してるって、一生一緒にいようと汰一が言ってくれた時に、わかったと受け入れる以外に、僕もだよと、返事をしたか?
そのことに気付いた時、ぐわん、と静流の視界がたわんだ気がした。
「俺じゃ、静流の思い描く幸せな家庭は、どう足掻いても絶対に叶えてあげられないから。でもあのまま一緒にいたら、好きすぎて、手放すなんて無理だったから!」
「……だから、別れた?」
「ああ。でも、静流が男と付き合ったって聞いて、死ぬほど後悔してる」
汰一がぐっと距離を縮めて、静流をしっかりと抱き締めた。
「……静流、お願い。静流の理想とは違うだろうけど、相手が男でもいいならどうか、俺を選んで」
「汰一」
「やっぱり、好きなんだ。忘れられないんだよ、静流が」
「汰一、ごめん」
そう言った静流が腕を持ち上げてぎゅうと抱き締め返す前に、汰一は静流から距離をとる。
酷く悲しげで危うい汰一の瞳が、とても近い距離で静流と視線を交差した。
「やっぱり、駄目か?」
「あ、違う、そのごめんじゃない」
「え?」
ぽう、と希望に似た光が汰一の瞳に宿るのを認めた静流は、今度こそ誤解がないよう懸命に言葉を紡ぐ。
「僕、汰一にきちんと伝えてなかったなって思って。だから、ごめん。不安にさせて、ごめん。言わなくてもわかるだろうって思ってた僕も、傲慢だった」
汰一はゲイだったが、静流はノンケだった。
それを汰一に口説き落とされて、付き合い出したのだ。
静流からすればノンケの自分が汰一を受け入れた時点でかなり好きなのだと理解すると思っていたが、汰一からすれば流されたのではないかとか同情とか一時の気の迷いとか好奇心とか、色々不安に感じることもあっただろう。
ましてや子どもが好きだと聞けば、普段は確認することのなかった愛情を確認したくなったのも当然な成り行きだったのかもしれない。
「僕、汰一が好きだったよ。あの頃は確かに、汰一に恋をしてた」
「過去形?」
「……うん、過去形、かな。それはもう、終わった恋だから」
粉々に砕かれた恋心は、捨てるしかなかった。
ふとした時に思い出す感情を一生懸命捨てて、捨てて、思い出さないように、蓋をして。
「そっか」
「でも」
「ん」
「また汰一と、新しい恋をしたいと思ってる、かも」
「静流……?」
「ほら、僕たちさ、あの頃とはもう、違うことも多いよね?」
お互いに社会人となれば、まず一緒にいられる時間が大幅に変わる。
学生と社会人では、時間の使い方もお金の使い方も違う。
趣味だって食事の好みだって変わっただろうし、お酒や煙草のような嗜好品は増えただろう。
「だから、汰一。まずはお試しで、僕と付き合ってみない?」
昔、何度も何度も汰一から言われた言葉を、今度は静流が口にする。
「……静流」
言われた汰一は一度大きく目を見開くと、嬉しそうに微笑みを浮かべた。
それは、学生時代の元気な心からの笑顔ではなく、大人になった社会人の笑顔だった。
それでも喜びが滲み出るような、そんな笑み。
「すげぇ、嬉しい。大切にする、静流……」
「汰一、んんっ」
汰一は静流の顎に手を掛け、昔したように激しいキスを交わした。
唾液に混ざるお酒の味だけが当時と違うけれども、そのキスはあっという間に二人を昂らせる。
「ずっと好きだ、静流……っ」
「汰、一」
二人はキスをしたままもつれ合うようにベッドへ倒れ込み、一分一秒でも待てないとばかりにそのままお互いの服を脱がせ合った。
汰一は裸になった静流の上に覆いかぶさると、片手を恋人繋ぎしてベッドに縫い付け、身体のいたるところにキスの雨を降らす。
その熱に、久しぶりの刺激に、静流の身体はビクンビクンと可愛らしい反応を見せた。
やがて汰一はローション付きのゴムを自分の指に嵌めて、ぬちゅ、と静流の後ろの蕾に潜り込ませる。
静流は久々の感覚に悶え、身体を捩るとその手首を掴んで訴えた。
「ん、ぁ、待って汰一……、僕、久しぶりすぎて」
「ああ、凄く狭くなってる。ヤバイ、嬉しくて泣きそう」
「その、準備とかも、してないし」
「俺がする。道具も全部、持ってきたし」
「……そっか。じゃあ、お願いしようかな」
風呂とトイレを何度か往復した静流は、まるで初めての時のように自分が緊張していることに気付いた。
汰一はそんなことにもお見通しなのか、それともはたまたただ単にそういう気分なのか、まるで静流の緊張をほぐすかのように、早急に繋がろうとはせず、ゆっくりと丁寧に静流への愛撫を施していく。
そうした余裕も、学生時代には見られなかったことだ。
静流と同じ時間が、汰一にも降り積もっていたことを改めて感じる。
「痛いか?」
「だい、じょうぶ……んんッ」
汰一の手が、唇が静流の肌を掠めるたび、静流の中で忘れていた感覚が呼び覚まされていった。
自然と後孔がひくりひくりと汰一の指を締め付け、その先の快感を求めて蠢き出す。
その淫靡な動きに、汰一の喉はこくりと鳴った。
「あのさ、静流」
「うん?」
「ええと、嫌なら答えなくてもいいんだけど。その、男とは」
「別れてるよ」
「うん、それはそうだと思うけど。えっと、その」
「シたけど、僕のお尻は使ってないよ」
「……そうなんだ」
ほっとしたように汰一が吐息を漏らし、そのまま舌先を伸ばしてうつ伏せになった静流のすぼまりへつぷ、と挿入する。
「んぁっ……!」
きゅうきゅうとすぼまってその侵入を拒む入り口を、汰一は肉厚な舌で優しく押し広げ、手懐けていく。
とろとろに解れた穴に自分のペニスを突き入れた時の快感を知っていながらそれに耐え続けてひたすら奉仕するのは苦行であったが、ここに至るまでの六年間を思えばそれは幸せでしかない苦痛だった。
「も、もういいから……っ、多分、挿入 ると、思う」
ぽたぽたと先端から先走りを零しながら、静流は自分の尻たぶを持って左右に広げて汰一の肉棒を乞う。
上気した頬と、湿った吐息を漏らす唇、濡れた瞳をした静流の全てに性欲を掻き立てられた汰一は、痛いほど元気になりすぎた剛直をその中心に押し当てると、ゆっくりそれを沈めていった。
「んん……っ」
「は、ぁ……」
ぐぷぐぷぐぷ、と汰一の視線の先で、自分のペニスが静流のアナルへ埋もれていく。
それと同時に、自慰とは比べ物にならない快感が、股間から腰へ、腰から脳天へと雷のように走った。
「ぁあ、ぁ……っ」
たまらず腰を振りたくなる気持ちを精一杯耐えて、数回深呼吸しながらその快感が過ぎ去っていくのを待つ。
「動いても、平気そう?」
「うん……っ」
期待が滲んだ静流の返事にほっと安堵しつつ、汰一はゆるゆると律動を開始する。
動きながら静流の前立腺の位置を探り、特に反応の良かった箇所をしつこく擦り上げるようにして、責め立てる。
「ぁんっ! ああっ」
「ヤバい、静流のナカ良すぎて、直ぐにイかされそう……っ」
激しくなった動きの中で的確に前立腺を突かれた静流は、やがて触れられていないペニスからどぷ、と吐精する。
達したタイミングで締め付けられた汰一も堪らず静流のナカに放つと、二人は繋がったまま荒い息を吐きながらシーツの上へ寝転んだ。
「……ふふ」
「ん?」
「気持ち、良かった」
静流はふんわり笑って、自分を後ろから抱き締める汰一の腕に、ちゅ、とキスをする。
「静流……」
汰一は一度ぬぽ、と静流の中から杭を引き抜くと、そのまま静流の両足を高く持ち上げ、上を向いたアナルに傷がついていないか、目と指と舌を使って丁寧に確認した。
「ちょ、汰一、も、大丈夫だから……っ」
「ああ、大丈夫そうだな」
流血していないことを確認すると、汰一は笑顔でその蕾に再び元気を取り戻した男根を押し当て、そのまま突き入れた。
柔らかく解された静流の後孔は、難なくそれを最奥まで飲み込む。
「相変わらず、元気になるの早いね」
「そりゃ目の前にいるのが静流だしな」
「僕、もう少し休ませて欲しいかも」
「相変わらず、静流は体力ないな。いいよ、休んでて」
二人は笑い合い、身を屈めた汰一はちゅ、と静流の唇にキスをする。
そしてそのまま、自分たちの距離も、時間も埋めるように、何度も愛し合ったのだった。
***
「もうちょっとでお迎え来ると思うからね、一緒に待ってようね」
「うん、まってる~」
土曜日。
静流は延長保育最後の園児と一緒にお絵描きをしながら、保護者のお迎えを待っていた。
「せんせい、にこにこだね~」
「うん、上手に描けてるなあって思ったよ」
静流は園児の頭を撫でながら、その純粋無垢な瞳に笑い掛ける。
「ううん、あのね、せんせ、いいことあったぁ?」
「いいこと? うん、あったよ。すごいねえ、わかっちゃうんだね」
「うん、わかるよ~」
子どもの観察眼は、大人より鋭いことがある。
舌を巻いているところに、保護者が駆け込んできた。
「先生すみません! 遅くなりました!」
「大丈夫ですよ、お仕事お疲れ様です。今日もいい子で待ってましたよ」
園児の今日の様子を口頭で簡単に話したあと、家路へと急ぐ二人を見送る。
「しずせんせい、ばいばい〜」
「はい、さようなら。また来週ね」
静流がちらりと左手を持ち上げてその手首に光る腕時計を見れば、十九時半。
最後の職員である静流は少し急いで片付けと戸締りをし、保育園をあとにする。
外に出たところで「しず先生」と声が掛かって、振り向いた。
「汰一」
「早く終わったから、迎えに来た」
「待たせてごめん」
静流が汰一の傍へ近づくと、汰一は静流の腰を引き寄せて微笑む。
「今日はどうする?」
「うーん、このままスーパーに寄っておつまみを適当に買ってホテルで晩酌したいな」
「了解、そうしようか」
二人は明日の引っ越しに備えて予約したラグジュアリーホテルへ向かって、仲良く連れ立ち歩いたのだった。
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