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クウィーンローズ
冷たい風が街を歩く人々の隙間を吹き抜けていく。恋人たちはクリスマスイヴを迎えて幸せそうな笑顔を浮かべ、両親の手を引っ張っている幼い子供は、瞳を輝かせて浮足立っていた。彼らはどうもこの寒さなんてどこ吹く風らしい。
それとは正反対にミカエル・スチュアートは全身をぶるりと震わせて、胸の紙袋を大事に抱き直し、寒さをしのぐためにコートの襟を立てた。手袋をはめていたって、この寒さは身に染みる。
袋の中の店で買った一番安いドッグフードを見つめながら、愛犬モカの喜ぶ顔を思い浮かべただけで、ミカは嬉しくなった。モカの所へ急いで帰ろうと思った時、前を歩く人たちの会話が耳に飛び込んできた。
「レイトメイドは、予告されたクリスマスを前に、どうも懸賞金の根を吊り上げたらしい」
「聞いた聞いた。捕まえた奴には、更にその倍を出すらしいじゃないか」
「俺達もレイトメイドの屋敷に乗り込んでみるか? 運よくヤツを捕まえられれば豪邸を買えるほどの金が舞い込むぞ」
卑しい笑みを浮かべた男たちから視線を逸らし、ミカは遠くからでも見える、城を思わせるような大豪邸の方へと視線をやった。
街一番の金持ちであるレイトメイドが警察を動かすだけでは足らず、街中の人々を使うことにしたらしい。
事の発端は、12月に入ってすぐのことだった。
渦中の人物であるレイトメイドの所へ一通の手紙が届いたことに始まった。厳重な警備をかいくぐり、差出人のない手紙がレイトメイドの社長机の上に置かれていたのだ。
手紙にはたった一文だけ。
『クリスマスに、クウィーンローズを頂きに参ります』
このクウィーンローズというのは、レイトメイドが愛する妻へ送った世界でも最大だと言われる真紅の宝石だ。それには、「あなたを永遠に愛しています」と意味が込められた代物だ。ただの宝石ではなく愛する妻へ送ったものだったからこそ、レイトメイドの逆鱗に触れ、今回の件に至ったのだ。
そのはた迷惑なこの犯行予告を送り付けたのが、街中の話題をかっさらっている怪盗だった。悪名高い金持ちから金品財宝ばかりを狙っているから、記者たちの格好の的となり、勝手にダークヒーローへと仕立て上げられ人々の視線を集めた。そのダークヒーローの今回の犯行予告がクリスマスだったこともあり、おかげで街はお祭りのようだった。
ミカは大きな通りから細い路地へと入り、横幅の狭い階段を上がった。古い扉を開けて、軋む廊下を歩く。おんぼろアパートの一室にある自宅兼事務所である古いドアを、「ただいま」と言いながら開けると、
「ワフ!」
と、茶色い毛糸の塊のような小型犬が出迎えてくれた。部屋の中に入ると、ミカの足の周りをくるりと一周してから横を歩いてついてくる。
「ただいま、モカ!ごはん買ってきたよ。すぐに用意してあげる」
ワインレッドと言えば聞こえはいいが古びた赤いカーペットに置かれた色あせたソファセット。その後ろには大きめのパーティション。事務所と自宅を一緒にしているから、プライベートスペースを区切るための物だ。
パーティションのすぐ後ろには小さなキッチン台。そこには必要なだけのお皿とコップと小さな鍋が置いてある。
ミカはそこからモカ用の皿を用意して買ってきたばかりのドッグフードを、その器の半分ほどだけ入れた。それをすぐに足元できちんとお座りをして待っているモカの前に置いてあげる。
「お待たせ。さぁ、お食べ」
安いドッグフードを美味しそうに頬張るモカを見つめてミカは小さくため息を吐き、そして小さな頭を撫でた。
本当だったらもっと美味しい餌をたくさん食べさせてあげたい。壁に亀裂の入った、隙間風の入って来る寒い部屋ではなく、もっといい所に住まわせてあげたいと、モカの頭を撫でる度にミカは常に思っていた。
そのためには仕事が必要だった。けれどもこんな場所では、入って来る仕事もない。
事実、探偵業を営むミカの所には、仕事は一つも入っては来なかった。貯蓄が完全に無くなってしまう前に手を打たなければならなかった。
ミカは早速必要最低限の支度を始めた。豪邸に行くのだから壁に掛けられた鏡の前で、ふんわりとした柔らかな金色の髪を紳士に見えるように撫でつける。手持ちの中で一番いいシャツを着てネクタイをする。防寒のためにセーターを重ね着してコートを羽織った。
マフラーを巻いていると、いつから見守っていたのかモカの視線に気がついた。
「モカ、待ってて。もっと美味しいご飯を買ってあげるからね」
モカの小さい頭を撫でた時の温もりが無くならない内に手袋をはめて、レイトメイドの屋敷へと向かった。
大豪邸に近づくにつれ人の数が増えてくる。門の前は勿論、敷地の中までたくさんの人であふれかえっていた。
人の波を掻き分けてようやく敷地内に入ったが、これでは屋敷の中に入るどころか、宝石を身に着けているだろうレイトメイド夫人を見ることさえできない。
ミカは息苦しくなって移動を試みたが身動きが取れない。人と人に押しつぶされて息が出来なくなって気を失いそうになったとき、ぐいっと腕を引かれた。
「すみません!通して!」
抱きかかえられるようにして通りに出てきた。
「大丈夫? 深呼吸して。吸って、吐いて」
はぁ、はぁ…と深呼吸を繰り返す。
ミカはネクタイを外し襟元を寛げた。そして無意識に肌身離さず身に着けているネックレスを取り出していた。詳しくは、ネックレスのチェーンに通されていた指輪だった。
自分に自信がなくなった時も、不安や悲しみに暮れ、どんなに落ち込んで苦しい時もいつも握り締めていた。そうすれば大丈夫な気になれるのだ。
「どうもありがとうございました。もう大丈夫です」
助けてくれた彼にお礼を言うと、「良かった」と笑った。その顔に一瞬見とれてしまった。
初めて出会った男の笑顔に見惚れてしまうなんて、恥ずかしくて急いで視線を逸らす。変に思われやしなかったかと不安になったが、心配は必要なかったらしい。
「君も怪盗を捕まえに来たんだ?」
「はい」
「捕まえたらたくさん金をくれるらしいね。その金貰ったら君はどうする? 俺は家族を養いたいって思ってる」
「僕は探偵をしているんですけど閑古鳥が鳴くような状態で…一緒に暮らしている相棒に美味しいご飯と住む場所をあげたくて」
「そうか。君の相棒は幸せ者だね」
愛犬モカの喜ぶ顔がふと思い浮かんで笑顔になる。
「さっきから気になっていたんだけど、それは何? 指輪?」
「これ?」
手のひらにリングを置くと、彼は覗くようにして小さく光る赤い宝石を挟むようにして並べられたダイヤのリングを見つめてくる。
「これは大切な人から譲り受けたんだ。これは亡くなったお母さんの忘れ形見だったのに」
幼かった頃のあの時の情景を、今でも昨日のことのように思い出す。
施設で育てられたミカは、そこでカインという少年に出会った。銀色の髪をしたとても美しい少年だった。カインは施設仲間からのいじめからミカを守ってくれるからだ。だからミカも彼を兄のように慕って、いつでもどこでも一緒にいた。そしてカインへの独占欲と好きと思う気持ちが複雑に織り込まれていった。
けれども二人の別れは突然に訪れた。ミカを養子として引き取りたいと申し出てくれた夫婦が現れたのだ。
カインと離れたくなかった。別れさせようとする大人たちが悪魔に思えてきて、全てに反抗した。けれど、それらは全て無駄に終わった。
別れの日、ずっと大声を張り上げて泣いた。
そんなミカにカインは、「泣かないで」と言って、ミカの手のひらに小さなものを握らせたのだ、鼻をすすりながらも手の中の物を見ると、そこにはカインがとても大切にしていた指輪があった。それは昔、カインの父が母のために作った世界にたった一つしかない指輪だった。カインの父は仕事中に事故死し、病気に倒れた母の看病も叶わず、死に際にカインはその指輪を譲り受けたのだ。
その大切な指輪がミカの手のひらの中にあった。
「これ…」
「これは俺の代わり。どんなに離れていてもずっと傍にいるから」
大丈夫。
カインに最後に抱きしめられて、背中を押された。新しい両親の車に乗り込んでも、見えなくなるまでカインを見つめていた。見えなくなっても施設の方を見つめていたなと幼い頃を振り返っていると、目の前の彼の視線に現実に引き戻された。
「すいません。昔のこと思い出して」
彼が構わないよと首を左右に振る。
「君にとって大切な人だったんだね」
ミカは見ず知らずの初対面の男の言葉に、なぜか素直に頷いていた。
「今も変わらず……いえ、これからもずっと大切なひとです」
どんな苦難も乗り越えるときに傍にいてくれた指輪を握り締めて、思い出の中のカインの笑顔を思い浮かべていたら、
「その大切な人もきっと君のことを想っていてくれていると思うよ?」
そうだったらどんなに嬉しいか解らない。
もしかしたら結婚して幸せな家庭を築き、子供だっているかもしれない。
もう何年も昔のことだから、きっと忘れ去られているに違いないと思ったら自然に涙が込み上げてきた。
「ごめん! そんなつもりじゃ…」
「いえ! こちらこそすみませんっ」
初対面の人を前に泣くつもりなど全然なかった。恥ずかしくてすぐに涙をぬぐう。
「危ないから君はここにいた方がいいんじゃないかな」
「でもそれじゃ捕まえることなんて出来ない」
「そうだね。でも君にもしものことがあったら、残された人はきっと悲しむ」
男の言う通りだった。モカを残してなんて死ねない。出来ることなら、カインにだって会いたい。でも先立つものがなければ生きていけないのも事実だった。
「でもやっぱりお金が欲しいし……」
「だったら、中よりも外にいてチャンスを伺っていたらどうだろうか。どうせ中に入ったって、あの人だかりでは何も出来やしないんだから」
男に言いくるめられた気もしたが、またあの人ごみの中に入ったら今度こそ窒息死してしまうかもしれないと思うと身体が竦む。
「わかりました。そうします」
「その方がいい。じゃあ、お互いの健闘を祈ろう」
拳を突き合わせたあと、すり抜けていくように器用に人々の中へと姿を消した男の背中を見送ったミカは、屋敷の外周を歩くことにした。チャンスは伺うよりも掴むものだ。大きな屋敷の外壁はとても長く、しばらく歩けば人々もまばらになり警察や警備兵の存在の方が大きくなってきた。
ミカは裏手にある雑木林に目を付けた。警察たちも同じように考えているのだろう。厳重に警戒している。でもここなら姿を消しやすいかもしれないと思ったら、ミカは木の陰に身を隠すことにした。
夕焼け空に夜の帳が下りると辺りは魔物が潜んでいそうなほどに暗くなった。あるのは警察たちの明かりと屋敷から零れてくる光だけだ。
どこからか、ゴーン、ゴーンと時刻を告げる音が聞こえてきた。日が変わったのかもしれないとミカが思った瞬間だった。大きな爆発音が響き渡ると、あちこちの窓ガラスが割れて充満していた白煙が立ち上る。そこからはもうパニックに陥ったような人々の喧騒に包まれた。警察たちも応援に呼ばれて手薄になった頃、頭上でガサッと大きく気が揺れる音が聞こえた。音のする方へ振り向けば、そこに人らしき姿を見つけて息を呑んだ。
きっとこいつが怪盗だと直感が働き、警察を呼ぼうと声を張り上げようとしたら、相手に口を塞がれる方が早かった。
「しっ。また会えて良かった。これは君の大切なひとのために」
手に押し付けられたのは、レイトメイドのクウィーンローズだった。暗闇でもキラキラと眩い光を放っている。
「クウィーンローズを大切に持っていて。離れ離れになった君の大切な人はきっと必ず会いに来るから」
声を聞いたミカは、目の前の怪盗が酸欠になって倒れそうになった時に助けてくれた彼だということに気が付いて驚く。言葉も出ない程に驚いている間に、怪盗は闇に紛れていなくなっていた。
暫く呆然として動けなかった。手のひらの中のクウィーンローズをじっと見つめる。
「大切に持っていて」と頼まれたが、やはりこれは盗品だ。返さなくてはいけない。
のろのろと立ち上がるとミカは、クウィーンローズをレイトメイドに返した。話の通り多額の金を貰って帰路に付く。
夜遅くても出迎えてくれたモカを抱きしめて、隙間風に震えながら薄いシーツをかぶる。小さな温もりを抱きしめながら、今日の出来事と男の言葉を思い出していた。
大切に持っていてと言われた。でもあれは盗品なのだから返して正解だった。自分は正しいことをしたのだ。
そう自分に言い聞かせていたが、本当のところは、お金が欲しくて返してしまったのだ。
もしかして、後で取り返しに来るつもりなのだろうか。クウィーンローズがないと解ったら、怪盗に殺されたりしてしまうのだろうか。
「カイン…助けて」
「なに? ミカ。また泣いてる? 話をしてる時も目に涙ためてたよね? 泣き虫はいつまでたっても直らないんだな」
勢いよく上半身を起こして、暗闇に目を凝らす。雲が流されて月が現れると、カーテンのない窓から月明かりが差し込む。
そこには一人の男が立っていた。
「カ、イン…?」
「そうだよ。さっきぶり、だね」
いたずらっ子のような笑みを浮かべているが、その笑顔は一度だって忘れたことは無い。大人になっても笑顔は全然変わっていなかった。雑木林で出会った時は暗くて顔は解らなかったが、助けて貰った時の男は全く持って別人だった。声は同じなのに。
「え? 本当に? だって助けてくれた彼と全然顔が違う」
「あぁ、あれはマスク。変装していたからね。それよりミカ、クウィーンローズ持ってるよね。返してくれるかな」
「あっ…その、えっと……ごめんなさい。レイトメイドにあの宝石は返したんだ」
ごめんなさいともう一度謝ると、
「あれは別に構わないよ。あんな大きいだけの趣味悪い宝石じゃない。俺が君にあげた母の形見の指輪」
ミカは急いでネックレスを外して返すと、カインは満足げに微笑んだ。けれどもそのリングに宝石はついているが、レイトメイドが持っていたようなクウィーンローズはない。
「クウィーンローズじゃないんだけど、いいの?」
「この赤い宝石がクウィーンローズだよ。大きさは比較にもならないが、同じ宝石なんだ」
「そうだったんだ。知らなかった」
「この宝石の意味知っているよね」
「うん。あなたを永遠に愛しています、だろ?」
「なら話が早い。これは父さんが母さんに送ったものだから返してもらうよ。その代わりに」
カインに恭しく左手を持ち上げられた。左手薬指に違和感を覚えて見て見れば、そこには指にぴったりと合った指輪が光っていた。中心には真紅の宝石が光り輝いている。
「ずっと探してた。泣いてないかと心配でたまらなかった。もうこれからはずっと一緒だ。ミカの笑顔を守るよ」
「ずっとって?」
「永遠に」
カインの唇が降り注ぐ月光のように静かに、ミカに重ねあわされる。
「ミカ、愛してる」
僕もと言おうとしたら吐息ごと、唇をカインに愛撫されたのだ。
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