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第二十四話 氷鷹

 風獅(フォンシー)の弟で、十年近く閉関していた氷鷹(ビンイン)風明(フォンミン)山に戻って来た。この数日噂だけがひとり歩きしていたが、その姿を見るなり、皆が皆、思っていた通りの人物だったと納得する。  戻るなり門下弟たちの修練に顔を出し、時間の許す限りひとりひとりに指導をし、道士たちに対しても現状確認や不満な点はないか訊ね、共に門派の今度の成長のためにも手を取り合おうと約束した。   多くの道士や師までもが彼に自ら会いに行くのに対して、翠雪(ツェイシュエ)風獅(フォンシー)が言った通り、自分から関わることはしなかった。代わりに外の様子を事細かに(ヤン)が報告してくれたので、大体の事情は把握しており、どういう人物なのかはよく理解した。 「絵に描いたようなできたひと、ですね」 「そうなんですよ。物腰も柔らかくて、話しやすそうな雰囲気なんですけど、ちゃんと必要なことは言ってくれるというか。信頼できる大人のひとって感じでしたね。あと、これは噂なんですけど、風獅(フォンシー)様が掌門(しょうもん)の座を氷鷹(ビンイン)様に譲るとかなんとか」  え、と翠雪(ツェイシュエ)は怪訝そうに眼を細める。そんな話、聞いていない。この前会った時に言っていたのは、弟が戻ってくるという話と、できるだけ関わらないようにという注意だけだった。 「掌門(しょうもん)の座を譲って、風獅(フォンシー)様は隠居でもするつもりなのか? 現役を引退するにはまだ早いだろう」  道士としての引退はひとによって事情は違うが、長い者だと八十を超えても現役という者もいるくらいだ。  仙に近いと謳われている風獅(フォンシー)なら、逆にそれを本格的に目指すために閉関してもおかしくないが。  それに風獅(フォンシー)がもし本当に門派を離れるのなら、翠雪(ツェイシュエ)天雨(ティェンユー)もあえてここにいる必要がなくなる。  それこそ自分の両親のように、人の世を離れて研究に没頭することも考えても良いだろう。しかし、あの事件の真実を知るまではそれも叶わぬ夢だ。  夕刻。秋の深い赤に染まった空の下、それぞれの想いを馳せる。別棟の敷地内を埋め尽くしていた落ち葉を掃除していた三人の前に、ゆらりと影がひとつ増えた。 「ここが、噂の首席道士の住む別棟?」  声をかけられるまで一切誰も気付かないくらい、直前まで気配もなく急にそこに現われた人物に、(ヤン)は思わず拱手礼をして頭を下げる。 「この方が風獅(フォンシー)様の弟の、氷鷹(ビンイン)様ですよ!」  こそこそと息だけで話すように(ヤン)がふたりに肝心なことを伝える。翠雪(ツェイシュエ)は形だけ拱手礼をし、天雨(ティェンユー)もそれに続いて同じように頭を下げた。  よく見なくても風獅(フォンシー)に似ており、遠目で見るとほとんど同じ顔と言ってもよいくらいだった。違うとすれば、左の目尻の下にある小さな黒子(ほくろ)と、背が少しだけ低いというくらいだろうか。 「ああ、やっぱり君だった」  風獅(フォンシー)と同様、白い道袍に藍色の細い飾り帯をし、風を表す紋様が背に描かれた若草色の衣をその上に纏っている氷鷹(ビンイン)。  長い黒髪を低い位置で結び、銀筒状の髪飾りで纏めている風獅(フォンシー)に対して、氷鷹(ビンイン)は高い位置で括り白い髪紐で纏めていた。    腰には細い退魔剣を佩いており、他の道士たちと比べ造りも細やかで飾りも上質に見える。  氷鷹(ビンイン)はにこやかな笑みを浮かべたまま翠雪(ツェイシュエ)の前まで来ると、嬉しそうに見下ろしてきた。風獅(フォンシー)の五つ下といっても三十歳の立派な成人であるが、その笑みはどこか幼く無邪気な印象がある。  後ろにいた天雨(ティェンユー)はその笑みに対して、なにか胸の奥でざわつくモノを感じていて、しかしそれがなにかはわからなかった。 「憶えていないかな? 俺と兄さんと父上で、一度だけあの場所を訪ねたことがあるんだよ。あんなことになって残念だったけど、君たち(・・・)を保護したっていうのはあの後兄さんに聞いて知っていたから。今日一日いつ逢えるのかと楽しみにしていたんだけど、全然見つからなくて」  翠雪(ツェイシュエ)の手から箒を自然に奪い、ぽいっと無造作に投げ捨てると、空いた手を取って両手で包むように触れてきた。慈愛に満ちた笑みはどこまでも空虚に思え、翠雪(ツェイシュエ)は少なからず警戒してしまう。 「俺も力になってあげたかったけど、父上があんなことになって俺なりに考えた末、閉関することにしたんだ。将来的に兄さんの力になるためにね」  訊いていもいないことを勝手に話してくる氷鷹(ビンイン)は、まるで久々に逢えた友人とでも話すように嬉しそうに言葉を重ね続ける。 「君たち(・・・)のご両親が亡くなってしまったあの事件。色々と話は聞いたよ。君たち(・・・)が生きていてくれたことが、せめてもの救いだったといえよう」  何度も何度も。  翠雪(ツェイシュエ)とその後ろにいる天雨(ティェンユー)に向かってかけられる言葉。君たち、と。そこで天雨(ティェンユー)は確信し、翠雪(ツェイシュエ)は指先が一層冷たくなった気がした。  どんな意図を込めて目の前の者は言葉を紡いでいるのか。あの時の記憶は、翠雪(ツェイシュエ)にとって未だに曖昧なままで、けれども大事なことだけははっきりとしていた。あの時、暗い部屋の中で、ひとりではなかったこと。そばにいてくれたのは、間違いなく天雨(ティェンユー)であったこと。  あの時の母の言葉。 『私の可愛い翠雪(ツェイシュエ)をお願いね?』  宝具である大扇を託された時。書き換えられた記憶の中では、まるでその大扇に母が翠雪(ツェイシュエ)のことを頼むと言っているようにとれた、あの言葉。  あれは、横にいた天雨(ティェンユー)に託した言葉だったことを知った。  そして、駆け付けてくれたひとたち。それこそが天雨(ティェンユー)の両親で、あの日、とある依頼を受けて三人は夜明け前に下山していたはずだった。  あの場所には翠雪(ツェイシュエ)と両親だけがおり、いつものように朝餉を食べ、各々の研究をしながらのんびりとした時間を過ごすはずだった。  そんな中、突然の襲撃。黒い衣を纏った者たちが結界を破壊して、強行突破してきたのだ。幼い翠雪(ツェイシュエ)はそれに対して強い不安を覚え、それを感じ取った紅蝶が遠く離れた場所にいた天雨(ティェンユー)に知らせたのだろう。  父、蒼迦(ツァンジャ)が強襲を仕掛けてきたのが魔族であるとすぐさま判断し、陣を敷いて数人を巻き込み倒すと、翠霧(ツェイウー)翠雪(ツェイシュエ)を安全な場所へ隠すように指示した。しかし逃げようとしていた時、路を塞ぐように同じく黒い衣を纏った者たちが数人立ち塞がった。  深く被った黒い衣から覗く口元が、にやりと嫌な笑みを浮かべたのを憶えている。翠霧(ツェイウー)が符を袖から素早く出し、その者たちに向かって投げる仕草をしたが、その表情が曇る。 「····そんな、嘘でしょう? どうしてあなたが?」  翠雪(ツェイシュエ)は自分の手を握りしめていた母の指先が、微かに震えているのを感じて思わず見上げる。しかし、どうやってもその顔は黒い靄のせいで思い出せない。  そこに駆け付けてくれたのが、天雨(ティェンユー)の両親である天藍(ティェンラン)芽紗(ヤーシャ)だった。 横には天雨(ティェンユー)もおり、すぐに自分の傍に来てくれた。 「ここは俺たちが引き受ける。翠霧(ツェイウー)殿はふたりを安全な場所へ」 「天雨(ティェンユー)を頼みます」  ふたりは湾曲した刀剣を手に、黒い衣の賊たちに向かって行った。翠霧(ツェイウー)翠雪(ツェイシュエ)天雨(ティェンユー)を連れて、あの書庫の奥にある秘密の部屋へと隠すと、別れの言葉を告げ、扉に封印を施した。  その直前に、翠雪(ツェイシュエ)は紅蝶に母の後を追うように願い、紅蝶は扉が閉まる前に隙間からひらりと抜け出て、眼となってふたりに外の状況を教えてくれていた。  その後のことは、はっきりとは思い出せない。  一度開かれた扉の先に、緑葉(リュイェ)と別の誰かがいて、なにか会話をした後にふたりは姿を消した。その後緑葉(リュイェ)がひとり香炉を手に戻って来て、甘い香りが立ち込める中、意識が途切れた。  それからどのくらい経ったか。  数日経った頃、再び扉が開かれる。そこに現われたのが、風獅(フォンシー)だった。 「大丈夫? なにか思い出せた?」  は、と翠雪(ツェイシュエ)は近付いてきた顔に目を瞠る。  書き換えられた記憶。大事な所を切り取るように、繋ぎ合わせるように創られた記憶。魔界で砕け散った紅蝶が最期に教えてくれた記憶の欠片。  真実にはまだ遠い。  それでも、大切なことは思い出せた。 「····あなたのことは、憶えていません。風獅(フォンシー)様も助けてくれた時に同じようなことを言っていましたが、本当に憶えていないんです」  これは本当のことで、あの時も全く記憶になかった。あの絡んできた道士たちのように、その時の自分には興味がなかったのだろう。  なにか印象深いことがあれば憶えていたのかもしれない。きっかけがあれば思い出せるかもしれないが、風獅(フォンシー)とあんな関係になった後も思い出すことはなかった。 「ゆっくりでいいよ。俺のこと、思い出してくれたら嬉しいな」  意味深な言葉を残し、氷鷹(ビンイン)は「またね」と言って翠雪(ツェイシュエ)の手を放すと、自分が(ほう)った箒を拾い上げて代わりに握らせた。  翠雪(ツェイシュエ)はその後ろ姿が見えなくなるまで警戒心を解くことができず、天雨(ティェンユー)はじっとそんな翠雪(ツェイシュエ)を見つめていた。  (ヤン)氷鷹(ビンイン)がふたりにとってなにか悪いことを齎すような嫌な予感を覚え、浮かれていた自身を引き締める。この平穏な日常が終わってしまいそうな、そんな不安感が胸の奥で警鐘を鳴らし、ひとり表情を曇らせるのだった。

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