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第2話 無自覚なご主人様②

 黒部が屋敷の敷地を出る。茜色から夜の帳が落ちようとする空は厚い雲に覆われて、夕凪の冷たい風が短く刈り込まれた頭髪を薙いだ。  年齢は40になったばかりだが、人生の風雪に耐えた深い皺が刻まれた厳つい顔は、実年齢よりもずっと老けて見える。 「お疲れさんです」  黒塗りのセダンで待機していた舎弟が、十分に熱を含んだアイコスを渡してくる。それを受け取って口に咥えた。後部座席に乗り込むと、疲れが体をどっと重たくした。 「店は?」 「すでに昨日の売上金の回収と、巡回点検は終わっております。二、三トラブルはありましたが解決済みです。詳細は明日」 「ん、ありがとう。じゃあ染谷のところに送ってくれ。そのまま帰っていい」 「お迎えは?」 「いい。泊る。もう疲れた。明日の朝、7時に迎えに来てくれ」  黒部は時計を確認する。あと5分で動画配信が始まるところだった。  長引かなくてよかった。  黒部はほっとする。いつも営業会議は組長の気分で無駄に長引いたりする。ところが、本家の伝令が何かを伝えた後、すぐに解散となった。後で他の若頭補佐連中に聞いたところ、今日姿の見えない組長の一人が今朝がた仏になっていたらしい。そのニュース速報が昼過ぎに入り、本家の留守番に警察からの呼び出しがかかったとのことだった。  ラーメン屋一本で堅気になりたい。そう言っていた男だった。 「ああ、もうあのチャーシューは味わえねえんだな」  ぼやいて黒部は車内にある手元ボタンを操作する。セダンの真ん中で防弾板の黒い仕切り板が自動的にせり上がってきた。完全とは言えないが防音効果も高い。  黒部はごそごそと胸元を探る。出てきたのはスマートフォンだ。慣れた様子で操作して、いつもの配信サイトを開く。 「みんな~こんばんわ~」  画面に映っているのはケモミミ、眼鏡、巨乳の3Dアバターの女の子。少し鼻にかかったような高めのアニメ声が可愛らしい。  鳥籠(とりかご)ユメミ。雑談系動画配信者。  ただ雑談とは銘打つものの、その見識は広く、物の見方は独特で、きちんと的を得ている。うっすら業界の愚痴を振っても全く物怖じすることもなく、むしろ理解と共感を示したうえで話に乗ってきてくれる。  店の女の子と話すと必ず金や特権的な扱いを狙う下心が見え隠れするせいで、この年まで心から異性との会話を楽しむなんてことができなかった。  ユメミは違う。  顔も素性もお互いに知らずにいられる関係だからこそ、純粋にコミュニケーションだけを楽しんでいられる。その関係が心地よかった。 「こんばんわ!」  「おとうふさん」の名前で5000円を投げる。アバターのユメミが本当に嬉しそうな顔で微笑み、リアクションをしてくれた。 「わー。こんばんわ、おとうふさん。今夜は仕事で参加できないって言ってたのに。嬉しい」 「だるい会議がサクッと終わったからね」 「よかったぁ。久しぶりに一人漫談しなきゃならないかと思って不安だったんですよね。よろしくお願いします」  さらに5000円を投げる。黒部とユメミの関係にちょっかいをかけてくる他のリスナーが8000円を投げたので、1万円をぶっこんで牽制する。  金という武器を使って、ユメミ争奪戦を繰り広げるのも楽しい。こっちには弾丸などいくらでもある。ステゴロのプロだ。負ける気は一切しない。  そうして今夜も黒部はマネーウォーでストレスを発散するのだった。

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