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一話 交わらない存在

どれだけ歩いたら、その先へとたどり着けるだろうか。 「すみません」  モダンなインテリアと、名のあるアーティストが飾ったらしい前衛的なフラワーアレンジメント。真新しい店の雰囲気に気圧されながら、扉をくぐった。  すぐに店員が気がついて、俺のくたびれたスニーカーを見て、一瞬顔を歪める。だがすぐに、手に持っていた小さな荷物に気づいて、「ああ」と溜め息を吐き出す。 「ごめんなさい。業者の方は後ろから入って貰えます?」 「ああ、すみません。ここ初めてで」  帽子を目深に被って、大人しく指示に従って店の裏手に回る。背中に、店員の「ちょっとここ、モップで拭いておいて」という声が突き刺さった。 (一応、綺麗にしてるんだけどな……)  足元を見て、溜め息を吐く。靴底がすり減り、ビニール製の表面は擦りきれて細かいキズだらけ。おんぼろだが、見た目の清潔さにだけは気を付けているつもりだ。  だけど、高級な店にはやっぱり、相応しくないんだろう。引っ越し担当の先輩は、お客様の家に上がるときは真新しい靴で、靴下は一日に何回も履き替えているという。就活中の生徒にむけた説明会では、足元からチェックされるなんて話も聞く。  そんなことは分かっているけれど、金がない。新しい靴を買うなら、一回でも多く肉を食いたい。  俺の靴は、ボロボロで。実を言うと靴底が剥がれたのを接着剤でくっつけているし、なんなら少しサイズが合わない。それを知っていて、もう随分長いあいだ新しい靴を買っていないのは、そんなものを買うよりも一回でも多く飯を買いたいからだ。 (今日はレストランのバイトも入ってたよな)  深夜から早朝は、配達の仕事。それが終わったら大学に行って、大学が終わったらコンビニでまたバイト。夜にはレストランで働く。一日の睡眠時間は一時間か二時間。働いた金の殆どは公共料金と家賃に消えて、楽しみと言えば月に一回だけ許している牛丼だけ。  どれくらい寝なければ人が死ぬのか、どれくらい働けば人が死ぬのか、正直分からないが、今のところギリギリ生きている。  それが、俺、|神足縁《こうたりよすが》の人生だと思っているし。  それがずっと、続いていくのだと。  この時は、そう思っていた。    ◆   ◆   ◆  オフィス街を抜けて路地裏にある雑居ビル。そのビルの一階にあるイタリアンレストラン『セレンディピア』が、俺が働いているレストランだ。ワインバーも併設されており、利用客は食事というよりも飲みで使っている人が多い。深夜営業をしているこの『セレンディピア』では、閉店時間は二十三時。金曜と土曜は三時まで営業をしている。  モダンでオシャレ。洗練されたスタイルの店は、俺みたいな貧乏人には似合わないのだが――運よく、働くことが出来ている。この店は時給も高いし、時々オーナーでもあるシェフが、新メニューの試作品だと言って料理を作ってくれるのも、ありがたい。 (今日は人が多いな)  金曜の夜は、飲みの客が多く、ワインがよく出る。デートや合コンで使う人も多く、店内は賑わっていた。こういう日は、酔客も多いので注意が必要だ。客同士のトラブルもあるし、グラスを割るとか、そういうトラブルも案外ある。  テーブルを片付け、床の汚れまでチェックし終わったところで、不意に扉の方に人の気配を感じて視線を向けた。ラストオーダーも近い時間だというのに、ふらりとやって来た客。大抵はカップルかグループの来客が多い店で、その男は一人で来店した。 「いらっしゃいませ」 「こんばんは。――斎藤シェフ、居るかな」 「シェフですか? 居ると思いますが……」  オーナーの知り合いだろうか。俺は目を瞬かせ、男性をカウンター席へと通す。まだ二十代半ばから後半といったところだろう。仕立ての良いスーツに、磨かれた革靴。俺は詳しくないが、きっと時計も高いのだろう。  男に「少々お待ちください」と断りを入れ、キッチンに向かう。斎藤さんはまだ忙しそうにしていた。 「オーナー。お客さんが来てますが」 「え? 客?」  斎藤さんは手を止め、ひょこりとカウンター席の方を見る。その表情が、パッと明るくなった。 「|雨下《うか》! なんだお前、帰ってたのか」 「さっきね。空港から真っ直ぐこっちに来た。もう終わりか?」 「いや、親友の為だ。何か作るよ。神足くん。彼にワイン出してくれる? 赤で」 「はい、分かりました」 (オーナーの、お友達……か)  雨下と呼ばれた男は、どうやら斎藤さんの友人らしい。オーナーの方が、少し年上だろうか。どういう友人関係なのか、ちょっと不思議な気持ちになる。 「お待たせしました」  俺は赤のグラスワインを、雨下の目の前に差し出した。雨下は人懐こい笑みを浮かべて「ありがとう」とグラスに口をつける。 「良いハウスワインだ。|斎藤《アイツ》のチョイス?」 「すみません。分かりません……。バイトなんで……」  バイトだから。なんて言葉が言い訳なのは分かっていたが、ついそう言ってしまった。相手は斎藤さんの友人なのだし、恐らく本気で俺に聞きたかったわけじゃないだろう。多分、連れがいないから、俺に話しかけただけだ。その証拠に、すぐに別の話題を振ってくる。 「そうか。バイトは、長いの?」 「大学に入ってからなんで、三ヶ月くらいですね」 「そうなのか。それにしては、慣れてる感じだ」 「自分、結構シフト入ってるんで」 「なるほど」  他愛ない話をしながら、グラスを拭く。新しく入って来る客はおらず、出ていくばかりだ。おかげで、世間話をしていても許される雰囲気になっている。  雨下はもう、俺の方を見ていなかった。グラスに口をつける姿が、一枚の絵画のようだった。 (……清掃、始めちゃうか)  奥の席はもう人が捌けている。早めに清掃を始めてしまおうと、バックヤードにモップを取りに向かう。途中、薄く切ったバゲットにリエットを載せたものと、オリーブのマリネを手にした斎藤さんとすれ違う。思わず、目で追った。 「またアメリカに戻るのか?」 「いや、向こうの仕事はひと段落したんだ。当分は日本じゃないかな」  その会話を背にして、俺はロッカーからモップを取り出した。  雨下という男は、多分、別の世界の人間だ。俺とは違う匂いがする。こうやって、同じ空間に居ても、決して同じように並ぶことはない。ヒエラルキーの上に居る人間と、底辺の人間。  どうあがいても、交わらない。 (アメリカか……)  行ってみたいと思ったことはなかったけれど。  生涯行くことはないのだろうな、とは、容易に想像できた。

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