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第二話 卒業

「親父が親戚の家行ってて、夜まで帰ってこないんだよね」    そう切り出したのは、七瀬と初詣へ出かけた帰り道。受験を目前に控えて、最後の神頼みというわけだ。  例年通り、近所の神社へ。綺麗目の五円玉を賽銭箱に投げ入れて、柏手を打つ。七瀬は何を祈っただろう。凛と張り詰めた冬の空気に、白い頬が一層白く透けて見えた。横目に盗み見てみても、七瀬が何を願ったのか、瞬介には分からなかった。  干支の動物が描かれた絵馬に願い事を書いた。自分のことさえ、何を祈ればいいか分からなくて、ペンが止まる。七瀬はさらさらと願いをしたためて、奉納所へ結びにいった。  ずっと一緒にいたい、なんて、そんなことを書く度胸もない。ここは無難に、合格でも祈願しておこう。七瀬もきっとそう書いたはずだ。お参りの際に何を真剣に祈っていたかといえば、それもやはり受験のことだろう。普通に考えれば、それ以外の願いなんてないはずだ。  ようやく願い事を書き終えて、奉納所に絵馬を結ぶ。寒空の下で待っていた、七瀬の頬も鼻先も、椿の花みたいに赤くなっていた。冷えた両手を擦り合わせて揉みながら、優しく息を吹きかけている。   「おせぇ」 「悪かったって」 「なにをそんなに悩んでたんだよ」 「べっつにぃ? 字ィ思い出すのに時間かかっただけ」 「そんなんで大丈夫かよ」    社務所の前で、甘酒が振舞われていた。大きな鍋でコトコト煮込んだ甘酒を、紙コップに注いでもらって、境内の隅でちまちま飲んだ。   「あめぇな」 「そりゃ甘酒だもん」 「それに、あったけぇ」 「……だな」    飲み口に触れる、七瀬の唇。同じものに触れている。自然な甘み。優しい甘み。胸を蕩かす温かさ。指先までが、じんと痺れる。白い息が、白い湯気と絡んで解けて、散乱する光の中に溶けていく。   「親父が親戚の家行ってて、夜まで帰ってこないんだよね」    そう瞬介が切り出すと、七瀬は見透かしたような目をして笑った。   「もっとストレートな言い方はできねぇのかよ」 「だからぁ、思う存分ヤリまくろーぜっつってんの」 「それはストレートすぎんだろ」    そう言って笑った。七瀬の息が、まるで雪の結晶のように、微かな光を帯びていた。希薄で脆い、痛いくらいに透き通った日差しの中で、キラキラと儚く煌めいていた。  七瀬を家に呼ぶのは久しぶりだ。時期が時期であるし、親の目もある。「仲がいいのは結構だけれど、受験勉強の邪魔にだけはならないようにしなさいね」などと、温厚な父に諭されてしまっては、ますます慎重になるというものだ。  七瀬の家へ行くこともあったが、そちらでは基本的にお触り厳禁であり、ただ勉強をするだけという流れになる。かつては七瀬の部屋でも行為に及ぶことはあったが、以前、出かけていたはずの祖母が知らない間に帰ってきており、行為を終えてからそのことに気づいたという経緯があり──幸い、行為については祖母にはバレなかったが──それ以来、七瀬の部屋での行為は禁止になった。  瞬介とて、何度か接触を試したことはある。けれども、一度決めたことに関して、七瀬はかなり頑固なのだ。無理に襲いかかろうものなら、拳が飛んでくるのはもちろん、時には蹴りまで入れられるので、この決定には従う他ない。    似た話はもう一つある。吉川が引退した後の、とある放課後のことだ。訪れる者は滅多にいない、二人きりの地学教室で、一度だけ行為に及んだことがある。あれはなかなかに燃えた。人が寄り付かないとはいえ、可能性はゼロではない。いつ誰に見られるかも分からない。今も誰かが廊下を歩いているかもしれない。そんなスリルに、ひどく昂った。  七瀬だって、そんなスリルに感じていたはずだ。頑丈な理科の作業台に手をついて、後ろから突かれながら、膝をガクガク震わせていた。最終的にはテーブルに乗り上げてしまって、正常位で深く交わった。けれども、終わった後にたった一言、「学校では二度としねぇ」と言われてしまった。  気が散るだとか、集中できないだとか、一つ二つ理由を添えて、疲れたからと眠ってしまった。それ以来、学校ではしていない。そういった雰囲気に持っていこうとすれば、お約束通り、拳だの蹴りだのが飛んでくる。こうと決めたことに関して、七瀬はとにかく頑なだった。  しかし、だからこそ、七瀬が瞬介の部屋を訪れる時というのは、何をされてもいいという意思表示なのだ。瞬介はそう解釈しているし、今までだってそうだった。この部屋を訪れる時、七瀬は瞬介を拒まない。たとえ、二週間後に試験を控えた、こんな時期であってもだ。   「相変わらず取っ散らかってんな」    マフラーを解き、コートを脱ぐ。勉強机の上は、参考書だの問題集だのが積まれたままで置いてある。本棚には、教科書やノートが雑然と並び──その棚の一番端、ひっそりと収められた小さな本に、七瀬は手を伸ばした。   「んなのいいから、早くしようぜ」    七瀬の背中に、瞬介は抱きつく。本棚に伸ばしかけた手を奪い取って、指を絡める。七瀬の手は、まだ冷たい。   「情緒ってもんがねぇのかよ、てめぇは」 「知らねぇ、んなもん。俺らにゃ必要ねぇだろ」 「そうかもな」    七瀬を抱きしめたまま、ごろんとベッドへ横たわった。首筋に唇を触れさせながら、性急にベルトを外して、下着の中へ手を突っ込む。瞬介の手も、まだ冷たい。七瀬はびくりと背中を震わせた。   「ばか、冷てぇ」 「いいじゃねぇかよ。すぐあったかくなるんだから」    寒さのせいか、本能が呼び起こされたのか、みるみるうちに張り詰めていく、七瀬の中心。軽く握って、上下に扱いた。粘りのある透明な液体が滲み出てくる。それを掌に纏わせて、敏感な先端に塗り付けながら、リズムよく扱いた。   「やめ、もう、いっちまうから……!」 「気持ちい? 俺の手」 「ったりまえのこと、聞いてんじゃ……っ、ンも、ほんとにいく、イクって、瞬介……ッ!」    張り詰めた性器が弾けて、温かな液体が右手を濡らした。瞬介の腕の中で、七瀬は全身を波打たせる。丸みを帯びた尻が、股間に押し付けられる。まるで誘うように揺れているそこに、瞬介は素早く自身をねじ込んだ。   「あ゛ぅッ────」    柔らかくなった性器から、半透明の液体がとろとろと零れた。ナカが小刻みに引き攣れている。熱を持った耳たぶに齧り付き、瞬介は息を吹き込んだ。   「入れただけでイッたの? 俺のチンポ、そんなに気持ちい?」 「ッ、しらねぇ……」 「強がんなよ。感じてるくせに」    緩く腰を引き、奥へ押し込む。抜いては挿し、抜いては挿し、何度も何度も繰り返す。何度も何度も、繰り返してきた。  とん、と奥を突いてやる。その衝撃で揺れる体を抱きしめる。さらに奥まで入りたくて、ぐりぐりと腰を押し付ける。  七瀬の手が、瞬介の手に重なった。指が絡んで、導かれたのは、七瀬の唇。柔らかな唇に、指先が重なる。ちゅう、と甘くキスされて、甘く歯を立てられた。   「ッ、く……!」    指を噛まれて、達してしまった。七瀬の首筋に噛み付いて、痕を残して、そうしながら、最奥に熱を放った。ぐりぐりと奥を捏ね回し、精を擦り付け、そうするうちに、あっという間に性器は硬度を取り戻す。  服を脱ぎ捨て、姿勢を変える。七瀬を仰向けに引っくり返して、上から覆い被さった。既に二度もイかされた七瀬はくったりとして、されるがまま。瞬介の影が、七瀬に重なる。   「あっ、アぁ……っ」    小さな蕾を広げられ、熱杭をねじ込まれる。そんな感覚に、七瀬は喘ぎを漏らして身を捩る。ほんの半時ほど前には、寒空の下で凍えていたのに、苦しげに寄せられた眉の上に汗を滲ませ、白い肌を火照らせている。   「なぁ、気持ちい? よな? 俺の……」    必死に縋り付くように、そんな言葉を繰り返す。七瀬の手がそっと伸びてきて、頬に触れた。熱く火照った掌が、熱く火照った頬を包む。そっと引き寄せられて、瞬介は体を倒す。   「な、なせ……」    切れ切れに喘ぐ、赤い唇。何か言いたげに、微かに開いた。真っ赤に濡れた舌が、奥の暗がりに覗いている。吸い寄せられるように、瞬介は顔を近づけて……そして、七瀬の首筋に噛み付いた。  歯を立てて、じわりと滲んだ血を舐める。組み敷いた体がびくりと震える。応えるように蜜壺が疼き、濡れた襞が絡み付く。   「しゅッ、ンン……しゅんすけ、おれもう……っっ」 「俺もイク、から……一緒にイッて、七瀬」    七瀬の手が、背中に回る。抱きしめられる。夢中で快楽を追いかけて、ガツガツ腰を振りたくる。背中に爪を立てられる。ガリガリと引っ掻かれる。その微かな痛みにも感じて、絶頂した。  抱きしめた体が痙攣している。胎内が痙攣している。たっぷりと吐き出した精を吸い上げられる。余韻を味わうように腰を動かせば、七瀬が甘い喘ぎを漏らす。   「は、あ……はあ、っ……」    体を離せば、七瀬の舌に唾液が引いた。鈍く煌めく銀の糸がどこに繋がっているかといえば、瞬介の肩口だ。いつの間に噛み付かれていたのか、赤い歯型と血の痕が残っていた。  一度達したそれを抜き去らないで、七瀬のナカをゆるゆると往復した。絶頂の余韻に打ち震える柔肉に優しく食まれて、そこはすぐに復活する。硬くなった杭を最奥まで打ち込まれ、七瀬は大きく目を剥いた。   「やッ、あ゛、今イッ……!!」 「いいじゃん。何回でもイけよ」 「むりっ、も……イッたばっか、で──ッッ!!」    敏感だからダメだと言いたかったのだろうが、そんなことを訴える余裕も与えられないまま、七瀬は大きく腰を跳ねた。性器は何も零していないが、ナカの様子と、七瀬の表情で、イッたのだと分かった。   「やめ、やっ、いまイ……イった、いったからッ──!!」 「うん。ごめん」 「や゛ァッ、め゛、とまッ、れ……はなせ、って────!!」    何を言われたって、瞬介は止まらない。止まれなかった。びくびくと体を震わせながら、せめてもの抵抗を見せる七瀬の両腕を絡め取り、腰を抱いて引き寄せて、挿入を深くする。背中を踵で蹴られながら、どんどん律動を早めていく。   「イ゛っ、もッ、やだっ、やだァッ!!」    髪を振り乱して悶える。透き通った汗が散る。白い肌が汗ばんで、まるで血潮が透けて見えるように、仄かな赤に染まっている。弓なりに反った薄い胸の先端で、小さな突起が震えている。それを口に含み、舐りながら歯を立てると、七瀬はもう何度目か分からない絶頂に至った。   「あ゛、ア゛ぅ……ッ」    奥を捏ねて精を擦り付け、そしてまた、大きく腰を引き、最奥まで突き入れた。衝撃に身悶え、弱々しく首を振る七瀬の両足を掴んで抱えて、上から押し潰すようにしながら、角度をつけて挿入を深める。   「や゛ッ、んう゛……くるし、しゅんすけ、ッ……!」    黒々とした睫毛が露を帯び、小刻みに震えている。澄んだ泉のような黒い瞳いっぱいに、瞬介の影が揺れている。その姿は、まるで獣。あるいは、それ以下だ。何かを訴えるような七瀬の眼差しに気づかないふりをして、瞬介は腰を打ち付ける。  警報のように、ベッドが軋み、悲鳴を上げる。犯した穴の奥で体液が混ざり合い、粘着いた水音を絶え間なく響かせる。耳を塞ぎたくなるようなその音を、七瀬に聞いていてほしかった。   「いぐっ、う゛、またイク、いくッッ──!!」    つんと澄ました小綺麗な顔をだらしなく歪め、汗と涙でどろどろに汚して快楽に溺れる。そんな姿を見せられてしまうと、もっともっとと欲しくなる。欲望のたがが外れる。   「ひッ、や゛、なんかくる、きちまう、しゅんすけェ……!」 「いいから、もう何でも出せよ」 「やッやッ……ああくるッ、きちまうッ、やだやだやだッ、なんかでる、でるぅ゛っ──んンンン゛────ッッ!!」    のた打ち回って暴れる肢体を押さえ込んだ。ビクッ、ビクンッ、と激しく腰が痙攣したかと思えば、プシュッ、と何かが弾けて飛び散った。   「や゛っ、あ゛、やァ……っ」    漏らしたとでも思ったのだろう。あまりの羞恥に、七瀬は両手で顔を隠す。そうしている間にも、どろどろに蕩けた性器は、甘く淫らな蜜を散らす。ぴゅっ、ぴゅるッ、と律動を受け止めながら弾けている。  潮を噴くほどの絶頂。七瀬がここまで乱れるのは初めてで、瞬介がここまで責め立てるのも初めてだった。初めてもたらされた感覚に、七瀬はもう、全身の血を沸騰させて、頭の先から爪の先まで真っ赤に染めて、息をするのも苦しそうに、ぜえぜえと胸を喘がせている。  滑らかな白い肌、艶のある黒い髪までもが、諸々の体液にまみれて酷い有様だ。互いの汗、七瀬の涙、我慢汁に、白濁液、それから、辺り一面に飛び散った潮。肌の上でぐちゃぐちゃに混ざり合い、どろどろに蕩けている。  一度、自身を引き抜いた。ナカで何回出したのだろう。ヒクヒクと小刻みな痙攣を繰り返す穴の奥から、こぷりと音を立て、白濁し泡立った粘液が溢れ出てくる。七瀬の太腿を伝い落ち、布団に滲みた。  指一本動かせないという風に、シーツに沈んでぐったりと動かない七瀬の、まだ微かに震える腰を両手で掴んだ。瞬介の手が触れた、たったそれだけの刺激にも、快楽に呑まれた体は敏感に反応する。   「やめっ、もう……もうや、むりッ……」 「うん……ごめん」 「やッ、う゛う……だめっ、ダメぇ……っ」    力なくシーツの海を掻く七瀬を、うつ伏せにして押さえ込む。汗と体液とにまみれた丸い尻を鷲掴みにし、白濁を零す尻のあわいに指をねじ込んで押し広げ、ずぶずぶと自身を沈めていく。ぐっしょりと潤んだ肉襞が、七瀬が悲鳴を上げる度に引き攣れて、媚びるように絡み付く。誘われるまま、奥へと入る。   「しゅッ、も……こわれ、ちまう……っ」 「いいじゃん。壊れれば」    何度も何度も、乱暴に突き入れた。七瀬は枕を抱きしめて、縋り付くように顔を埋める。濡れた黒髪を振り乱し、腰を震わせ、身を捩じらせる。踊るように揺れて見える、美しい背中。ぼたぼたと滴るのは、瞬介の汗だ。舌を這わせ、舐め取ると、そんな僅かな刺激にも感じた。びくびくと引き攣れる肩甲骨に歯を立てる。   「やァ゛ッ、もっ、おかしく、なッ……いかれちまう……ッッ!」    壊れてくれ。いっそのこと、おかしくなってくれ。イキ狂って、この腕の中で死んでくれ。今この瞬間に、全てが終わってくれたなら。けれど、そんな本心を口にすることはできなかった。ただ体温を交換し、体液を混ぜ合い、そうすることでしか、繋がる術が分からなかった。   「あァも、イク、いぐッ、しゅんすけェ、いくッッ──!!」 「っ……!」    掠れた声で訴える七瀬をきつく抱きしめる。瞬介ももう、限界が近かった。汗の味がする首筋に噛み付けば、最奥に熱が迸った。このまま、頸動脈を噛み千切ってしまえたら。そんなことを思いながら、歯型と鬱血痕を残した。  激しく肩を上下させながら、不規則に痙攣を繰り返す。七瀬の体を、再び仰向けに転がした。自力では閉じることができなくなっている足を大きく開かせる。濡れた睫毛を震わせて、七瀬は小さく首を振る。瞬介とて、限界はとうに超えているのだ。指先が痺れて、感覚がない。それでも、今日だけは、まだ繋がっていたかった。   「ぁ゛、ア゛、ああ゛っっ……」    かぶりを振り、顔を覆って身悶える。濡れた唇は、もはや嬌声を発するためだけの器官と成り果てた。けれども時折、甘く掠れた声で、瞬介の名を呼ぶのだ。  その声が、本当には何を訴えていたのか。真っ赤に濡れた唇が、奥に覗く赤い舌が、本当は何を伝えていたのか。過ぎた快楽に苛まれ、恍惚と陶酔の泥濘に溺れた、あの真っ黒な瞳が、瞬介に揺さぶられながら、瞬介の影を健気に映す、微かに開かれたあの瞳が、本当は何を言いたかったのか。  本当は全部分かっていた。分かっていて、気づかないふりをした。目を塞いで、耳を塞いで、そうして、本当に大切なことを見落とし続けた。もう何度も、ずっとずっと前から、同じことを繰り返している。  ただ、冬の寒さに当てられただけなのだ。人肌が恋しかった。若い熱を持て余していた。隣には、幼馴染のあいつがいた。ただ、それだけだったのだ。そういう風に、自分の中で結論付けた。  大切な幼馴染の体を暴き、貪り、犯し尽くした。ただそれだけだ。精も根も尽き果てて、もう出るものも出ない。体の水分はすっからかんだ。ぐったりとして横たわる七瀬の隣に、瞬介も身を横たえた。   「気持ちよかった、だろ? 俺の……俺が……」    七瀬の額にそっと触れ、汗に張り付いた前髪を撫でた。黒い睫毛を震わせて、ふうふうと浅い息をしていた七瀬は、ゆるりと瞼を持ち上げて、覗いた瞳に瞬介を映す。生理的な涙に濡れて、瞼は仄かに赤らんでいた。  唇がゆるりと開く。けれども、限界を超えて喘がされた喉は、掠れた咳をしただけだった。七瀬は、悔しそうにむっとむくれて、瞬介の顔に手を押し当てた。それは、確かに怒っている風ではあったけれども、本気で瞬介を突き飛ばそうというのでもない。幼子の戯れのような、他愛もない触れ方だった。  それから、少し眠った。瞬介は七瀬を抱きしめて眠り、七瀬は瞬介に抱かれて眠った。やがて、窓の向こうが暗くなり、長い長い夜が来る。   「親父さん、そろそろ帰ってくんだろ」    七瀬が帰り支度を始めた。   「あんまり遅いと、ばあちゃんも心配するし」    あっという間に服を着て、コートを羽織り、袖を通す。瞬介はベッドに腰掛けて、ぼんやりとそれを眺めていた。   「……もう、さ。こんなのはもう、終わりにするから」    ぽつりと、瞬介は呟いた。「は?」と七瀬は怪訝な顔で振り向く。   「だってさ、こんなのはただの遊びだろ? 初めから、そうだっただろ? 彼女できた時にヘマしねぇようにって、いざって時のための練習だって、俺もお前も、ずっとそのつもりでいたわけじゃん。もうさ、三か月後には、俺らも大学生だぜ? お前なんて、遠くの大学行くわけだろ? いつまでも、男同士で乳繰り合ってたって、どうしようもねぇじゃん。大学で彼女見つけて、いつかは結婚とか、子供できたりさ、するわけじゃん」    ずっと、考えていたことだった。今日、言うつもりだった。だから、七瀬を家に呼んだ。親の不在は好都合だった。決意は揺らぐことなく、醜い言葉が淀みなく流れた。   「だから、こんな遊びはもう、」    卒業しねぇと。そう言ったか言わないかのうちに、固くて尖ったものが、顔面を直撃した。額に触れれば、血が出ていた。いつか見た夕日を思い出した。あの夏、七瀬が流した血と同じ、鮮やかな赤だった。   「てめぇは…………」    七瀬が唇を震わせる。続く言葉を知ることはできなかった。噛みしめた唇に血が滲む。  黒く大きな双眸が、海の底に沈んでいた。みるみるうちに潮が差し、それでも決して決壊させまいとして、瞼を震わせていたけれど、それでもとうとう最後の堰が切れ、大粒の涙がぼろりと零れた。  その瞬間、腹の底が冷たくなった。酷く恐ろしいことを、取り返しのつかないことをしてしまったように思え、自分で自分が怖くなった。  三年前の夏の終わり。大きな挫折と深い傷を抱え、一人で涙を流していた。あの日の姿が重なった。  七瀬の涙を見るのなんて、あの日以来のことだった。他でもない、瞬介のせいだ。大切な幼馴染の体を暴き、貪り、犯し尽くして、最後には涙を流させた。他でもない、瞬介のせいだ。  それ以上の涙は見せず、七瀬は部屋を飛び出した。今すぐに飛び出していって、あの背中を追いかけて、抱きしめて、謝って、そうしなければいけなかったのに。瞬介にはそれができなかった。三年前の、あの日と同じ。   「いてぇよ……」    投げ付けられたのは、小さな本だった。勉強机の本棚の端にひっそりと仕舞っておいた、ポケットサイズの星空図鑑。天文部に入っても、星のことをちっとも学ぼうとしない瞬介に、七瀬がくれたものだった。「これ読んで勉強しろ」と。結局持ち歩くことはなかったが、ずっと大切に仕舞っておいた。そんな本。角が折れて、血が滲んでいた。  視界が海の底に沈む。熱いものが込み上げて、ぼたぼたと零れ落ちる。握りしめた拳が濡れる。本の表紙が滲んでいく。  本当は、全部分かっていた。自分の気持ちも、七瀬の気持ちも。だけど、確かめるのが怖かった。言葉にするのが怖かった。  だって、男同士なのだ。世間に白い目で見られ、後ろ指を差されて、それでも、七瀬と二人で生きていく。そんな覚悟が持てなかった。世の中の悪意や残酷さから、七瀬を守り、幸せにしてあげられる。それだけの覚悟も、自信もなかった。  ただ、弱かったのだ。馬鹿で愚かで考えなしの子供だった。だけど、他にどうしようもなかった。十年後、二十年後に後悔しないように、この選択が正しかったと思える未来がきっと来ると、信じていた。  本当に、七瀬に言いたかったこと。七瀬に聞きたかったこと。今なら分かる。だけど、もう、何もかもが遅いのだ。

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