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「竹野 様ですね、お待ちしておりました」
和服を着たフロントスタッフは綺麗にまとめた髪と、目元の笑顔を崩さず言った。“よそ行き”の女性の声で、年齢は四十代後半と言ったところか。薄紫色の和服と真っ白なマスクの組み合わせは、ちぐはぐな感じがした。
受付は銀ちゃんに任せて、ロビーに飾られた絵画を見ていた。シンプルな正方形の焦げ茶の額縁に収まった、青紫色の花の水彩画だ。描かれている半紙のような紙にもうっすらと模様が入っている。
その下に貼られた小さなプレートに明朝体で印刷された名前は、知らない画家の名前だった。地元の出身なのか、地域では有名人なのか。存命なのかどうかも分からない。
お客が少ないのは平日の昼間だからか、地方だからか、コロナ禍だからかも分からない。
部屋に向かう途中の廊下には障子型の窓があって、中庭が見えた。一部分は磨りガラスになっている。
奥の右寄りに灰色の石灯籠、中央付近に存在感のある黒っぽい岩、そして敷き詰めた白石で川を描いた、枯山水の中庭だ。雨に濡れて、枯山水だと言うのに全体的につやつやしている。
もう七月も下旬なのに、今月に入ってから、雨の降っていない日はたった一日しかない。
駅から乗ったタクシーから見えた山には霧がかかって、天辺が見えないほどだった。残念ながら、今日はどこも観光できそうにない。数年前に“映える”パワースポットとして有名になった滝はおろか、地元の人からも愛されていそうな温泉街ですら。
もし晴れていたとしても、個人商店がこのご時世で営業しているのかも分からない。
ただ、しとしとと降り続ける雨でも、よく手入れされた景色は風流で、悪くないと思う。そんな物をじっくりと眺める時間すら、いつもは惜しんでしまうと気付いた。
客室に上がると、和室の匂い、つまり綺麗な畳の匂いがした。畳の目も毛羽立っていないし、窓からの日光で焼けて傷んだ安っぽい黄色もしていない。ひと安心だった。
老舗と時代遅れを履き違えた建物にありがちな、使い古され、黒いシミの浮いた趣味の悪い小豆色のカーペット。そこに染み付いた、煙草やビール、そして靴下の臭い。あれは最悪だから。
荷物を部屋の隅にまとめて、お膳を挟んで向き合って座る。お膳は低く、脚は丸まって太い。座椅子はお膳と同じつやつやした茶色の木製で、紺色の座布団が敷いてある。触るとさらりとした質感だった。
「男ふたりなのに、変なカオされなかったね」
ようやくマスクを外せる。鼻から改めて息を吸えば、部屋の匂いが濃くなる。落ち着くと言うより、むしろ非日常的で新鮮な香り。畳に馴染みのある人生じゃなかったから。
銀ちゃんもマスクを外して、向かいに座った。よっこいしょ、と言いながら。
「そりゃ、接客業のプロだもん。“お客様”相手に変な顔なんてしないでしょ」
「もんって何、可愛いんだけど」
「もんはもんだよ」
少し恥ずかしそうに言い、座ったばかりなのにすぐに机に手を突いて立ち上がる。お茶を淹れに行くのだ。
「だいたい、男ふたりがどうこうって騒ぐのが時代遅れじゃない? このご時世に」
僕は一度姿勢を起こし、尻ポケットからスマホを出して、お膳に置きながら返事をする。
「カップルプランは適用されなかったけどね。定員男女一名ずつってさ」
「適用できたらほんとに友達同士でも悪用する奴が出て来ちゃうでしょ」
壁際に置かれたポットの方へ向いた銀ちゃんが言ってくる。
長く生きているから、それが当たり前だと思っているらしい。自分から“新しい時代”に適応しようとする一方で、自分を納得させるために身に付けた価値観をなかなか手放せずにいる人だ。
「男女でもカップルのふりする人、居そうなのになぁ」
お膳に頬杖を突いて話す。
「それはもう……オッケーって意味だよ。付き合ってなくても、二人で旅行するなんてのは」
カチャカチャと湯呑み同士の当たる音に負けないように少し声を大きくして、言い返してくる。
白髪の増えつつある後ろ姿を見つめる。身長168センチの、普通のおじさんの背中。スーツ姿で駅の人混みに紛れてしまえば、気付けないかも知れない。
銀ちゃんが二人分のお茶を淹れて戻ってきた。
「だいたい、俺と氷治 じゃ親子に見える。たとえ男女でも、不倫旅行みたいになったりしてね」
「男女の不倫はお得にできて、男同士の純愛はだめなの?」
紙パックから淹れられた緑茶の匂いが、熱に乗ってふわりと漂ってくる。座ったまま、文句を言っているだけで温かいお茶が出てくる身分だ。僕は、銀ちゃんに、甘やかされている。
「だめって事はないよ。そもそも想定されてないだけ」
いまだにどこか、見えない事にされている僕らの関係。
「……昔は、夫婦円満何とかみたいなプランばっかりだった」
銀ちゃんが熱いお茶をすすって、思い出したように話し始める。
「でも今は、カップルでって言い方が当たり前になってる。嫁入り前でもそういう事するのが普通になりつつあるんだなって、おじさんは思うわけよ」
いつもより渋い声で話す度、銀ちゃんの喉仏が動く。少したるんだ顎の下に薄い影が揺れる。何本か白くなったヒゲが見える。当時はあったであろう肌のハリもなくなって、毎日伸びるはずのヒゲすらまばらで生え揃わない。
「そういうの、マジでおじさんだよね。昭和生まれって言うかさ」
熱くて味の分からないお茶をひと口飲んで、言った。
竹野銀世 という名の「おじさん」は、僕の彼氏だ。
彼が昭和何年生まれなのか、僕は覚えていない。西暦から年齢を引いて、それをスマホで年号に換算するくらい手間がかかる。
「だから、あれもこれも、時代に合わせて変わっていくの。焦らずゆっくり待ってなさいよ」
平成生まれは、と付け足される。もう三十路前なのに、まだまだ子供扱いだ。
三十路手前の男と、五十路も半ばを過ぎた男の二人旅。カップルなんですと、もし言ったとしても、誰が信じるだろう。
銀ちゃんの言った通り、親子くらい年の差のある僕らは、世間からどんな目で見られているのか。そんな事を考えるのすらバカバカしいほど、僕らにとってはこれが普通なのに。
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