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濡らしてしまった布類の処置もそこそこに、交代でトイレに行って、休憩の一服を済ませた。 キャラクターを変更して、また対戦を続ける。 一度、クロスカウンターが決まり、同時KOになった。なかなか起こらない奇跡的な展開に、二人して叫んでいた。 他愛もない会話をして、笑っていれば、時間はあっという間に過ぎていく。 蛍光灯の下で膝を突き合わせて話すような仲ではない。わざわざ隣を向かなくても、テレビの明かりに照らされながら、赤い顔と潤んだ目をしてスルメをしがんでいるのを知っている。 ともやんは子供の頃から、酒飲みが好むような塩辛いつまみ類が好きだった。でも毎回、子供の頃の俺が好きだったチョコレート系も買ってくる。胸焼けがして量を食べられなくなったのに、学生の頃と同じくらい大量に。 隣で、ともやんがあくびをした。その肩越しに時計を見ると、午前三時を回っていた。ともやんの乗る新幹線まで、あと五時間しかない。 昔は完徹でフラフラのまま、煙草臭い頭と服でともやんと一緒に家を出て、朝帰り客狙いのラーメンを食べた後、最寄り駅まで見送りに行っていた。 ここ数年は、少しでも寝なければ体力がもたなくなっている。それと、ともやんは、新神戸駅まで電車ではなくタクシーを使うようになった。 それ以外は、やっぱり何も変わっていない。俺らのセーブデータは、上書きされる事なくここにある。 気付けば空き缶がずらりと並んでいて、スーパーのビニル袋もゴミでいっぱいになって、灰皿には吸い殻の山が出来ていた。 「次、終わったら寝よか」 画面を見たまま俺からそう切り出すのも、 「おう、また来るわ」 と、ともやんが言うのも、毎度の事だ。 何戦何勝かをきちんと数えているわけではないが、体感として、今回は俺の勝ち越しになりそうだ。何本飲んだか、何の話をしたのかも、あまり記憶にない。 それも含めて何もかもが当たり前で、いつも通りだった。 俺の中には、あるいはこの家には、ともやんが来ている間にだけ、動く時計がある気がする。 それは目に見える普通のアナログ時計とは違って、反対方向に進んで、途中で止まる。壊れているのだ。 だから、確実に歳は取って行っているのに、感覚はずっと毎日遊んでいた頃のままでいる。 同級生は結婚したり、子供が産まれたり、家を買ったり、親の介護が始まったり、離職や離婚したりと、人生ゲームで言うところの盛り上がりを色々経験しているらしい。 そういった事への焦りや危機感というものを、感じる人がいるのも知っている。何なら大半がそうだろう。 俺には、それがない。物事は何でも自然な流れで、なるようになっていくのだ。古いゲーム機のケーブルが、新しい家電から淘汰されていくように。 ゴミをまとめ、歯を磨き、暗い中で布団に入ってからも、しばらく話し込んでしまうのもまた、いつもの事だ。 そこでようやく、ともやんの近況をちゃんと知る。 一方で俺には、報告しようと思えるような近況は一つもない。 社会人になって十八年。家族に色々あった後、今の会社に転職したのが何年前だったのかも、覚えていない。 転職せざるを得なくなったきっかけなら、何年も前に話した。簡単に言えば、男女のいざこざだ。 当時勤めていたのは小さな会社で、社長から、女の子を紹介された。大阪のミナミで生まれ育った子だった。はっきり物を言うし、よく喋る面白い性格で、同世代の女子にしては珍しく、ゲームの話もできた。 デートするのは楽しかった。色々と積極的な子だったから、誘われるままホテルに行ったり、ウチに泊まりに来たりもした。ともやんが来る予定とはバッティングしないようにだけ、気にしていた。 だがある時、結婚する気があるのか聞かれて、俺は正直に、「どっちでもいい」と答えた。 意味としては「お前がしたいならする」と言ったつもりだったのだが、どっちにしろアウトだったらしい。俺はその場でフられた。 一応、ショックは受けた。何が悪いのか分からなかったからだ。相手の気持ちになって考えるのが優しさだと、学校では習ったのに、相手のしたいようにしようとしたらフられてしまった。 恋愛シミュレーションゲームは、ほとんどして来なかった。誰かが持ってきたのを触った事はあるが、選択肢を間違えて女の子を悲しませると、モテないレッテルを貼られてイジられるのが鬱陶しくて、面倒臭かった。 きちんと攻略していれば女心が理解できたのかも知れないが、ひたすら文字を読んでスチルを集めるより、動きの多いゲームの方が楽しかったのだ。 社長の口利きだったためにその会社には居づらくなり、同業の別会社に転職した。幸運なのか、皮肉なのか、転職先の方が給料が良かった。しかも、電車に乗らず原付で通える距離だった。 俺には学習能力が無いのか、何度かそういう経験をしている。会社を変わるとまでは行かずとも、正直に伝えた結果、相手を傷付けるか、フられてしまう。人として、どこかがバグっているのだ。 神戸に帰ってきたともやんは、そんな俺が彼女と別れた話を聞く度に、手を叩いて笑い転げた。落ち込んでいたはずの俺も釣られて笑って、どうでもよくなった。 (まなぶ)だけに学んだのは、その気もない女の子と、あまり仲良くなるべきではないという事だ。 歳を取るにつれ、だんだん人への興味も薄れてしまい、最後に付き合っていた女の子には「うちに興味ないんやろ」とはっきり言われてしまった。それ以来、彼女と呼べる相手はいない。 無理をして合わない他人にまで合わせる必要はなく、他人に時間を割かずに済むのは楽だと、今の俺は気が付いている。 開き直りではなく、もし、あのミナミの女の子と結婚していたら、今のこの生活はないのだと思うと、これで良かったとしか思えない。 一人になってからと言うもの、俺の時間は、ともやんが来ている間しか動かなくなった。 たまに、本当に時間が止まっているような気がする。もう何十年と同じ時間を繰り返して、変わらない毎日を送っているように思う。 人生という名の冒険を通して、レベルアップするという実感が湧かなくなった。ラスボスもいなければ、ステージクリアもない。 そこへ、ともやんは急に現れて、目に見えないドライバーで、おかしくなってしまった俺のネジを回す。一緒にいる時間こそが、俺の人生と言っても過言ではないのかも知れない。 「これ、ホンマは内緒やねんけどな」 このともやんの前置きも、もう何回聞いたか分からない。 俺とともやんは、家族や彼女にすら言っていない秘密まで共有する仲だった。 小学生の頃、エロ本が捨てられているのを見つけた時も、ともやんは俺だけ連れて行ってくれた。中学で初めて女子から告白された時も、俺にだけ教えてくれた。 恐い先輩の通り道に犬の糞で罠を仕掛けたのも、ゲームセンターでカツアゲされそうになって必死に逃げたのも、モテる同級生に渡すよう頼まれたバレンタインのチョコレートを勝手に食べたのも、俺ら二人だけの内緒だ。 高校生になって、俺が校則で禁止されていたアルバイトをしていた事も、大学受験にわざと失敗した事も、知っているのはともやんだけだ。 「おん。何?」 秘密を聞く事に、今更何のためらいもない。 「たぶんオレ、神戸戻って来る思う」 それを聞いた瞬間、俺は体を起こすほど驚いた。 「えっ? えっ! ホンマに?」 変わらない毎日の中に訪れたビッグニュースだった。 ともやんは体を俺の方に横向けたまま頷く。 「まだ辞令出てへんねんけど、もう声は掛けられとって。神戸支所の偉いさん亡くならはって、ほんで、行ったってくれんかーみたいな」 「やったやんけ!」 嬉しくなって言ってしまったすぐ後に、反省する。 「……いや、やったはちゃうか。理由が理由やしな」 不謹慎だったが、ともやんは喉の奥で笑う。 「まあでも、ホンマの事やし。オレにとっても栄転やろ」 「そうなんか? 東京の方が花形ちゃうんか」 「東京はもう人間も仕事も飽和状態なっとぉからな。地方で偉なったった方がええわ」 体を布団に戻して、ともやんと向かい合う体勢で横に向ける。 「よう分からんけど、支所長みたいなこと?」 「さすがに長とまではいけへんよ。その補佐役みたいな感じやろ」 「ほなもう転勤せぇへんてこと?」 「知らんよ。そこまでは聞いてへん」 とりあえず、神戸には戻ってくるらしい。 どれくらいの期間なのかは分からないが、今よりもっと会いやすくなるのだ。そうでないと、俺にこんな話をするはずがない。 ともやんは少し切り出しにくそうに、話を続ける。 「ただこれ、正式に決定しても親に言いにくいねんなぁ……」 「何でや、めっちゃ喜ばはるやろ」 「せやから言いたないねんて。めんどくさいねん。この歳で実家帰るとか、ナイやろ」 『ナイ』と言ったともやんの言っていることは分かるが、人の生活や生き方に、正解不正解があるとは思わない。 「そんなん言うたら、俺生まれてから死ぬまでここやで。地元も出んと、実家」 勿論、今の俺の人生が悪いとか間違っているとも思っていない。ただ、どこかがバグっている気がするだけで。 すると、ともやんは仰向けになり、俺の部屋を改めて見回した。 俺も一緒に見回す。明かりを消しても、カーテンの隙間から漏れてくる街灯の光で物の形が分かる。 見慣れていて意識していなかったが、改めて見ても狭さの割に物が多い、散らかった、汚い部屋だ。 掃除も気になった時にしかしないし、ともやんの布団を敷くために、床にあった物を壁際に寄せたくらいだ。部屋の隅には、夏から置きっぱなしの扇風機が立っている。 これに関しては、正しい暮らし方だと胸を張る事はできない。 「ここはええわ。オレここがいい」 そんな部屋の真ん中で、ともやんは平然と言った。 「何でやねん」 「落ち着くねん。自分ん家よりおる時間長いもん、ヘタしたら」 「それはまあ、そうやな」 これが逆の立場だったら、俺はそうは言っていないだろう。 井上さん家に行った事は片手で数えるくらいしか無いが、知っている。 大きなマンションの高層階にあり、フローリングで、花瓶に花が生けてあって、スリッパを履いて生活するような家だ。 ちゃんと綺麗に、そしてお行儀よく過ごさなければならない気がして、トイレを借りるのすら、子供心に緊張したものだ。 ともやんがウチに遊びに来た時はどう思っているのだろうかと、聞くに聞けなかった。その答えが、今になって聞けた。

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