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雲とオレンジ
目がぐわんとまわる。顔が熱い。
本当ならベッドに移動したいところを、それもできなくて、リビングの床に直に寝そべった。冷たくて少し気持ちがいい。
暗くなり始めた空に何かの拍子でちぎれそうなくらいに細い白い月が見える。カーテンを閉めたかったけれど、今の僕にはそれもできそうにない。
僕のとった行動に対して、異議を唱える身体に謝罪をするみたいな気持ちで横になっていた。
その日の正午過ぎ、仕事の仲介先の人から電話が来た。普段ならちょっとした連絡ならメールやLINEで行う間柄だったから、着信音が鳴った段階で僕は身構えた。
嫌な予感は的中。構想が進んでいた依頼が相手の都合で白紙になった。
今日の夕方は朔とごはんを食べるという楽しみがある。気持ちを切り替えよう。そう思って、窓を開け部屋の換気をしながら、軽くデスク周りの片付けをした。
すっきりした気持ちで、もう一件受け持っている案件に取り掛かっていた時、LINEの着信音が響いた。
『ごめん、今日人手が足りなくて残業になったから、ごはん食べるの無理になった……』
朔からのメッセージだった。この文章の後に、違う種類の「ごめん」のスタンプを3つも送ってくれていて、朔の感じている申し訳なさが伝わってくる。
『お疲れさま。帰ったらゆっくり休んで』
僕もお疲れさまのスタンプを添えて返信をした。
みんなそれぞれ都合がある。よくあることだ。ただ、今日にそれが重なっただけだ。
わかっているのに、手がキーボードを叩けなくなってしまった。
……夕飯を買いに行こう。
のそりと椅子から立ち上がり、僕はショルダーバッグに財布とエコバッグを入れ、髪を少し整えてから家を出た。
外に出ると、空は薄曇りで、なんとなくどよんとしていた。
朔のいるスーパーは、今日は通り過ぎた。もう10分歩いたところに全国チェーンのスーパーがあり、そこに足を踏み入れた。
お惣菜コーナーを眺めるけれど、何を食べたい気持ちも起きない。夕刻、お弁当やお惣菜をカゴに入れて立ち去っていく人々。
何周かした後、これなら食べられる気がして、うどん入りの小さなすき煮をカゴに入れる。
そうして、レジに向かおうとしたとき、小さな瓶が目に入った。瑞々しいオレンジが描かれたラベルのオレンジリキュール。
僕はお酒は飲まない。飲みたい気持ちもあまりない。何より、服薬前後の飲酒は主治医に控えるように言われている。
だけど、今日は強く惹かれてしまった。あの鮮やかさに触れることで、今の気持ちが晴れる気がして。僕は悩むことなく炭酸水と一緒にカゴに入れ、会計を済ませた。
小さなグラスに注ぐリキュールは、薄い雲をかき消してくれそうに鮮やかだった。炭酸水を注いでまろやかな色合いになったそれをひとくち。……甘い。でもたしかにアルコールの味がする。
お酒を飲むのはいつぶりだろう。色を楽しみながら、ひとくち、ふたくちと重ねていくうちに、顔が熱くなってきて、視界が揺らぎ始めて……。
そして、今だ。
床に力なく寝そべり、ぼんやりと空を仰ぐ。
ふいにローテーブルの上のスマホが鳴る。
寝たまま、どうにかスマホを取ってロック画面を表示させると、朔からのLINEだった。
『明日の夕方は都合大丈夫? 会いたい』
多分、仕事が終わってすぐに送ってくれてる。
……今の僕は、朔には見せられない、……見せたくない。こんな姿の僕を見たら、朔は手を差し伸べてくれる。だけど、僕がほしいのは朔の支えじゃない。ほしいのは、朔が喪失感に潰されそうな時、そっと寄り添える強さだ。
誰にも迷惑をかけていないとはいえ、こんなつまらないことをしてしまったという情けなさと後悔が胸を掠める。
『大丈夫。僕も会いたい』
すっと酔いが引いていった。
立ち上がり、コップにミネラルウォーターを注いで飲み干す。
カーテンを閉めて、デスクに向かう。
指先が自然にキーボードを叩く。
朔と並べる僕でいたい。揺れる中で、揺らがないもの。
今日のことを、いつか笑い話として朔に話せたら。
オレンジがまだ淡く香る中、目の前の仕事に打ち込んだ。
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