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第1話

手術に外来、回診が終わったと思えば研修にミーティング……そして挙句出張…… とにかく多忙な日々を最近送っている気がしてならない。若手だからこそ回される仕事もあるわけで、全部引き受けていたら身が保たないのはわかってはいるが、いろんな経験を積んで追いつきたい人がいるからこそ多少の無理もしたくなる。 「小山先生、昨日入院された……」 「はい」 少し落ち着いたかと思えば病棟の仕事もこうして待ち受けている。 受け持ちの患者さんは特に注意を払っているし、僕が主治医である以上責任を持ちたい。 溜息をついている暇はない。とにかく今は着実に仕事をこなし、多くの経験を積まねばならない。 だけど…… 「小山先生」 「はい」 姿どころか声すら聞けてない。 一目でも会いたい、声が聞きたい。 けれど医局にもいつもの喫煙場所にもいない。探しに行きたいけれど行く時間もない。 送ったLINEは既読にはなるけれど向こうからの連絡はない。そういう人だとわかっているけれど、一言くらい連絡してくれても……なんて思ってしまうほど心がささくれ立ってしまっている。 もう手術室の前で待機しててみようかと思うほどだ。 あの人が確実に現れる場所なんて手術室くらいだし。 「小山先生、ちょっと良いか?」 「あ、はい」 「良くねーよ」 聞き慣れた不機嫌な声が聞こえてきて思わず心が躍ってしまう。振り返ろうとした矢先に背中を勢いよく掴まれ、引き寄せられてしまう。 「そんなのコイツじゃなくても出来るだろ」 「と、常田先生!?」 「それとも……コイツじゃねーと出来ないのか?」 僕に声をかけた先生の顔色がみるみる青ざめていくのがわかる。 確かに僕でなくても出来そうな雑務をよくこの先生は頼んでくるけれど、もしかしたら今は違うかもしれないのに。 常田先生のほうを見れば不機嫌に寄せられている眉間の皺がいつもより深いような気がする。目の下の隈も色濃く見える。 常田先生にじろりと睨まれた先生は視線を逸らしながら何か独り言を言って足早に退散してしまった。残されたのは常田先生と僕だけだ。 「お前も何でも引き受けるな、もう研修医じゃねーんだぞ」 「そうは言っても……」 僕はまだまだです、と続けようと思ったのに言葉に詰まってしまった。 常田先生が何も言わずに僕を見つめてくるからだ。怒るわけでも不機嫌なようでもなく、静かにじっと僕を見つめてくる常田先生。僕よりも小柄な常田先生がこうして僕のことを見つめると自然と上目遣いになってしまうわけで、自分の心臓がうるさいくらい音を立てるから全身が一気に熱帯びてくるのがわかる。 そう言えば久しぶりに常田先生とこうして話している気がする。 そう思ったら心臓は余計に鼓動を早め、さっき常田先生に掴まれた場所がじくじくと疼き始めてきた。 「お前は誰のだ」 「……え?」 「躾足りないのか、それとも首輪でもつけるか?」 言っていることは物騒なのに表情は穏やかだ。 「小山」 するり、と常田先生の手が僕の手に重なり、指を絡められる。こうして常田先生から触れてくるのは初めてのことで、頭の中が混乱してしまう。 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか常田先生は一歩僕に歩み寄ると首を傾け、見上げてきた。 そんなことをするものだから無防備に晒された常田先生の白い首筋が目に入り、思わず唾を飲み込んでしまう。 「駄犬を飼った覚えはない」 わかるだろ? と続きそうなのに常田先生は僕を見つめたまま黙ってしまった。 だけど言葉よりも雄弁に瞳が物語っている。 繋がっている手を自分のほうに引き寄せ、腕の中に閉じ込める。医局に備え付けのジャンプーの香りと愛煙しているタバコの匂いが胸いっぱいに広がって、頭がじーんと痺れるのがわかった。 久しぶりに触れ、抱き締めている。 一度触れてしまえば堰を切ったように押さえつけていたものが溢れ出し、気づけば自分の唇を常田先生の唇に噛みつくように重ねていた。 「んっ……」 小さく漏れ出た常田先生の声に気分が昂揚していく。 もっと聞きたい、そんな一心で舌を突き出せば拒絶されることなく受け入れられ、自分の体温とは異なる温度が混じり合うのがわかった。 止めないといけないのは頭の片隅では理解しているけれど常田先生は苦いのに甘くて、それなのに癖になるから歯止めが効かない。 もっと深くまで触れたくて壁際まで常田先生を追い詰めれば拒絶されることなく空いていた手が僕の胸に触れ……たかと思えば舌先に痛みが走る。 「痛っ……」 「がっつき、すぎだ……あほ」 突然の予期せぬ痛みに我に返れば頬を赤らめ、瞳を潤ませたまま息を乱す常田先生が眼前にいて思わず顔に熱が集まるのがわかった。 普段はカサついていることの多い常田先生の唇が今はぽってりと艶めいていて、先程まで夢中になってあの唇を貪っていたことを実感してしまう。 けど目が離せない。 「何処だと思ってんだ、あほ」 「……医局、です……」 「カメラに残るぞ、あほ」 「うっ……」 「あほ」 返す言葉が全くないので黙るしかない。 常田先生は視線を下に落とすと、何か面白いものを見つけたように不敵に笑う。 あ、その顔好きなやつだ。なんて呑気に考えてしまうけれど、常田先生の視線の行先を理解して持っていたタブレットで存在を元気に主張してしまっている場所を隠す。 「盛りやがって」 「だ、だって常田先生に久しぶりに会って触れたから、その……」 「俺の所為だって言うのか? あァ?」 「好きな人に触れたらこうなりますって!」 「飼い主放っておいて好き勝手やってるからだろ」 すっ、と伸ばされた常田先生の手は僕の目の下を優しくなぞる。触れた指先が温かくて、しかも壊れ物を扱うように丁寧だから胸がきゅんと音を立てる。 そうして気づいた。 僕は常田先生に心配をかけていたのだと。 「……先生、その、もしかして……心配して、くれてました……?」 「するわけねーだろ。連絡寄越さない野郎なんざ知らねぇ」 「連絡しなかったのは、その……忙しくて送りそびれて、その……」 「見かけたと思えば他の奴に尻尾振って愛想振り撒いてる駄犬なんて知らねぇ」 「それはすみませんでした」 資料を読みながら寝落ちしたり、当直の時に限って緊急の手術が入ったり、とにかく連絡出来なかった。無理にでも時間を見つければ良かったと後悔しても今更遅い。 僕の目の下の隈を優しくなぞる常田先生の目の下にもいつも以上に濃い隈がいるのは自惚れでなければそう言うことなのかもしれない。 「俺を捕まえておくんじゃなかったのか」 「その気持ちは変わってません」 少しだけ、本当に少しだけ常田先生の瞳が揺らぐ。僅かでも動揺してくれたのかと思うと嬉しくて仕方ない。 常田先生は数年前に何も言わずに僕の前から去っていった。そしてふらっと戻ってきてくれて、それからこの人が何処にも行かないようにと願って、この場所に縛りつけた。僕と言う存在が少しでも心残りになれれば良いのに、と。 どうやら自分で思っていたより僕は常田先生に存在を受け入れてもらえている……のかもしれない。 「あの……もしかしたら、ですが……」 「なんだよ」 「寂しい思いをさせてしまった……でしょうか?」 そんなわけないだろ、なんて言われるかもしれないし鼻で笑われるかもしれないけれど聞かざるを得なかった。 そして返ってきたのは予想外の行動だった。 「……この駄犬め」 そう言ってやんわりともう一度重なる唇に全身の血が沸き立つ感覚がした。 ああ、僕はこの人には一生敵わない……そんなことを思いながら目の前の華奢な身体を抱きしめた。

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