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兄は弟の横に腰を下ろす。 そしてカバンを自身の膝に置き直して、その中身を抜き取り始めた。   「今日はもう、上がるのか?」 カイの返事はない。 一つ、また一つとカバンから発掘されていく荷物の方に気を取られていたからだ。 本、ライター、ハンカチ、おやつの袋……どれもこれも、カイがいつの間にか無くしたとばかり思っていたものばかりだった。   「今日はもう、上がるのか?」  兄はもう一度、少しだけトーンを強めて声掛けをする。それでやっと注意がこちらに戻ったカイは、取り繕うように何度も小さく頷いた。 「そうか。なら、帰ったらすぐに午睡をとること」 「えー、本の続き読みたい」 「駄目だ、今日は読書禁止」 「タバコは?」 「ダメに決まってんだろ」 「……いじわる」 カイはぬいぐるみを更に抱き込みながら、口を尖らせた。しかし、兄は全く動じない。 「そう思うならそれで結構。 クラシックでも聴いて、心を穏やかにして寝とけ。 ドビュッシーはどうだ。好きだろ」 「やだよ。今日は高い音、頭にひびく日」 「……ショパンはそうでもねえだろ」 「ううん。今朝の車、だめだった」 「何でそれ、言わないんだよ」 「だって、聞かれなかったから」 「あのな……」 「それに、兄さんが好きなやつだったし」 「……いや、言ってくれていい。  いずれにせよ、明日の市長との懇談はお前も連れて行く。そのつもりで体調を整えること。 それがお前の午後の仕事だ」 「オレも行っていいの?!」 「あぁ。お前もそろそろ顔を売っておいてもいい頃合いだからな」 「……わかったよ、兄さん」 兄は頷き返し、そのまま弟からウサギのぬいぐるみを抜き取ってカバンにしまった。 それから改めて弟の身なりを見下ろして、眉を寄せる。それでも何も言わぬまま、カイの向きを自分の方に直し、掛け違えていたコートのボタンを一つずつ整え始めた。 カイはそれを当然のことのように受け入れながら、ぼんやりと兄の指を目で追う。   やっとボタンが直ったかと思ったら、今度は立たされた。後ろに回った兄により、腰ベルトがギュッと引っ張られる。 カイは相変わらずされるがまま大人しくしていたが、ふと思い出したようにぽつりと聞いた。   「……兄さん、今夜も忙しい?」 「夕飯前に、一度戻るよ」  すぐに返ってきたその答えに、カイはホッと小さく息をつく。  「何かテイクアウトして帰ろう。リクエストは?」 「うーん……。 あ、パンケーキ。オムレツついてるやつ」 「夕飯にパンケーキか」 「う……。た、食べないよりいいじゃん」 「まあ、な。 いつもの"カフェ・ルミエール"のやつでいいよな?」 「そんな名前だっけ。先週も買ってきてもらった」 「ああ、なら間違いない。わかったよ」 ようやく帰り支度が整ったので、カイはカバンに手を伸ばした。 が、寸前で兄に取り上げられてしまった。   「帰る前にネブライザーやって行け」 「えっ、やだよ。カバン返して」 「駄目だ、胸の音がおかしい」 「やだってば」 「タバコとそんな変わんねえだろ」 「全然ちがう!」 取り尽く島もなく、兄はベッド脇に手を伸ばし、ネブライザーの準備を始めてしまう。 カイはその腕を引っ張り、往生際悪く抵抗をする。 「ニオイくさい、音うるさい、咥えんのむり! 今朝もやったし。……だから、だいじょうぶだし!」 「そうか。じゃあ、マウスピースじゃなくてマスクにしような」 「そういう問題じゃないの、それ自体がいやなの。  ねえ、ちょっ、やだ、やだぁ」 「全く。イヤイヤと駄々をこねて……。 まるで赤ん坊だな。大丈夫だ。今朝と同じように、終わるまで背中を撫でておいてやるから」 「うう。ちがうの、ちがう。そうじゃない。 ああ、もう。ホントにやだ」 とうとう兄がアンプルを取り出した。 ここまで来てしまったら、もういくらごねても聞き入れてはもらえない。 観念したカイが、項垂れながらマスク付きのチューブを手に取った、その時。 『院長、院長!』 隣の部屋の方から、甲高く大きな声が響いた。 即座に兄が、半拍遅れてカイがそちらを向く。 兄は手の中のアンプルを内ポケットに突っ込んで、内扉へと急いだ。 次の瞬間、ノックもそこそこに顔を真っ赤にしたナースが飛び込んできた。 「院長!西棟、305号室の山崎さんが急変です!」 兄は、反射的に弟を振り返った。 案の定、呆然と立ち尽くしている。 あまりの急展開に、情緒の処理が追いついていない。混乱している。 これ以上強い刺激を弟に与えるわけにはいかない。 「分かった。あちらで話をしよう」   院長室へと繋がる内扉が閉まる音で、カイはふっと我に返った。即座に持っていたチューブをベッドに置き、枕元の眼鏡を掴んで目を閉じる。 そして手早くそれを掛けると顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。眼鏡の奥の赤い瞳が、静かに世界を捉え直していく。   「急変患者は脳外か。厳しいな」 「はい。昼食後、強い頭痛を訴えた直後に意識が低下しました」 その時、内扉が静かに開き、コート姿のまま櫂が入室してきた。 彼は、兄に一瞥もくれずナースに向き直る。 非常に落ち着いて見えるが、先程のことがある。 兄は思わず弟に問う。 「櫂、お前……。大丈夫か?」 しかし弟は、冷たい瞳でそんな兄の問いをピシャリと跳ね返した。 「院長、一刻を争います。 症状に関係のない質問は後にしてください」 「そ、そうだな。……すまない」 どうやら、心配は杞憂だったらしい。   櫂は次に、ナースに問いかけた。 「三上さん、JCSとSpO2を」 「はい。JCS 100、SpO2 88%です」 「重篤です。卯月副部長は?」 「コードブレインを発動しています。  第一応答で、こちらに向かっています」 その時、ガタガタッと場にそぐわない音が響いた。三上は即座にそちらを向くが、タブレットに全集中し始めた櫂は全く動かない。 すると向こうの応接セット前で院長自ら大きなモニターを運んでいたので、三上が慌てて 「院長、それは私が!」 と駆け寄り、手を伸ばした。 しかし院長は、凄まじい集中力とスピードでタブレットをスワイプしている櫂を見ながら、それを制する。 「君は櫂のサポートをしてやってくれ。専門外の私よりも、君の方がよほどあの子の役に立つ」 すると櫂が突然、三上にCT画像を送るよう指示を出してきた。それを受けて院長が目配せをし頷いたので、三上は頭を下げてPHSを耳に当てながら櫂の元へと戻った。   CT画像を受け取ったカイは、タブレットが鼻先につくほどの近さで食い入るように見つめている。  「出血……腫瘍内か。思ったよりも多い……。 周囲の浮腫、強すぎる。これ、もう圧が……」 独り言の量が増えていくにつれ、その足が自然と動き始める。しかしその視線はタブレットに釘付けのままで、足元も周囲も見ていない。 「正中変位が3ミリ、いや、4ミリかな?  早すぎる、保存的対応では無理だ……」 「ちょちょちょっ、櫂先生!?」 三上が、フラフラと本棚にまっすぐ向かう櫂に気がついて、声を上げた。慌てて駆け寄ろうとする。 だが、もう駄目だ、間に合わない。 そう思った、その時。 櫂が本棚にぶつかる直前で、兄が隙間に入り込む。間一髪、櫂は兄に抱きとめられた。 が、櫂の反応はない。 何事もなかったかのように45度向きを変えて、そのまま直進し始める。 院長は息を吐くと、櫂の背中を掴んで誘導し、応接セットのソファーに座らせた。 「通常のアプローチじゃ時間が足りない。 減圧が間に合わない……あ、違う。そっか」   再び櫂が立ち上がり、一歩を踏み出そうとする。 その拍子に応接テーブルへ足をぶつけかけたので、さすがの兄も横から抱いて無理矢理ソファーへ戻そうとした。しかし、イヤイヤと暴れて止まらない。 仕方なく手の中のタブレットを取り上げ、テーブルに置いてやる。すると櫂は、床に膝をついてそれにかじりついた。連続して画面をスワイプし、忙しく画面を切り替え始める。 その少し後、声を震わせながら言った。   「……そうだ。この位置、この出血量。 最初から攻めればいいんだ!」 大きく開かれた赤い瞳が揺れる。   「ほまれ、あれだ。あれだよ」 「……失礼します」 その瞬間、ノックもなく院長室の扉が開き、白衣姿の誉が踏み入れた。 櫂は顔を上げるなり叫んだ。 「卯月先生!新手法です、貴方のです! それしかありません!」   誉は間髪入れずに頷いた。   「了解」 刹那、誉の口角が、ほんの一瞬だけ引き上がった。 

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