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「院長、こちらに」
「結構。私は素人同然だからな。
若手の皆さんと一緒に学ばせてもらうよ」
「いや、そんな」
「気遣いは無用だ。始めてくれ」
「はぁ……恐縮です」
部長と院長のやり取りを横目で見ながら、櫂はいつも通り誉の隣席に腰を下ろした。
ファイルとタブレットを揃え、トン、と机に置いてから顔を上げる。
すると下手側、真向かいに座る兄と目が合った。
その瞬間、兄はにんまりとしながら、左手を軽く上げ見せてきた。
――それはかつて自分が高校生だった頃、授業参観に来たときと全く同じ仕草だった。
間違いない、"勉強したい"なんて、ただの建前だ。兄は今、完全に「父兄」だ。
櫂は、深いため息をつく。
兄弟の様子に気づいた誉が苦笑しながら、そっとその肩に手を置いた。
さて、カンファは珍しく張り切った部長の仕切りで開始された。
「まずは、昨日の症例と術後経過について。
加藤くん」
「……あ、はい。報告致します」
院長が同席ということで、やや緊張した面持ちの加藤が立ち上がり説明を始める。
「本症例ですが、当初は従来法での対応を予定しておりました。
しかし、昼過ぎに患者の状態が急変。
進行速度が想定よりも著しく速いことが判明したため、従来法では手術時間の延長および、侵襲拡大のリスクが高いとの判断がなされました。
そこで緊急カンファレンスにて、術式の再検討を実施致しました。
結果、短時間且つ小範囲での処置が可能な新手法へ切り替える判断がなされました」
続いてスクリーンには、あのカイの手書き資料を元に整えられたスライドが映し出された。
「この新手法は、病変の主座を正確に捉える必要があり、成功率は術者の判断と経験に大きく左右されると考えられてきました。
そのため一般的には適応が限られ、慎重な扱いが求められてきました。
しかし今回は、執刀医が当該手技の十分な経験を有していたこと、加えて院長より提供された最新の補助器機により、病変の把握精度が向上したことから、実施可能と判断されました。
結果として、切除範囲は最小限に抑えられ、術後経過も極めて良好です。
現在のところ、再増悪や合併症を示す所見は認められておりません」
そこで航が、わざとらしく咳払いをしてから口を挟んだ。
「……なるほど。
つまり、“条件が揃った”ことによる結果だ、という理解で正しいか?
術者の経験、器材、そしてタイミング。それらが噛み合った、偶然の賜物だった、と」
誉は、即座に眉を寄せて航を見る。
航も同じように視線を返し、目が合った瞬間、にんまりと笑った。
――まったく。
人にはカイに甘すぎるとか言う癖に、こいつは。
誉は小さく息を吐いてから椅子から立ち上がり、改めて航に向き直った。
「いいえ。お言葉ですが院長、決して偶然によるものではありません」
皆の視線が、自然と誉に集まる。
「今回の判断には、櫂先生の分析が大きく関わっています」
そして敢えて一拍置き、少しだけ声を張ると、
「本症例では、過去の症例と比較しても切除範囲をさらに抑えつつ、手術時間を大幅に短縮できています。それは病変の主座をどこで捉えるかという判断が、従来よりも一段高い精度で行われたからに他なりません」
と、スクリーンに映る画像を示しながら続けた。
「院長からご提供いただいた器機が有効に機能したのは事実です。
ですが、それをどう使うか、どの瞬間に踏み込むか――そこを正確に見極めたのは、櫂先生でした」
そして最後にほんの一瞬、言葉を探すように間を置いた後、更に力を込めてハッキリと言い切った。
「正直に申し上げます。
今回の判断は、私一人ではできなかった」
次に誉は、まっすぐに櫂を見た。
「櫂先生、君の分析があったからこそです。
誤解を恐れずに言えば、僕は彼の分析と判断に従ったのみです。
繰り返しになりますが、今回の成果は偶然ではありません。櫂先生によって導かれた結果です」
刹那、櫂はキーボードを打つ手を止めて、ほんの一瞬だけ左の胸元を軽く押さえる仕草をした。
誉はそんな櫂に穏やかな眼差しを向けた後、静かに腰を下ろす。
また同時に、航を見ると目をわずかに細め微笑んで見せる。航は苦笑いをし、軽く肩を竦めて返した。
『そこまで褒めちぎれとは言ってない』とでも言いたげな様子だが、誉とてカイへの甘さにかけては、航に負ける気など、さらさら無いのだ。
そんな中、顔を上げる事なく再び平然とキーボードを打ち始めた櫂の様子を見た山川が、声を潜め佐々木に問いかける。
「先輩……。
誉先生があそこまで言ってんのに、如月先生、めちゃくちゃ不機嫌そうに見えません?
院長に偶然とか言われて怒っちゃったんスかね?」
「……いや、あれはな……」
佐々木はそこまで答えて、小さく息を吐いた。
「見てみろ」
「?」
山川は首を傾げ、改めて櫂の様子を観察する。
無表情且つ、タブレットから片時も目を離さずに、ずっと何かをキーボードで打ち込んでいる。
特にいつもと変わりはないように見えるが……。
「耳だよ、耳」
「あっ」
そして、山川は気づいてしまった。
「……真っ赤ッス」
「あいつは、赤くなると目立つからな。
わかりやすい」
「……もしかして、照れてる……?
なんか……それはちょっと……かわいいッスね……」
「そうなんだよ。可愛いだろ、うちの弟」
「ひっ、院長」
「でもその辺にしといた方がいいぞ。ほら」
「うわっ、誉先生。
めっちゃコッチ睨んでるッス。エグいッス」
その時、部長が低く咳払いをした。スクリーンへと視線を向けたまま、ゆっくり口を開く。
「卯月くんの評価は理解した。
しかし一点、確認したい。如月くん」
「はい」
応じた櫂の声は、氷のように冷たかった。顔を上げることすらしない。一気に室内の空気が張り詰める。
「論文では、問題となる部位で一度“戻る”判断をしていますね。しかし君は、進行を指示した。
一般的な術式であるならまだしも、今回のような新手法は、まず実績に倣うのが定石だ。
何故そうしなかった?
その方がより安全に振れたのでは?」
櫂は手を止めた。
そして初めてゆらりと顔を上げると、
「部長は、"新手法"という言葉に少々引きずられ過ぎていらっしゃる様です」
と、いつもよりも一段低い声で返した。いつになく挑戦的な発言に、ざわ、と周囲が揺れる。
が、航だけは呆れ顔でため息をついた。
「論文の趣旨をご理解下されば、今回の手法が突飛な新規手技ではなく、従来法の延長線上にあることは明白かと存じますが……」
櫂は立ち上がることもせずに、スライドを表示し淡々と続けた。
「こちらは本症例における活動中心周辺の時系列データです。この数値帯であれば、従来法でも進行を選択した事例は複数存在します。例えば……」
そこで櫂の視線がタブレットに落ち、モニターのスライドが切り替わった。
「従来法で処置された類似症例のうち、代表的なものを並べました。
全て統計処理を外した、生データです」
櫂はすぐに顔を上げ、再び部長に視線を戻す。
「このポイントが活動中心。
活動のピークと減衰の間に、一定の規則性をもってわずかなスパイクが見られます。そして……」
モニター上のグラフが一番最初に見せた今回の症例のものへと切替わる。
同時にその下に、先ほどの過去症例のグラフが何枚か切り替わって表示がなされた。
櫂は一度スッと息を吸ってから、一気に言い放つ。
「今症例の活動中心においても、同様の挙動が見られます。ですから、従来法の実績に倣い"進む"、が最も安全且つ、最適解です」
諦め悪く、部長はその眉をひそめながら口撃を続ける。
「……だが、それは術後の解析による結果論だろう。
私は、現場での判断の話を――」
「いいえ」
櫂は即座にそれを否定し、
「私は、過去十年間の類似症例について時系列及び、CTデータの事前照合を行い、活動中心では"進む"判断をすべきであろうことを想定の上、手術に臨みました」
「なっ」
――と、さらりととんでもない事を言い出したので、皆が言葉を失った。
言い終えた櫂は、何事もなかったかのように再びタブレットへと視線を戻した。が、部長だけが、声を荒げながら詰問を続けようとする。振り上げた拳の戻しどころを失っている様にも見えた。
「……ならば君は、この論文そのものを否定するというのかね?
"戻る"という当時の判断は間違いだった、と」
カイは即座に答えた。
「そちらについては、現時点、私からは申し上げられることは何もありません。
論文記載の時系列データは統計処理がなされたものですから、今回の私が行った生データでの解析とは条件が異なります。照合も検証も不可能です」
そして櫂は、誉をまっすぐ見つめた後、
「……ですが。
この時、現場でなされた"戻る"という判断が、最善を尽くした末の結論であるという事実は揺らぎません。ですから、私は当時の判断を尊重します」
と、力を込めて最後まで言い終えた。
――櫂の言葉には、反論の余地が無い。
部長も、もはや押し黙るしかなかった。
室内を包む重い沈黙。
それを打ち破ったのは誉だった。
椅子に座ったまま、静かに口を開く。
「……当事者として、補足をします。
あの時点では、"戻る"判断をせざるを得ませんでした。当時、現場で読み取れた情報の中では、それが最適だとしか考えられなかった」
そこまで言って誉は一度、大きく息を吐いた。
人知れず、机の上の拳が強く握り締められる。
「尚、使用した器材はいずれも今回と全く同じです。取得できるデータの条件も変わっていません。
では何故、今回と結果に差が現れたのか――」
そして誉は、ゆっくりと櫂を見る。
「それは当時、データを迅速且つ、鋭く読み解くことが出来る人間が現場にいなかったからです。
しかし今回は、それが出来た。
櫂先生が生データをリアルタイムで即座に読み解き、活動の主座周辺の挙動を丁寧に拾い上げ指示を出してくれました。
だからこそ今回は、“戻らずに進む”という、より合理的な判断が成立したのです」
そう言い終えると、誉は航の方を向いた。
航が大きく頷いたのを契機にその肩の力を抜き、
「……今後に向け、当時のデータを用いた再検証を実施すべきと考えます。僕から当時のチームに生データの提供を求めますが……。合わせて、院長からのお力添えを頂けると助かります」
と、頭を下げた。航は間髪入れずに頷く。
「あぁ、勿論だ」
「ありがとうございます」
そして誉は、最後に櫂に向き直ると、一変して柔らかな声で締め括った。
「そして櫂先生、君が必要だ。
僕を助けてくれる?」
――櫂は、そっと症例ファイルの角に指を滑らせた。
それから一拍を置いて静かに頷くと、いつも通りの淡々とした声色で返事をした。
「誉先生のご判断に、従います」
誉もまた頷き返し、穏やかに微笑む。
航は対面でそんな2人を見守りながら、ふうと息をついた。そして、
「皆、ありがとう。
今回の事例を、是非次に繫げよう。私にできることは何でも協力する。
……君たちは素晴らしいチームだな。
今後も期待している、頼んだぞ」
と、朗らかに声を張った。
院長の寛大な言葉で、一気に場が和む。
カンファも終わりだと皆の肩から力が抜け、閑話ムードが広がり始めた、その時。
「誉先生」
櫂が静かに口を開いた。
「……ん?何だい」
誉は手帳を閉じ、万年筆を胸ポケットにしまいかけていたが、すぐにその方を向いて優しく答える。
櫂は珍しく最初からこちらを向いていた。
誉と目が合うと、タブレットを膝に置いて、机の上の症例ファイルを引き寄せる。そして中から1枚、二つ折りの用紙を取り出し、スッと机上を滑らせながら誉の前に置いた。
「こちらに、署名と捺印をお願い致します」
「……あぁ、申請書か何かかな?珍しいね……」
誉はそう返すと、万年筆のキャップを開いて用紙を捲り――大きく目を見開いて、そのまま静かに全停止した。
「卯月くん。そう言えばこの間の件だが――」
そのタイミングで戻りかけの部長が誉の席に寄り、机上の用紙を見て――同様に固まった。
「山川。
今日の議事録は勉強のためにお前が書――、ん?
何だ、あの二人」
そんな小さな異変に気づいたのは佐々木だった。
「先輩、どうしたんスか?」
すぐに山川が追従して同じほうを向き、脊髄反射で叫んだ。
「ちょ……、待っ、婚姻届!?!?」
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