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2-2.
誉は時計を気にしながら、カイを車から下ろしてドアを閉じた。以前の感覚で家を出たら、見事に渋滞にハマってしまったのだ。
「あんなところに高速の出口ができるなんてね。
通勤経路考え直さないとだなあ……」
「……?」
誉がため息交じりにそう言うが、カイはよく理解しておらず首を傾げるだけだ。
「日差しきつくない?大丈夫?」
そうは言いながらも、誉はカイのケアは怠らない。
胸元からスカーフを出そうとすると、
「大丈夫」
とカイは返して、誉の手を探り握った。
「カイは執務室まで行くと、カンファに間に合わないかもしれないね………。
今日って、何か重大症例あったっけ」
やや早足で歩きながら、誉が問う。
「ほまれ、今日午後手術じゃん」
「あー、じゃあサポートの君がいないと困るなあ」
「忘れてたの……?
まあ、今日のは通常症例だけどさ」
医局はこのすぐ先の新館なので2、3分もあれば着くが、カイの執務室は旧館にある。カイの休み休みなペースでは、往復するとそれなりに時間がかかってしまうだろう。
だから、誉は手早く瀬戸にメッセージを入れる。
「……カイの仕事道具は、瀬戸さんに届けるようにお願いしといたから。
一旦俺のロッカーで用意しようか」
何も考えていないカイは、誉の言う通り素直に頷いた。まだ家での感じが抜けていないのか、手を離そうともしない。
だが、ロッカーに近づくにつれてその手にこめられる力が強まっていく。
その表情を確認すると、かなり固い。少しだけ肩が上がって、瞬きの回数が増えた。――緊張している。
さて、いよいよロッカーの前に着いた。
誉は強張るカイの背中を撫で、
「一回、深呼吸しよう」
と、提案した。
カイは頷くこともせずに、誉の手の動きに合わせて息を吸い、吐く。その体の強張りが解け、きちんと胸まで空気が届いていることを確認し、誉はロッカーのドアを開いた。
始業直前と言うこともあり、誰もいなかった。
カイはベンチに鞄を投げ出し、共用棚にスクラブを取りに向かおうとする。それを誉が止めた。
「今日は白衣がいいと思うよ」
「……?、わかった」
カイは首を傾げながらも頷いて、またもや共用棚に行こうとするので、誉はロッカーから、
「共用のは布がゴソゴソしてるからやめとこうか」
と言って自分の白衣を取り出しカイに見せる。
カイは一瞬戸惑った顔をしたが、誉の言う通りに袖を通した。
当然ブカブカなので、誉が袖を2つ捲ってやる。
それから、問題のキスマークを確認する。
逆に大きめなのが功を成し、襟でいい感じに隠れていた。これならイケる、多分。
だが、誉があまりにもそこを注視し触るので、さすがのカイも気になりロッカー内扉の鏡を確認する。
「発疹?……いや、ちがう……これ」
さすが、医者である。
すぐに異変に気がついた。鎖骨だけでなく、首回りも入念に確認をして、勢いよく誉を振り返る。
同じタイミングで横を向く誉に、顔を真っ赤にしながら声を張り上げた。
「ちょっ、ほま、これ!跡!!」
「うん。
だからスクラブはやめようねって言ったでしょ」
「なるほど……。
いやいや、どうするんだよ、これ」
「大丈夫」
誉はそう言うと、カイの三つ編みの位置を調節し、襟元を正した。
「こうしたら見えないから、多分」
「たぶん!?って、そういう問題じゃないし!」
カイはふくれっ面で誉を睨む。
完全にご機嫌が悪くなってしまった。
誉はやれやれと肩をすくめた後、前かがみになりカイの頬にちゅっと軽くキスをする。
「これは櫂が俺のものって印。……嫌だった?」
――そして渾身の殺し文句を耳元で甘く囁く。
するとカイは振り上げた拳をフルフルと震わせた後、静かに下げて、
「……や、やじゃないし」
と、口を尖らせて誉の袖をちょこっとだけ摘んだ。
――よし、ちょろ……いや、可愛い。
何とか重大症例を切り抜けた誉は心の中でガッツポーズをした。
カンファ開始、5分前。
渦中のニ人が同時に滑り込んできたことで、医局の朝のざわめきが、一瞬だけ止まる。
「おはようございます」
いつも通り朗らかな笑顔と挨拶で室内に踏み入れた誉はさておき、
「……はよ」
ーー三歩遅れで入ってきた櫂が横を向きながらそう小さな声で言ったので、一同はより驚きを隠せない。しかもどう見てもサイズが合わない白衣を身に着けている。目ざとくポケットの刺しゅうを見つけた一人が、「卯月って書いてある……」と、隣に囁いた。
そのまま二人はそれぞれの自席に一旦収まった。
櫂はテーブルの上にタブレットと症例ファイルが届けられていることを確認し、それをいつもの通りの位置に置き直す。
そのタイミングで、研修医たちが櫂を囲んだ。
「如月先生、あの」
すると櫂は猫背のまま振り返り、被せ気味で返す。
「あー、悪ィ。まだ見てない。
午後のカンファまで待ってくれ――……」
その口調に、研修医が目を丸くする。
勿論、他の医局スタッフも同様だ。
そう言い放った後、自分で違和感に気づいた櫂も、一瞬大きく赤い瞳を見開き――。
「……コホン」
静まり返った空気の中、櫂の小さな咳払いが響く。
そして彼はスッと顔を上げ、
「大変申し訳ありません。
生憎、昨日は終日取り込んでいたため、まだ皆さんのレポートについて確認ができておりません。
恐れ入りますが、本日午後のカンファまでお待ち頂けないでしょうか」
と、スンとした顔且ついつもの調子で言い直した。
思わず誉が吹き出して、スタッフも耐えきれずにざわつく。
――やり直した?!
――いや手遅れだから!
――なんでイケると思った?!
――え、如月先生、そういう感じ?
そんなコソコソが聞こえる中、完璧に仕事モードを纏ったカイは、冷えた目つきで研修医からレポートを受け取る。そしてすぐにまた前を向き、背筋をピンと伸ばした。
程なくして、カンファの時間が訪れる。
櫂がタブレットを抱え立ち上がった所で、誉が向こうからやって来た。彼は目が合うとニコリと微笑む。櫂は特に何も返すことなく、誉の後ろについてカンファレンスルームへと向かった。
――朝カンファは、午後の手術が通常症例ということもあり、滞りなく終わった。
カンファレンスルームから皆が出てきたタイミングで、突如医局のドアが開く。
「……失礼します」
皆が聞き慣れない声と共に入室してきた男を一目見て、誉は足を止め、思い切り眉を寄せる。
その後ろをついて歩いていたカイは、止まりきれずに鼻の頭を誉の背中にぶつけてしまった。
「え、また違うタイプのイケメン出てきた……」
「誰……?」
スタッフの間に、小さなどよめきが走る。
黒いスーツに身を包んだその男は、誉よりわずかに背が高く、無駄のない細身の体躯をしていた。
その表情に愛嬌はまったくなく、代わりに場の空気を一瞬で引き締める冷たい圧を放つ。
切れ長の目は感情をほとんど映さないまま、その視線は一直線に誉と櫂の方へと向けられていた。
そんなどよめきの中、誉よりも前に口を開いたのは、意外にも櫂だった。
「満兄さん!」
誉の後ろからひょこと顔を出して、親しげにそう呼ぶ。また、満は櫂に視線を向けると、一瞬だけ表情を緩めた。
「……何の用?
ここは君が来るような場所じゃないんだけど」
一方、誉は守るように二人の間に立ちはだかり、不快感を隠そうともせずにそう牽制する。
普段、人当たりのよい誉からかけ離れたその態度で、医局が余計にざわつく。
満は櫂に向けたのとは正反対に、冷めた目で誉を見ながら淡々と告げる。
「貴方たちに用があってわざわざ来たのですよ」
その言葉に、誉が身構えた。
「――院長先生が、お呼びです。
至急、とのことですよ」
「……院長が?」
「ええ。憔悴なさったご様子でしたが」
そこまで言って満は目を細め、わずかに口の端を押し上げた。そして一拍置き、低い声で言う。
「――貴方たち。
今度は一体、何をしでかしたんですか?」
それが、例の結婚話だろうと誉はすぐに思い当たったが、あの航が憔悴とは意外だった。
――何かあったのか。
しかしそれを今問うたとして、この満が素直に答えるとも思えない。
仕方なく肩を竦めながら、誉は返した。
「すぐ行く。
――それにしても、電話一本で済むことだろ。
ほんっと昔から嫌味なやつだな」
すると満はふっと笑い、目を細めながら返した。
「貴方のその嫌がる顔が見たかったので」
ああ、もう!
本当に昔からいちいち勘に触る男だ、こいつは!
誉はイライラが抑えきれず、その額を手のひらで押さえた。
「……誉先生?」
しかし、櫂が心配げにこちらを見上げていることに気がつき、表情を緩める。
「大丈夫だよ」と小さく答えると、櫂は頷いた。
「――院長の呼び出しじゃ、仕方ないね。
櫂先生、行きましょうか」
誉はそう言うと、黒革の手帳を持ち直して満の方へと向かう。
彼は何も言わずに一礼し、先に医局から出た。
誉の後を櫂が追い、二人もまたドアの外に消えていく。
「――誰だったんスかね、今の」
残されたうちの一人、山川が佐々木に問う。
佐々木は怠そうに席に向かいながら、
「吉高 満。院長の秘書だよ」
と、短く答えた。
「――誉先生があんなに……。珍しいッスね」
「犬猿の仲ってやつですかねえ。
元々は向こうで精神科医されてたんだけど、いつの間にか辞めて秘書さんになってたんだよねえ」
横の加藤が、三人が消えたドアの方を見やりながら会話に混ざってくる。
「ご家庭の都合で医師を続けるのが難しくなったと聞きましたよ。何でも奥さんの調子が悪いとか」
「え、あの方、結婚されてたの?本当に?」
「さあ、あくまでも噂です。
具合が悪いのは息子さんて説もありますしね。
……まあ、あの三人は大学の同期で昔から仲がいいと有名ですし。
院長が満先生を取り上げたんでしょう。
誉先生も、言うほど満先生のことを嫌っちゃいないと思いますよ。昔からあんな調子で、よくつるんでますからね」
「……先輩って、いろんな事知ってるッスね」
「おう。人脈は宝だぞ〜。お前も大切にしろよ」
佐々木はそう言ってニヤリと笑って、席に着いた。山川が肩を竦めたところで、加藤が時計を見ながら言う。
「あぁ、いけない。外来が始まるよ。
山川くん、行きましょう」
「はーいッス」
――そしていつもと変わらぬ、医局の慌ただしい一日が始まった。
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