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3-3.
カイは、ウサギの耳を指先で撫でるふりをしながら、視線だけで周囲をなぞった。
理事と思しき面々の顔。満の表情、瀬戸の立ち位置。そして、兄の様子。
兄からの視線は、緊張と共に哀れみが滲んでいた。
ここまでの揺さぶりは、恐らく兄の本意ではない。
その何らかのロジックを裏付けるために、やむを得なかったのだろう。
非常に如月家らしく、だからこそ本来の兄らしくないやり方だった。
弟を見世物にし、追い詰めることまでして、兄は何を証明したかったのだろうか。
今のカイにそれを知る術はないが、一つだけはっきりしていることがある。
今、優しい兄の胸のうちは、弟を傷つけたことへの罪悪感でいっぱいだ。
――ごめん。利用させてもらうね、兄さん。
カイは小さく息を吸った。
そして、ふにゃりと口元を緩める。
退行の皮を被り、赤い瞳で兄を見据えた途端、兄のの瞳がわずかに揺れた。
航はカイの視線から逃げるように満の方を向き、
「吉高、心理評価を」
と告げた。
その言葉に、理事会メンバーが俄にざわつく。
「やはり、そこまでやるのか」
「若さまは、弟君相手でも、手を抜かれない」
「いや、次男殿の今後のためにも、必要だろう」
その無遠慮な雑談が、カイの鼓膜に刺さる。だがカイは、素知らぬ顔でウサギに頬をすり寄せた。
知らないふり。
分からないふり。
オレは今、ちいさな子ども。
――それが今は、一番安全。
カイに重い退行症状が出ていると見なして以降、明らかに理事メンバーは油断をしている。
だからカイは、そこに狙いを定めた。
兄や満よりも、迂闊な彼らからの方が、きっと情報を得やすい。
ところが、航の指示に対し、意外にも満が難色を示した。
「本日の評価は、おすすめしません」
そして、そう言うと、クリップボード上のメモに目を落とす。
「今、櫂くんの心は大きく乱れています。
今の心理状態での評価は、無効になる可能性が高い。バイタルが取れただけで、今日は十分です。
明日以降、様子を見て……」
「いや、今やる。
無効判定が出るなら、有効になるまで何度でもやらせればいい」
しかし航は食い気味にそう返すと、満がクリップボードの下に重ねていた冊子を乱暴に抜き取った。
「しかし」
「そうやって甘やかしてきた結果が、これだ」
航は声を低くし、続ける。
「もう、我儘は許さない」
そしてそのままカイの方へと歩み寄り、ベッドテーブルを引き寄せ冊子を置いた。
カイはそれを覗き込み、
「わあ、ご本だ」
と言うと、パラパラとページを捲る。
――ページは全十ページ。
なるほど、兄さんが今朝覚えさせたのは、これか。
じゃあ、兄さんが出したかった結果は……
「……いけません」
するとその時、満によってスッと冊子がテーブルから取り上げられた。
「やぁだ。それ、カイのだよ」
カイが口を尖らせながら手を伸ばすが、満は更に高く上げてしまい、応じてくれない。
――まあ、いいけど。もう覚えちゃったし。
カイは満の手中にある冊子を冷めた目で見つめる。
心理評価。
幼い頃から、カイはこれを幾度となく経験してきた。答えを"間違える"と、罰のように薬を増やされる、恐ろしいテスト。
そういえば、前回の入院の時もやらされた。この結果がなかなか良くならず、退院が延びたのだ。
しかし、あの時は気が確かではなかったが、今は違う。出題の癖も、各診断につながる道筋も理解している。その気になれば「正常値」を出すことも可能だが……。
すると次に、満が続けた。
「……今の櫂くんには、読んで、書く力がありません。私が読み上げます。
櫂くんは、思うところを指さしてください」
――ああ。
きっと気づいたな、満兄さん――。
これは、余計なことは言わないほうがいい
カイは気に入らなそうに頬を膨らませながら、自然さを装い兄の方を向く。兄は息を吐くと、頷いた。
「仕方ない、認めよう」
一方で、兄はまだ自分が正気ではないと思い込んでいる。満の懸念はあるものの、理事たちがいる手前は兄に従わざるを得ないだろう。
だとすれば、揺さぶるべきは――兄だ。
「櫂、満に従いなさい」
「やだ」
「櫂、やりなさい」
「いや、カイ、やらない」
「駄目だ、言うことを聞け」
やはり兄は、退行症状だと判断すれば、「問題行動」にカウントはしない。それどころか、やはり当たりがかなり柔らかくなる。
兄の対応が一時的なものか、当主の命を経て変わったものかは分からない。
ならば、今は症状を装っていたほうが安全だ。
「大丈夫なのか、あれは」
そのやり取りを見ていた理事の一人が呟く。
もう一人が頷きながら、
「症状とはいえ、あまりにも――」
「ご当主も、若さまも仰って通り、幼い頃から、余程甘やかしてきたのだろうな」
「確かに再教育が必要だな。
粛清も、やむを得まい」
新しい言葉が出てきた。
再教育、粛清。どういうことだ。
もう少し、情報を引き出したい。
――仕方がない。ここは、乗ろう。
きっと、自分の入院は確定路線だ。
そして治療方針と期間は、この評価結果に依存する。
だとするならば、兄の願い通り入院を確定させる一方で、被害を最小限に抑える結果を出す。
それが今は一番、合理的だ。
「執着が強いと報告にはあったが……。
それにしたって、たかがぬいぐるみで噛みつくとは……相当だな」
「あの執事も対象なんだろう?気の毒に」
「例の医師は巻き込まれただけ。
――若さまの報告、信憑性は高そうだ」
理事たちの会話が、わざとらしいほど小声で続く。
カイが退行していると見込んで油断しているのか、お喋りが止まらない。まったく、呑気なものだ。
――執着。ふぅん、なるほど。把握。
カイは得た情報を一つずつ積み上げていく。
つまり兄さんは、すべてを病の症状として処理するつもりか。さしずめ、誉への婚姻届も“愛着傾向”の一言で片付けられるのだろう。
確かにそれなら、誉は無傷で済み、むしろ被害者の立場。オレの経歴には多少傷はつくだろうが、治療を施したことにすれば、家の力で幾らでも揉み消せる。
――さすが、うまいね、兄さん。
先ほど、噛みついてしまったのもその一環で設定がつく。あれは正確には恐怖から来る反射だが、この理事たちへのアピールとするだけなら、それはそれで好都合だ。――ならば、次は。
丁度その時、瀬戸が負傷した理事の手当を終えて、内扉から姿を現した。
カイは、すっとベッドから飛び降りる。
その予想外の行動に、他の制止が一瞬遅れたのをついて、瀬戸の方へと駆け寄る。
そしてそのまま飛びつくと、瀬戸は驚いた顔をしつつも、優しく抱きとめてくれた。
「坊ちゃま、若さまを困らせてはいけませんよ」
そして、瀬戸はいつもの通りそう言うと、カイに戻るよう促す。カイは首を横に振り、
「みんな、いじわるするの」
と口をとがらせて訴えた。
「みつるにーさん、カイのごほん、とったんだよ」
「皆さま、坊ちゃまを案じてのことですよ。
さあ、戻りましょう」
「じいも、いっしょ?」
「ええ、一緒に参りましょう」
カイは瀬戸に手を引かれ、ベッドに戻る。
そして航が息を一つ吐いたタイミングを見計らい、瀬戸の腕にギュッと抱きつき、言った
「じぃ、だっこ」
「……お前な」
流石に呆れたのか、航が低い声を出したところで更に言う。
「じぃに、だっこして。ご本、よんでもらうの」
そして満の手の中の冊子を指さした。
「――なるほど」
航はすぐさま頷いた。
「吉高、問題ないな」
「はい。
拝見する限り、櫂くんは5,6歳程度までの退行症状が認められます。この年頃なら、抱かれて受診することも珍しくありません」
「わかった。
櫂、満の言うことを聞けるか」
「うん」
「なら、許可する。瀬戸、すまない」
「……かしこまりました。では、坊ちゃま」
瀬戸はそう言うと、ベッド端に腰を下ろす。
するとカイは、すぐに瀬戸の胸に飛び込んだ。
瀬戸に受け入れられたカイは、嬉しそうにその腕に収まる。胸元へ頬を寄せ、安心したように身体の力を抜いた。
満が冊子を開く。設問部分以外は手で覆い、対象以外の情報が視界に入らないようにしていた。
「では櫂くん、いくつか質問をします。
難しく考えなくて大丈夫ですよ」
満らしからぬ、柔らかい声音だった。
完全にカイを幼子扱いしている。カイは瀬戸の胸に頬をくっつけたまま、素直に頷いた。
――カイが、車の中で覚えさせた答えをうまく答えられさえすれば、結果は「保護入院」にたどり着くはず。航は緊張した面持ちで、カイを見守る。
そうして、満が穏やかに評価を開始した。
第1問目。
「落ち着くと感じるのはどちらですか」
航が教えた赤という回答以外にも、いくつかの設問が並んでいる。
カイは少し考えるような素振りをした後、人差し指を“青"へと滑らせた。
――外した。
そう思っても、航は表情を動かさない。
退行症状が出ている。
やはり、事前に教えた回答を示すことは難しいか。
しかし、一問くらい外しても、評価は崩れない。
「では、次。怖いと感じるのは、どれですか」
教えたのは、三角
――カイの答えは、迷いもなく、丸。
問題が3問、4問と続く。
それら全て、カイは航が教えた答えから外していく。
理事の一人が小さく息を吐いた。
「……安定しないな」
「判断の揺れが目立つが、崩れてはいないか」
航もまた、全く同感だった。
正常なラインから極端に逸脱しているわけではないが、重なるわけでもない。
ちょうど典型から半歩だけ、お手本のように綺麗に外した回答だ。
そして何よりも航が一番違和感を覚えたのは、カイが選ぶ"回答"そのものだった。
先程から、航が教えたものが一つも選ばれないのだ。確率論からしても、この設問の流れで一つも選ばれないなんてことは、まずあり得ない。
あるとすればそう。
敢えてその答えを避けるしか――。
10問目の回答を終えた所で、満のペン先がほんのわずかに止まった。
2人の視線が一瞬だけ合う。
交わした言葉はなかったが、同じ違和感を覚えていることだけは互いに伝わった。
それでも満は、そんな感情をおくびにも出さずに淡々と質問を続けていく。
が、その時。
カイが突然、瀬戸にしがみついてイヤイヤと首を横に振り始めた。
「坊ちゃま、いかがなさいました?」
「……もういや」
カイはそう言うとふくれっ面をする。
「おもしろくない。あきちゃった」
航は、俄に焦った。
――ここで終わらせるか?
しかし、今の段階では、判定は微妙なラインだ。
次に、理事会メンバーの反応を伺う。
その漏れ出している所感を聞く限り、保護入院への同意は得られそうだ。
だが、いまひとつ、航の狙いである非典型とするには決定打に欠ける。
さて、どう指示を出すのが最適か。
思案しながらカイを見たその瞬間、航は背筋にゾクリとしたものが走った。
カイが視線を左下に移し、首をかしげている。
そして満の手元――冊子をしっかりとその赤い瞳で捉えながら、口元に左手を押し当てる。
それは、カイが何か物を考えるときの癖だった。
退行状態では起こり得ない、深い思考の合図。
航の中の疑念が、確信へと近づいていく。
――まさか。
ゴクリと喉を動かし、嫌な味のする唾液をゆっくり嚥下する。
――意思を持って回答を選び、任意の結果を導き出そうとしている?
いや、しかしそんなことが可能なのか?
自分が教えたのは、回答のみ。設問を見たのは今が初めて。いや、最初に「ご本だ」とはしゃいでパラパラとページを捲ってはいたが……。
――まさか、あれだけですべての設問と選択肢の傾向を覚え、理解したとでもいうのか?
いや、まさか――でも。
カイの瞳がゆっくりと動いた。視線が合う。
その赤い瞳には、強い意志が滲んでいた。
その瞬間、航の中で、急速に思考のピースがハマっていく。
車内で、たった一度読み上げただけで全ての答えを記憶した。
そして、先の緊急手術の現場での異様なデータの解析力。事前に把握したという類似症例と、一瞬で照会をする迅速な判断と導き。
証拠はない。
しかし、もしそうなら全ての違和感に説明がつく。
するとその瞬間、カイは目を細めて、ウサギを抱き直した。そしてそれを口元に当て、ほんの一瞬、にんまりと笑む。
航はそれを、見逃さない。
“ありえないこと”であるはずの疑惑が、確信に近づいていく。航は改めて弟を畏怖の念と共に見つめながら、思った。
――こいつなら、やりかねない。
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