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好きの気持ちが止められない
『俺の気持ちは、言わなくてもわかるだろ』
『そう信じたいよ。けど……』
テレビだけが煌々と灯る薄暗い部屋で、三枝雪也は膝を抱えて画面を見つめていた。
雪也が見ているのは、今日から放送が始まったBLドラマ『春の風』。
主演は、チカ。
雪也と同じグループのメンバーで、けれど、自分とは何もかも違う男。
「……チカ、こんな顔もできるんだ」
画面に映るチカの演技を眺めながら、雪也はため息をついた。
ダメ出ししてやろうなんて少しでも思ってしまったのが恥ずかしく感じるほど、些細な動きや眼差しに至るまで、まるで原作からそのまま飛び出たかのように完璧に見えた。
チカに感心する一方で、羨望というには仄暗い感情が雪也の胸中を疼かせた。雪也がそれを頭を振って追い出していた時、スマホ画面にメッセージが表示された。
『もうすぐ着く』
ほどなくして、インターホンが鳴った。
部屋に現れた男は、靴を脱ぐなり雪也の体を強引に抱き寄せた。
「抱かせろ」
ぶっきらぼうな、メッセージと同じ、短い一言。
「嫌って言っても抱くくせに」
雪也はそう言うと、男――神谷迅の腕から、するりと抜け出した。
◇ ◇ ◇
雪也が事務所に入ったのは16歳。街中でのスカウトだった。
最初はモデルで活動していたが、人気は可もなく不可もなく。
高校卒業後、大学に通いながら今後の進路について悩んでいた時、社長から「BLアイドルグループを作る」という話を聞かされた。
その時、「雪也の相手はこいつ」と紹介されたのが迅だ。彼も雪也と同じタイミングでその話を聞いたらしく、驚いた顔をしていた。
彼は雪也を見ると、すぐに目を逸らして社長に言った。
5年以上経った今でも、その時の言葉を思い出すたびに、雪也の胸は切なくなる。
「――絶対嫌だ、か」
その言葉を、雪也は口に出した。
忘れたくても忘れられない。それはまるで呪いのように、雪也の胸奥に今も居座っている。
かすかな寝息の音に視線を動かす。
横で眠る迅の肌は、まだ行為の熱が残っていて、わずかに火照って見えた。
雪也は、迅の金髪に染めた髪に指を絡め、小さく息を吐いた。
「……俺は一目惚れだったのになあ」
一目惚れと同時に拒絶された雪也は、BLカップルの話は断るつもりだった。そもそも迅のほうから断ると思っていた。
ところが、翌日に迅が受け入れ、雪也がOKすればグループ結成が決まると言われてしまった。迅の心変わりの理由もわからないまま、4人での初顔合わせの日。
雪也たちと対となる2人組を紹介された時。
迅の――チカを見る眼差しに気づいた瞬間、雪也はわかってしまった。
顔合わせの時に見たチカの第一印象は「とても綺麗な人」だ。
自分とは1歳しか違わないのに、大人の色気のようなものを持っているようにも見えた。美しい外見だけではなく、内面から滲み出る不思議な魅力がチカにはあった。
レッスンスタジオで鏡の前に並ぶと、自分との違いは明白で、つい俯きがちになって講師から何度も叱られた。
それなのに、事務所から与えられたアイドルネームは「ユキ」。
「ミナトとチカ、ジンとユキ。いい並びだね」
マネージャーは褒めていたが、雪也は全然そうは思わなかった。
本名からたった一文字抜けただけのこの名前が――自分から何かを削ぎ落とされた証のようで、どうしても好きにはなれなかった。
雪也はため息をつき、陰鬱な気持ちを追い出そうとした。
ベッドから出ようと動きかけた時、迅に腕を掴まれ引き戻される。
「ちょっ……」
迅の体温に包まれ、雪也は抗議の声を呑み込んだ。
優しい手つきで背中を撫でられる。思わず目を閉じようとした雪也だが――。
「……かわいい」
雪也の髪に顔を埋めながら迅は呟くと、寝息を立て始めた。
(寝言……そっか)
わかっていた事実を改めて突きつけられる。
今日ここに来たのも、チカが受け役のドラマが始まって気持ちがざわついたからだろう。
チカの身代わり。憂さ晴らし。
「こんなとこ来て俺を抱いて……いっそ――」
その先の言葉を、雪也は声に出せなかった。
自分でもわからない感情に、雪也はそれ以上考えることができず、目を閉じた。
胸の奥が、じくじくと痛んだまま。
◇ ◇ ◇
「大丈夫ですか?」
最初の出会いは、10年前。駅のベンチで蹲っていた時だった。
養成所の過酷な寮生活が耐えられず、逃げ出したはいいものの地元に帰れるだけの金はなく、途方に暮れていた時。
制服姿の彼は自販機で飲み物を買うと、それを無言で差し出してきた。
受け取ると、安堵したように小さく笑みを浮かべ、隣に座った。彼は何も聞かず、ただ沈黙だけが流れたけれど、それは全く苦ではなく、むしろ心地良かった。
お礼を言おうとした時に電車がきて、彼はぺこりと頭を下げるとその電車に乗って行ってしまった。
次に彼を見たのは、1年後。
事務所で何気なく眺めていた新人の宣材リストの中に彼がいた。
モデルとしてスカウトされたと知り、それから彼が出ているものはどんな小さな切り抜きでも集めた。写真の中の彼はどれも氷のように無表情で、そういう売り方をしているのだと察したけれど、あの時に見たかすかな笑顔、あれこそが彼の魅力なのにと歯痒く思った。
今思うと、飲み物を受け取った瞬間、彼に一目惚れしていたのかもしれない。
それから数年後にBLカップルアイドルの話を聞き、断るために社長室へ行った。バイであることは公表するつもりはなかったし、それを知られるような危険も冒したくなかった。
社長に辞退することを伝えようとした時、部屋に彼が入ってきた。
彼が相方だと知った瞬間、なぜ彼のことをずっと気にかけていたのか、笑顔を思い出すたびに湧き上がっていた感情の正体を知った。
そして、彼への恋心を自覚したと同時に、焦った。
彼に気持ちを伝える前にBLカップルを仕事にしてしまったら、誤解される。それだけは絶対に嫌だ。
「絶対嫌だ」
即座に言うと、社長は呆れたように肩をすくめた。
隣にいた彼――雪也がそれをどんな顔で聞いていたのかは、覚えていない。
「……それでなんでセフレになるかねぇ」
迅は、グラスを傾けながら言う篤志に反論できず、ため息をついた。
「毎回飲むたびに進展のない話をされて、お兄ちゃんは悲しいよ」
そう言った篤志が、悲しいと言う割にはどこか楽しんでいるようにも見える目線を、迅へと向けた。
実力派俳優として名の知れる篤志は、数年前にドラマで共演したことをきっかけに迅と懇意になった。弟役の迅をよほど気に入ったのか、別事務所にも関わらず、今日のように飲みに誘っては話を聞いてくれる。
「俺だって、このままじゃいけないってわかってるんだ」
迅は、さほど強くない酒を飲み下すと、グラスを置いて呟いた。
「一度思い切って告白したけど……」
「ああ、ユキくんの誕生日に振られた話な。もう1万回は聞いたわ」
迅は項垂れた。
雪也の20歳の誕生日。強引に家に押しかけて誕生日を祝った。
お祝いに持っていったワインを、雪也は喜んでくれた。
「お酒飲むの初めてだ」
そう言いながら三口ほど飲んで、「おいしい」と言ってくれた。
誕生日に家に入れてくれたこと、プレゼントを喜んでくれたこと、おいしいと言った時の柔らかな笑み――それら全てが嬉しくて、頬を上気させる雪也が可愛くて、気持ちを抑えられなかった。
勢いでお酒を何杯か呷った迅は、相当真っ赤な顔をしていたと思う。
「好きだ」
思わず言葉を告げ、すぐに我に返って慌てた。
もっとちゃんとした場で、酔っ払ってなどいない状態で告げたかった。
けれどそれを弁明する前に、雪也の目が悲しそうに揺れたのを見て、迅は何もかも失敗してしまったのだと悟った。
俯いた雪也は、小さく首を左右に振った。
それは明らかな拒絶のサインで、迅は言葉を発することも、指ひとつ動かすことすらできなかった。
「あの時の雪也の顔を思い出すと、なんかもう……」
「お前、その見た目でヘタレなのほんと可愛いな」
篤志に頭を撫でられるが、全然嬉しくない。
だが、こうして揶揄いながらも相手にしてくれる相手がいなければ、迅はとうの昔に潰れていたかもしれなかった。
「……撫でられるなら雪也がいい」
「そうかよ。けどユキくんも不思議だよな。振った直後にセックス持ちかけるなんてさ」
「それは……」
告白のあと、雪也は沈黙を破るように迅に覆い被さってきた。もしかして振られたのは勘違いだったのかと迅は一瞬期待したが、雪也の表情はそれを否定していた。
自分は愛されていないのだと、迅はそう思った。
その証拠に、雪也は行為の最中、決して甘い言葉を求めなかった。名前を呼ばせず、人形のように扱うことを求められた。
まるで――自分を見るなとでも言うように。
何度体を繋げ、雪也の熱を感じ、ともに果てても、迅は雪也の心に触れることすらできなかった。
俯いた迅に、篤志がため息を漏らす。
「お前、そのことになると急に無口になるね」
「……雪也を悪く言われたくないし、妙な想像もされたくない」
「まあ俺もそこは踏み入らないけど」
篤志はソファに身を沈め、俯いたままの迅に視線を向けた。
「お前、セフレでも続けてれば何とかなる、なんて思ってないよな?」
そんなことは思っていない。
けれど、どうしたらいいのかもわからない。
雪也は、仕事以外では迅を含むメンバー全員と完全に一線を引いていて、むしろなぜ迅がセフレでいられるのかが不思議なくらいだった。
仕事帰りに食事に誘っても断られる。
家に行っても目的がセックス以外だと入れてもくれない。
本当はそんな接し方などしたくはないのに、「抱かせろ」と言う以外に繋がる方法を見つけられないまま、時だけが過ぎていく。
迅の内心を読んだのか、篤志がまたため息を漏らす。
「わかってたけど、お前の行動原理ってユキくん基準なんだな」
迅は顔を上げ、睨むように篤志を見た。
「そんなの、好きなんだから当たり前だろ」
はっきりとした口調でそう告げた迅に、篤志は軽く肩を竦める。
(……その想いを、ユキくんにぶつければいいのに)
それができない弱さを、篤志は臆病とは思わなかった。
迅が肩を落とし、小さく息を吐く。
篤志は可愛い弟分に何か言おうと口を開いたが、結局何も言わずに、グラスを傾けた。
◇ ◇ ◇
篤志に礼を言って別れたあと、迅は乗り込んだタクシーの窓から外を眺めていた。
夜でも明るい都会の街並みが、走馬灯のように通り過ぎていく。
そのめまぐるしさは、立ち止まったまま無様にもがく自分とはまるで正反対で、迅は息苦しさを感じ首元を緩めた。
不意に、上着に入れていたスマホが、鳴るはずのない着信音を奏で、迅は固まった。
(うそだろ)
ピアノ短音の、短いフレーズ。
雪也専用の着信音だ。
迅は慌ててスマホを取り出した。
『今から来れる?』
画面に映った差出人の名前と短い文を、何度も確認する。
雪也から自分への、初めての連絡。
「すみません! 行き先変えてください!」
タクシーの運転手に伝え、『すぐに行く』と返事をして、迅は一度、深く息を吸った。
「この先工事やってるので、信号を抜けたら迂回しますね」
運転手の言葉に頷き、窓の外を見る。
赤信号で止まった車窓に、ネオンライトが反射した。
停滞する夜の灯りが、不意に、迅の中に不安を呼び起こした。
心臓が、高揚感とは真逆の感情に、どくりと鳴る。
予定より10分ほど遅れて雪也の住むマンションに着いた時、迅の中の不安は無視できないほどに膨らんでいた。
エントランスでインターホンを鳴らすと、雪也は無言でロックを解除した。それはいつもと変わらない反応だったが、迅はエレベーターを待つ間、ずっと落ち着きなく視線を彷徨わせた。
部屋の前へ着き、インターホンを押そうとして、手が震えていることに気づいた。
呼吸をして、ゆっくりと押す。
すぐに、ドアが開いた。
部屋に入ると、雪也は迅の顔を見て、すぐに目を逸らした。
「飲んでたんだ……」
それからまた迅を見て、「誰と」と言いかけ、口を閉ざす。
「ごめん酒臭いか。店を出る時に消臭はしたけどな」
「匂いなんてそんなのどうでもいい」
珍しく一気に喋った雪也は、まるでそうしたことを後悔でもするように、深く息を吐いた。
沈黙が落ちた。
迅は無意識に首をさすった。
何か言って欲しい。
急に連絡してきた理由を、部屋に呼んだ理由を。
知りたい。……いや、知りたくない。
雪也が、ゆっくりと迅へと視線を向ける。
(あ……)
「俺、ずっと考えたんだけど……」
「雪也、待って」
迅が止める前に、雪也は迅の目を見て言った。
「もう迅に抱かれたくない」
その言葉を理解するより先に、迅は雪也に詰め寄った。
「なんで!? 俺が何かしたのか!?」
そう言いながら、頭の中でもうひとりの自分が「やってるだろ」と冷笑する。それを頭を振って追い出し、雪也の両肩を掴んだ。
「やめるなんて言うなよ、なあ雪也」
唯一のこの繋がりだけは、失うわけにはいかなかった。
「雪也、俺は――」
「俺がもう無理なんだよっ!」
雪也の怒鳴り声に、迅は固まった。
「……もう、無理だから」
雪也は目を伏せ、涙を堪えるかのように、唇を固く結んだ。
雪也が感情を爆発させたのは初めてだった。
そうしなければいけないほど、ずっと、我慢をさせていたのか。
(俺は、雪也の気持ちを尊重しているつもりで、自分の欲望を押し付けていた……?)
『お前、セフレでも続けてれば何とかなる、なんて思ってないよな?』
篤志に言われたばかりの言葉を思い出す。
あの時は即座に否定したけれど、心のどこかで慢心していた。
人付き合いを好まない雪也にとって、自分が一番近い場所にいると思い上がっていた。
「俺……」
迅は、両肩を掴んでいる手に力を入れた。
雪也の体の震えが、手のひらから伝わってくる。
――もう、本当に駄目なのか。
指先から力が抜け、後ずさった。
「……わかった」
一言だけそう告げると、迅は雪也の部屋を出た。
雪也をずっと傷つけていた。
それに気づかないふりをして、心の中では都合のいい言い訳を並べ立てて。
雪也の心が欲しいと願いながら、体の繋がりから得る心地よさを、手放せなかっただけじゃないか。
「くそがっ……!」
壁に拳を叩きつけても、その痛みは、迅が積み重ねてきた卑怯さを、何ひとつ帳消しにはしてくれなかった。
◇ ◇ ◇
「ユキさん、もう少し目線伏せて」
レンズを覗き込んだカメラマンがわずかに首を傾げたのを見て、雪也は体を強張らせた。
「15分休憩しようか。そのあと再開で」
雪也はスタッフたちから離れ、壁際の椅子に腰掛けた。
久々のソロでのモデルの仕事だが、朝から全く集中できない。
迅を拒絶した夜から、数日が経っていた。
あの時、迅がどんな顔をしていたのか、雪也は思い出せない。
迅の「わかった」と告げた声には怒りが滲んでいたように思う。
当然だろう。こっちからセフレの関係を持ちかけておいて、勝手に限界を迎えて、拒絶した。怒らないほうがおかしい。
グループでの仕事も迅とのペアの仕事も、しばらく予定が空いた。
それがありがたくて、同時に、少しだけ怖かった。
このまま距離を取れば、仕事上だけの関係になれば、迅への気持ちは薄れてくれるだろうか。
「大丈夫?」
不意に声をかけられ、雪也は顔を上げた。
「隣のスタジオでインタビュー受けてたんだ」
そう言いながら近づいてくるチカから、雪也は思わず目を逸らした。
チカは、雪也がどんなに素っ気なくしても、こうして気遣ってくれる。
ファンを第一に考えて、周囲にも目を配って。
そういうところも、自分とは違う。
「これさ、試供品でもらったんだけど」
チカが差し出してきたのは、小さなボトルだった。
「このブランド、好きだったよね?」
「え……」
言葉が詰まる。
自分は、チカの好きなものをひとつでも言えるだろうか。
何もかも完敗だと思った瞬間――なぜか、笑えてしまった。
「……嬉しい、ありがとう」
素直に言うと、チカは少し驚いた顔をした。
「今の顔、ジンに見せたかったな」
なぜ、迅の名前が出てくるのか。
それに、迅はきっと、そんなことは思わない。
「そういえば、迅も別の仕事で同じ建物にいるみたいよ。あとでこっちに来るかもね」
心臓が、嫌な音を立てた。
わざわざ雪也の顔を見にはこないだろうけれど。
もし、どこかですれ違ったら――。
「休憩終わりまーす」
スタッフの声に、椅子から立ち上がる。
――ぎしり。
頭上で、嫌な音がした。
誰かの悲鳴。
次の瞬間、強い衝撃とともに、視界が暗転した。
◇ ◇ ◇
「……雪也」
名前を呼ばれ、目を開けた。
最初に見えたのは、焦る迅の顔だった。
「……なに……」
状況が掴めない。
体を動かそうとして、迅に抱きかかえられていることに気づいた。
「なん……で……」
「喋るなよ。セットの下敷きになってたんだ」
視線を動かすと、チカがスタッフに支えられながら起き上がるのが見えた。
自分と一緒にチカも巻き込まれたのか。
でも、それならなおさら、なぜ迅はチカではなく、自分を抱いているのか。
「俺のことはいいから――」
「何言ってんだよ」
迅に遮られる。強い声だった。
「お前以上に大事な奴がいるわけないだろ」
どうして、そんなことを言うのだろう。
他の人の目があるから? BLカップルの体裁を保つために?
でもそれなら――迅の表情がどこか悲しそうにも見えるのは、なぜだろう。
疑問は消える気配を見せず、雪也の心を混乱させた。
◇ ◇ ◇
念のため、病院で検査を受けることになった。
院内でチカと別れ、幾つか検査を受けたあと、個室に移った。
迅は、ずっとそばを離れなかった。
「……迅」
雪也は、意を決して声をかけた。
「……こんなとこでまで、BLカップルのフリしなくていいよ」
「は?」
迅は不服そうに眉根を寄せた。
「フリじゃねえし、俺がこうしたいだけ。迷惑か?」
迷惑なわけがない。
首を横に振ると、迅はふっと笑みを浮かべた。
胸の奥で、「もしも」という言葉が芽を出した。
鼓動が、緊張で速まっていく。
その時、マネージャーが来て、迅に何かを告げた。
「悪い、ちょっとチカのとこ行ってくる」
そう言って、迅が部屋を出ていった。
ああ、やっぱりそうだ。
もしも、なんてわずかな期待に、縋ろうとした自分が馬鹿だった。
雪也は俯き、唇を噛んだ。
けれどすぐに足音が近づいてきて、雪也は顔を上げた。
「ほら、お前の荷物。チカのと紛れてた」
戻ってきた迅に、荷物を渡される。
向こうはもう帰るってさ、と淡々と言う迅を、雪也は呆然と見つめた。
「……なんで?」
声が漏れた。
「俺はチカじゃない。チカみたいに綺麗じゃないし、気も利かないし、優しくもない……」
言葉は、止まらなかった。
「ユキって名前も、全然似合ってない……」
迅は一瞬驚いて、それから、笑みを浮かべた。
「俺、最初から雪也しか見てないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
迅が、雪也の髪を撫でた。
「雪也の髪も、顔も、声も……全部好きだよ」
雪也は俯き、首を左右に振った。
握りしめた手に、迅の手が重なった。
「なあ雪也、俺の勘違いじゃなかったら、俺の目を見て」
動けない雪也を、迅はしばらく無言で待ち続けた。
「……雪也、俺、もう逃げないから」
だからさ、と迅は続け、雪也の手を強く握る。
「雪也も、俺から逃げないで?」
視界が涙で滲む。
逃げられるわけがない。
こんなに、好きの気持ちが溢れているのに。
雪也は、迅の手を握り返した。
「迅……」
ゆっくりと、顔を上げる。
迅の、少し泣きそうな顔を、見つめた。
「……今度、迅と遊びに行きたい」
そう告げた途端、迅の目に涙が浮かんだ。
「色んな場所行って、ご飯食べて、お酒飲んで、写真も撮りたい。チカたちみたいにハッシュタグつけて――」
「それは駄目」
鼻を啜りながら、迅が笑った。
迅の目尻から、涙がひとすじ溢れる。
「雪也のプライベートは俺だけのものだから、それは駄目」
そう言った迅に抱きしめられ、雪也は息を吐いた。
「それ以外は、俺も全部やりたい」
「うん……ありがとう、迅」
――色々と間違えてしまった俺から、逃げないでいてくれて。
背中に触れると、腕の力が強くなり、強く、強く抱きしめられた。
その苦しさが、夢ではないことを教えてくれる。
雪也は目を閉じ、迅の肩に額を寄せた。
〈完〉
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