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1時間目
高校の教師になって五年目の俺は、クラス一の問題児、須津聖也に手を焼いている。
須津は入学式から金髪にたくさんのピアス姿で生徒指導室送りとなり、遅刻とサボリの常習犯で、授業に出たと思ったら寝ている。何度叱っても反抗的な態度で改善が見られない。毎年問題児はいるものだが、須津はそう遠くない内に退学になると予感がしていた。
そんなある日の放課後、校舎の見回りをしていると、トイレから微かな声が聞こえてきた。もう下校時間のため注意しようと中に足を踏み入れると、それが泣き声だと理解する。個室が一つ使用中になっていて、そこの主に間違いない。
「ひっく、うぅー、ぅえー、」
あまりにも子どもっぽい泣き方で、具合でも悪いのかと心配になる。
「おい、どうした? 具合悪いのか?」
「くっ、ぅー、ううー、」
扉の外から声をかけるが、泣くばかりでらちが明かない。
「ちょっとドア開けてくれないか?」
根気強く何度もノックしていると、ゆっくりとドアが開いた。
「うー、うえー、ぅく、」
「⋯⋯須津?」
目の前にいたのは、両手で目を擦りながら泣きじゃくっている須津だった。
「おい、どうしたんだ?」
「ひっ、う、ぅうー、」
手の隙間からポタポタと涙が零れて、紺色のスラックスに落ちる。スラックスはだいぶ濡れていて、よっぽど長い時間泣いていたんだと思うと、須津に一体何が起こったのかと疑問に思う。
しかしよく見ると濡れているのが制服だけでなく、トイレの床にも点々と小さな水溜まりが広がっている事に気付く。そして極めつけは便器に着衣のまま座っている事への違和感だ。
須津の年齢と普段の言動から、正解に辿り着くのが遅れてしまった。
「大丈夫だから泣くな。着替えような」
「っく、だって、俺⋯⋯」
「誰にだって失敗はあるさ」
「うぅー、うー!」
思わずブリーチで傷んだ髪に触れると、一層大きく泣き出してしまった。しばらく頭を撫で続けて、落ち着くのを待った。
「須津、ロッカーに体操服置いてないか?」
「⋯⋯無い」
「じゃあ、先生のジャージ貸すから少し待ってな」
「まって⋯⋯!」
一旦職員室に私物を取りに行こうとしたら、上着を掴まれてとめられてしまった。
「すぐ戻る。この時間じゃ誰も来ないから心配するな」
「やだ⋯⋯」
「そう言ってもな」
泣き腫らして赤くなった目元は、普段のクールな表情と違い幼さが強調されていて、思わず引き留められそうになるが、着替えを用意しないと何も手伝ってやれない。
「ほら、こうしたら落ち着くか?」
「ん、」
冷え切った身体を抱き締めて、背中を擦ってやると少し落ち着いたようだ。素直な須津というのは貴重だと思ったのは秘密だ。
「三分で戻る。だから待っててな」
「うん⋯⋯」
ようやく許可が出たので、ドアを閉めておくように言って、職員室まで走る。まだ残っている先生たちに怪しまれない程度に急いで荷物をまとめて、またトイレまでの道程を走った。
「須津、先生だ。開けてくれるか」
「⋯⋯」
須津はとまったはずの涙をまた流しながら、静かにドアを開けてくれた。
「どうした、また悲しくなったのか」
「ん⋯⋯」
もう一度頭を撫でて、袖で涙を拭ってみる。その瞳が戸惑いに揺れていて、普段こうして優しく接した事はなかったなと反省する。
「冷えただろう、早く着替えよう」
「うん、」
返事はするものの、何一つ動こうとしない須津に焦れて、脇の下に手を入れると立ち上がらせる。
「先生がやってもいいか?」
「ん⋯⋯」
確認を取ってから、ベルトのバックルに手をか
け、ファスナーを下げる。スラックスを下ろすと、黒のボクサーパンツがじっとりと湿っているのが見える。パンツもまとめて脱がせると、トイレットペーパーで濡れている部分を拭き取り、俺の私物のジャージを穿かせる。須津には大き過ぎたようなので、内側の紐をぎりぎりまで締めて結び、さらにウエストの部分を折り返して、何とかずり落ちない程度にはなった。
「これだと帰れないか。上も着替えような」
「うん」
ブレザーに下だけジャージでは、いかにもおもらししましたと言っているようで帰り道に恥ずかしい思いをするだろうと、上もジャージを着せる。
須津はずっとされるがままで、本当に幼い子どものようだと思う。
「これでいいだろう。今は具合悪くないか?」
「⋯⋯うん」
濡れた物を掃除用の流し台で軽く洗いながら聞くと小さな返事はあったが、果たして一人で帰れるのだろうか。
「⋯⋯ちょっと待ってなさい。先生も帰るから送って行く」
「っ!」
その言葉を聞くとぱっと顔を上げて、嬉しそうにしている。俺は教師として嫌われていると思っていたんだが、どうやらそうでもないらしい。
職員室に先に上がる報告をして、駐車場に停めた愛車に乗り込む。
「家には一人か?」
「⋯⋯うん」
須津は学校の近くのアパートに一人暮らしと申請が出ていたのを思い出して確認するが、やはり今日も一人のようだった。
スラックスの染み抜きや洗濯方法は分かるだろうか。須津の年齢ではほぼあり得ない失敗をして、一人でまた泣きはしないだろうか。そんな事をぐるぐる考えて、ある提案をしてみる。
「先生の家に来るか?」
「えっ? それっていいの?」
本来、どんな理由があろうと教師が生徒を自宅に招いたりしてはいけない。それを須津も知っているようで聞き返されたが、普段ルールを守らない奴がそれを気にするのか、と少しだけおかしくなった。
「まぁ、今回は特別だ。誰にも言うなよ?」
「うん!」
自宅までドライブする事に決定して、もう一つの疑問を聞いてみる。
「さっきは調子でも悪かったのか?」
「⋯⋯あの、」
「うん?」
「引かない?」
「ああ、もちろん」
どんな話をするつもりなのかは分からないが、生徒が勇気を出して話す事は何だって引くはずはない。
「⋯⋯俺、トイレ近くて、いつもはおむつしてるんだけど、今日は在庫がなくなってて、穿いてなくて⋯⋯最後の授業が終わって油断した⋯⋯」
「そうだったのか」
「⋯⋯うん」
普段からおむつを着用する程にトイレが近いのは初めて知ったし、そんな素振りはなかった。中学校からの申し送りにもそういった事は一切書いていなかった。
「ずっと一人で頑張っていたんだな」
「⋯⋯ん、」
隣からすずっと鼻を啜る音が聞こえて、また泣いているんだなと思う。意外と泣き虫なのかもしれない。
「じゃあ、帰りにおむつ買って行くか?」
「うん、」
近所のドラッグストアに寄る事にして、駐車場に車を停める。
「先生は車で待ってようか?」
「⋯⋯一人はいや」
「分かった。一緒に行こう」
おむつを買う所を見られたくないかと思っての発言だったが、それよりも一人で行く方が嫌らしい。
一緒に車を降りると店内に入る。おむつコーナーを見付け出すと、須津を誘導する。
「普段買うのはあるか?」
「ん、これ」
手に取ったのは、子どもの写真がパッケージに使われている、スーパービッグと書かれたものだった。確かにさっき着替えさせた時に見た体型では、子ども用おむつの方がサイズが合うのかもしれない。
それを会計してもらって店を出ようとした時、トイレの看板が見えたので確認する。
「トイレ大丈夫か?」
「あっ! 行く!」
そう言うと慌ててトイレに駆け込んだ様子に、本当にトイレが近いんだなと思う。今回は間に合ったのだろうか。
数分後、トイレから出てきた須津の顔は少し赤くなっていて、ジャージに目立った染みはないが、もしかしたら小さな失敗をしたのかもしれない。
「間に合ったか?」
「⋯⋯だいたいは」
「ジャージは?」
「少し濡れた⋯⋯」
「帰ったらすぐお風呂だな」
やはり少し間に合わなかったらしく、帰宅したらすぐお湯張りだなと段取りを考える。
車に戻ると、恥ずかしそうにしている須津の頭を撫でてから出発する。
俺が考えていた須津の生徒像は間違っていたんだな。本当の須津の事が知りたくて、色々な話をしてみようと考えながら車を走らせた。
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