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1話
昨日まで、俺は普通の人間だった。なのに、どうしてこんなに人の血が飲みたいんだ。朝目が覚めたら、喉が干乾びたように張り付き、うまく声が出せなかった。
ただひたすらに血がほしい。それだけを考えて、ふらふらと路上を歩く。人がいない。なぜだ、俺は今すぐにでも血が飲みたいというのに。
やみくもに歩いていると、目の前に金髪の男が現れた。その瞬間、俺はその男に襲いかかり、首すじを噛もうとした。
しかし、ボディに重い一発をくらい、背負い投げされた俺は、道路に全身を打ちつけてうめいていた。
「ぐっ、ううっ」
「あーあ、肋骨折れたかもね。これでも飲みな」
渡されたのは、小さな紙パック。パッケージは真っ白で何も書いていないが、匂いでわかる。人の血だ。
それを奪い取って、一晩で伸びた犬歯でパックを噛みちぎり、中身をごくごくと飲み干す。ぽたりと地面に一雫垂れたのを、もったいなくて舐め取る。
あんなに渇いていたのに、今は満腹で、殴られた肋骨はもう痛くなくなっている。そして唐突に、俺は人間じゃなくなったのだと気付いた。
「落ち着いたか?」
「あ、あの、あなたは⋯⋯」
目の前の金髪金眼の男は、目線を合わせるように、ゆっくりとしゃがみ込むと言った。
「俺は吸血鬼。名前はアレクシス。君は、仲間のようだね」
「⋯⋯吸血鬼⋯⋯」
何の冗談か、そう笑い飛ばすことはできなかった。俺は、甘い血の味を身を持って知ってしまった。
「君は人を襲う前に正気に戻れた。だから、大丈夫だよ」
「⋯⋯⋯⋯」
無理矢理、正気に戻された気はするが、この男がいなければ確実に人に害を成していただろう。
「あの、ありがとうございました⋯⋯」
「君みたいな人はたくさんいるよ。さぁ、協会に行こうか」
「きょうかい⋯⋯」
たしか吸血鬼に教会はご法度ではなかったか。今まで何ともなかったのに、怖さからか寒気がする。
「ああ、そっちの教会じゃないよ。吸血鬼を保護する団体ってこと」
「保護する?」
「そう。必要最低限の血液を保障する代わりに、人を襲わないと約束してもらう。そうして、協会は吸血鬼を保護している」
この日本に、保護するほど吸血鬼がいるのだろうか。そう思うが、現実に俺は吸血鬼になってしまったようなので、受け入れる他ない。
「そうだ、君の名前は?」
「望月晴臣です」
「晴臣、よろしくな!」
ニカッと笑い手を差し出す男は、改めて見ると背は高くて体格もよく、モデルのような顔立ちをしているなと思った。
古びた洋館をイメージしていたが、到着した協会はごく普通の一軒家のようだった。
「会長、ちょっと頼むわ」
「おお、新入りかね?」
「さっき路上で会ってね。望月晴臣くんというそうだ」
「そうかそうか、歓迎しよう。ついておいで」
年配の男にうながされ、応接間に入る。
お茶ではなく赤い液体の入ったコップを出されて驚くが、嗅覚も敏感になったのか、匂いでそれがトマトジュースだとわかる。
「これは人間で言う珈琲や紅茶みたいな嗜好品の代わりだね。飲んでみなさい」
「はい、いただきます」
さっきの血のように空腹感は満たされないが、喉は潤って気持ちは満足した。
「それで、晴臣くんはいつからその状態に?」
「えっと、今朝です」
「そうかい。じゃあ昨日何か変わったことは?」
昨日は普通に会社に行って仕事をして、そのまま帰ってきただけのような気がする。
いや、昼休憩の時にサプリをもらって飲んだ。それしか思い当たらないが、そんなことってあるのだろうか。
「どんな些細なことでもいいから言ってみなさい」
「⋯⋯あの、サプリを飲みました」
「ほう? どんな?」
「同期が、海外製の滋養強壮のサプリだと言って、しつこく勧めて来たので⋯⋯」
「それは、どんな形状をしていた?」
「ええと、黒と紫色のカプセルでした」
毒々しい見た目だと思った。海外製だし、正体がわからないものは飲みたくないと何度も断ったが、同期の鈴木は、最近のお前は疲れていて見てられないと言われ、仕方がなく一つだけその場で飲んだのだ。
「まず間違いなく原因はそれでしょうな」
「そんなっ!」
「最近、裏で出回っているんだよ。晴臣くんが言ったのと同じカプセルがね」
「俺が飲んだのは、たった一つですよ!?」
「そう、少量で人間を不可逆的に吸血鬼に変貌させてしまう、劇薬だよ」
俺は言葉を失い、うなだれるしかなかった。まさか、あのカプセルで人生が変わってしまうなんて。絆されずに突き返せばよかった。なぜ飲んでしまったんだろう。
しばらくぼうっとしていると、いつの間にか金髪の男が隣に座っていた。
「晴臣くん、薬の件は協会でも調査しているところなんだ。俺たちが元凶を突き止められずにいるうちに、晴臣くんが被害に遭ってしまって申し訳ない」
「⋯⋯いえ、あなたが謝ることでは⋯⋯」
「アレクシスと名乗ったはずだよ?」
「⋯⋯アレクシスさん、が悪いわけではないので⋯⋯」
「なら、晴臣くんも悪くないだろう? 薬を飲んだ自分を責めているんじゃないか?」
「でも⋯⋯」
「今できることをしよう。少しずつ吸血鬼のことを知ってほしい。俺の仲間を呼んであるんだ」
いくら後悔したって、今を生きるしかないのなら、俺はこの先の人生を吸血鬼として歩むことになる。それなら、その生態を知って行く方が身のためだ。
「よろしくお願いします」
「じゃあ、入ってもらうよ」
アレクシスさんが声をかけると、黒髪をオールバックにした黒い瞳の大柄な男と、ミルクティー色の長髪で碧眼の小さな女の子が入って来た。
「人を殺しそうな方がヴァシリスで、小さいのがフィリモノスだよ」
「初めまして、望月晴臣です」
それぞれに会釈すると、ヴァシリスさんは目の下の隈のせいか、こちらを睨んでいるように見える。
「ヴァシリス、目つき悪いぞ」
「これは元々だ。で、望月くん。協会のルールは聞いたか?」
会長さんから明確なものは示されなかったが、アレクシスさんが最初に言ってたな。
「あ、人を襲わないってやつですか」
「そうだ。それさえ守ってくれれば、こちらで血は提供するし、住むところも用意できる」
「あ、俺は会社員なんですが、今までの生活をすることってできるんでしょうか⋯⋯」
今日が休日でよかった。そうでなければ無断欠勤になるところだった。そう思って、これから会社に行くことは可能なのかと思い至った。
「普通の暮らしを望むなら、そうしたらいい。ただし、健康診断は受けるなよ。数値がおかしなことになる」
「あ、はい」
やはり、人間とは違う存在なんだ。そう思うと少しさみしくなる。
「お兄ちゃん、ぼくと遊ぼう?」
フィリモノスちゃんが近寄って来て、俺の手を引っ張る。
「いいよ、何する?」
「あのね、」
そのまま膝の上に乗ったかと思うと、耳元で何かを言おうとして、アレクシスさんに止められる。
「フィリ、トランプとかにしなさい」
「えー」
「えーじゃないの。晴臣くんを困らせない」
「わかったぁ。じゃあ、このままだっこしてて」
「うーん、いいけど」
楽しいのかな。そう思うけど、小さな温かさは不思議と俺を安心させてくれた。
結局、会長を含めてアレクシスさんたちと連絡先を交換して、何かあったらすぐ呼ぶようにと言われて家に帰ってきた。
一週間分の血液が入った紙パックをもらったので、それを冷蔵庫に入れて、ふとその他の食料品はもういらないのかと思う。
試しに作り置きのおかずや、冷凍ご飯、ビールなど目に付くものを飲み食いしてみたが、特に問題なく腹に収まったし、味覚も変わってはいなかった。俺は本当に吸血鬼なんだろうか。
しかし、そこそこ食べたはずなのに、紙パックを見るとよだれがつう、と流れて、強烈な空腹感に襲われる。
慌てて紙パックのストローをさして血液を流し込むと、一気に大盛りラーメンを食べたかのように満腹になる。
無性に悲しくなって、台所で泣き続けた。
翌朝、ぼんやりする頭で仕事に行かなくてはと思い、スーツに着替えていつも通り出勤する。
まずは鈴木に薬の購入ルートを確認しようとデスクに向かうと、そこには私物が何も置かれていなかった。上司に聞くと辞めたと言われ、事情を尋ねるが、辞表が置いてあって本人と連絡が取れず、それ以上は何もわからないそうだ。
逃げられた。後でアレクシスさんたちにも報告しないとな。
もやもやとした気持ちを抱えながら午前中の仕事をこなして、いつもの流れで昼休憩にファストフード店にきてしまった。
まぁ食べられないわけじゃないしいいか。そう思ってレジで注文しようとして、驚愕のあまり財布を落とした。
「いらっしゃいませー!」
「⋯⋯⋯⋯」
明るく元気に接客してくれたのは、アレクシスさんだった。
「お客様、財布落とされましたよ」
「⋯⋯どうも。なぜここに?」
「クルーですので!」
吸血鬼もバイトをするのか。いや、俺も会社員やってるけど。というか、アレクシスさんの容姿でファストフード店って似合わなさ過ぎる。
徹底した接客ぶりに押されてセットメニューを頼むと、席で待つ。
「お待たせしました! 晴臣くん、会社この近くなの?」
「ありがとう。ああ、すぐそこです」
品物が乗ったトレーを受け取ってアレクシスさんに返事をする。
「何時頃終わる? 帰りにお茶でもしない?」
「えっ、十九時くらいになると思いますが⋯⋯」
「俺も夜までのシフトだから大丈夫! 後で連絡する!」
そう言うとレジへ戻って行ったので、本当に働いてるんだなと思って、アレクシスさんと言う吸血鬼に少しだけ興味が湧いた。
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