26 / 36

泡沫の交わり(1/6)

 薄暗い廊下を、武装した二人の官吏がランプを掲げて歩いて行く。  その足音はどこにも響かない、いや、響かせない。  ここでは……人の気配など在ってはならないのだから。  等間隔に並んだ分厚い扉の向こうからは、時折声が聞こえる。  ……否、それは声と言うにはあまりにも意味をなさない、ただの音と言った方が正確か。  官吏はのぞき窓からチラリと中の様子を見ては、手元の紙に何かを書き込んでいる。 「…………順調だな」  ようやく巡回を終え、控え室に戻った官吏は満足げに頷く。  その表情には途方もない安堵と、少しだけの哀れみが見て取れた。 「ん? ああ、新入りか」 「ええ。四六時中部屋をうろついては時折叫び声を上げるようになりました」 「確か今日で二週間だったな……はっ、元王族だろうがここの塔に来りゃ、皆同じさ。一月もすれば完全に頭がぶっ壊れて、生ける屍のできあがりだ」  さっさと壊れてくれないと、手間がかかるからな! と年長の官吏は大口を開けて笑う。  そうしてそんな上司に複雑な視線を向ける若者に「さっさと慣れないと、こっちが壊れるぞ?」と檄を飛ばすのだった。 「ここはただの幽閉用設備じゃないんだ。……ったく、お貴族様ってのはとち狂ってやがる!良くこんな残酷な仕打ちを考えたもんだな。これなら俺は、死刑の方がよっぽど幸せだと思うぜ!」  ◇◇◇ (82……83……84…………)  ちゃり、ちゃりと纏わり付く金属の音を立てて、ムシュカは部屋の中をただ歩き続ける。  といっても、最低限の家具が何とか入る狭い部屋だ。10歩も歩かぬうちにその足はくるりと踵を返して、今来た道を戻らなければならないのだが。 (107…………108……)  頭の中で唱えるのは、歩いた数。  光を失った瞳でぼんやり足元を見つめて、一歩足を踏み出す度に数を増やして……いたはずなのに、ふっと空白が横切って、全ては水泡に帰して―― (…………いち…………に…………)  暫くぼんやり立ち止まったかと思うと、再び1から数を数え直す、その繰り返しだ。  ――もう、何度数え直したのか、そもそも自分は本当に数え直しているのか、それすらあやふやだけど。 「…………まだ、昼か…………」  歩き疲れたムシュカは、ぽすりとベッドに腰を降ろす。  目の前に広がる風景は何も変わらない。何の装飾もない白い天井、白い壁、白い床、同じ木材で作られたであろうベージュのテーブルと椅子に白いシーツの掛かったベッド……この部屋に存在する色は、白とベージュと、織物の紺地だけ。  時計もないから、時間は格子の付いた小窓から見える太陽と月で把握するしかない。  ……そう、この国の太陽と月がいる時間は一年を通してほぼ変わらないはずなのに、いつからか自分の世界は、月の何倍も長く太陽が君臨するようになってしまったらしい。 「……暇とは……誰とも触れあえないとは……まさしく拷問なのだな……」  敢えて言葉として刻まれたはずの音は、虚しく部屋の中に溶けていって……己の心にすら響かない。  ちゃり、ちゃり、ちゃり……  一定のリズムで鳴り続ける鎖の音は、少しだけ静謐の苦痛を紛らわせてくれる。  出来ればずっとこの音に縋っていたい……そう無意識に懇願するほど、心はこの何も無い世界を――自分という輪郭が奪われる静かな牢獄を、この上なく恐れていた。  ――けれど、ムシュカは気付かない。  その鎖の音は、自らを戒める枷から、無意識に動く手首によって奏でられていることに。 「……私は……このまま、狂ってしまうのだろうな……」  絶望を纏った言葉に籠もる情感は、その事実には似合わぬほどうっすらとしたものだった。  ◇◇◇  ムシュカがこの「新月の塔」に収容されて、二週間が経った。  日に三度の食事と三度のティータイム、そしてシャワーと着替え以外には何もすることのない……することのできない生活は、ゆっくりとしかし確実に、彼の精神を蝕んでいく。 「……扉はもう、開かぬのかもしれぬな」  ノブのない白い鉄の扉が閉じた日以来、ムシュカの耳が人の声を聞いたことは無い。それどころか、足音すらここには存在しないらしい。  部屋に響いたのは、食事を差し入れる盆の滑る音と、着替えのために扉の小窓に腕を差し出し手の鎖を外して貰う時を告げる、濁ったノックの音だけ。  週に一度あると言われた医師の診察こそ言葉を交わせるかと思っていたが、何のことはない、来訪すら告げず、扉に開いたいくつかの小窓を音もなく開けては、無言でざっと見た目を確認するだけのお粗末なもの――    そこに人としての血の通う何かは、全く存在しなかった。  あまりにも無為な昼の長さに耐えかねて、昼寝を試みたこともある。  けれどその先にあったのは、ヴィナがやってこないあの夢の部屋に一人佇むだけという別の意味の孤独で、それきりムシュカはどれだけ苦痛を感じようが……それ故に現実における己の輪郭があやふやになってすら、昼に夢の世界へ赴いたことはない。  ――尤も、孤独な昼は太陽の下で彼が幸せに生きているという証拠であるから、知れた事自体は悪いことではなかったと思う。  カシャン 「…………」  差し入れられた茶と茶菓子の載った盆を、ムシュカは無表情のまま受け取りテーブルへと向かう。  ほかほかと湯気を立てる練乳と砂糖がたっぷり入った紅茶に、スパイスのきいたジャガイモがたっぷり入ったパイはきっと美味なのだろうが、最近では味すら世界から薄らいでいるようだ。  ただ、差し出されたものは口に放り込み、咀嚼し、喉を通す――ムシュカに残っているのはそれだけ。  そして……最近では、この味気ない食事に珍客が増えた。 『んぐ、んぐっ、ぷはっ……!! はぁっ、疲れた身体にはこの甘さが効きますな!! 殿下、このパイも絶品ですぞ!』 「…………」  隣で実に幸せそうに茶菓子を頬張り、眩い笑顔をこちらに向けてくるのは、近衛騎士団の装束に身を包んだ愛しい人。  相変わらず見ていて気持ちよくなるほどの豪快な食べっぷりに、ムシュカの頬も自然と綻ぶ。  こんな味も分からない狂いかけた自分が食べるよりも、彼が食べた方が余程茶菓子も喜ぶであろうとムシュカは皿を彼に寄せようとして……けれど、ふっと寂しい吐息を漏らして小さく首を振った。 「……お主はもう、この世にはいないであろう? ヴィナ」  悲嘆混じりの問いかけを投げたところで、彼は消えてくれない――そう、狂った心が作り出した幻の愛しき人は、食事の度にムシュカの所にやってきては、あの頃と変わらぬ笑顔を振りまいて……皮肉にも彼に現実という痛みを突きつけていく。  これは幻。  私は知っているのだ。  ヴィナは死んだ。そして毎夜夢の中で出会う『彼』は、かつて私が愛した……この幻の偉丈夫とは異なる存在なのだと―― 「……呪いの寝具に、感謝せねばならぬな」  ムシュカは味のない色水を啜り、空虚な笑いをたてる。  そう、図らずとも道を踏み外した願いを立てたお陰で、この東雲の織物は事実を眼前に開陳してくれた。  それは果てしない絶望と痛みを今もムシュカに与え続け、その代わりに彼の足が狂気の世界に踏み出すのをすんでの所で押しとどめてくれている。 「…………にしても、食事の時だけ現れるとは……お主は幻すら食いしん坊なのだな」  気がつけば、外では雲の合間から月がそっと顔を覗かせていた。  一体いつの間に夜になったのであろうか。口の中に残る茶菓子の味も、先ほどまで食べていたものとは明らかに異なっている――  ああ、また一つ壊れたのだなと、ムシュカは心のどこかが剥げ落ちる音を感傷も無く眺め、ごろりとブランケットの上に寝転がった。  ――夜は良い。  この織物のお陰で、何があろうが四刻だけは明晰で幸せなひとときを過ごせるのだから。 「……不思議なものだな」  焦点の合わない瞳が、すぅと瞼に覆われる。  その刹那、ムシュカの胸に過ったのは……暗闇にそっと差し出された蝋燭のような、ほのかな温かさだった。 (彼は、私がずっと願い続けていた『ヴィナ』ではない。分かっているのに……それでも、彼に逢うことを想うだけでこんなにも……胸が切なくて、温かいのだ)  ◇◇◇  しゃらん……しゃらん……  いつもと同じ涼やかな装身具の音に、新太はぱぁっと顔をほころばせ、満面の笑みで「神様、じゃない殿下!!」と呼びかける。 「どちらでもいいと言っておろうに」と苦笑した様子で目の前に降り立つのは、いつもと同じ煌びやかな衣装に身を包んだ新太の推し神様だ。  穏やかに微笑むその顔色は決して悪くないが、日に日に瞳は濁り、力を無くしているのが明らかで。  しかし異変に気付こうが、新太はいつもと変わらず「はぁ、神様は今日も麗しいですねぇ……尊みに溢れているぅ……」とうっとりした表情で心の底からムシュカを褒め称える。  ――かつて……前世を含めて長きにわたり、溢れんばかりに与えられた愛しい人からの賞賛をそのまま返さんがばかりに。 「ふふ……お主も変わらぬな、ヴィナ」 「はいっ! 神様がいれば俺はいつだって幸せですから! あ、尊死だけは気をつけていますから大丈夫ですよ!」 「う、うむ、相変わらずよく分からぬ概念だが、お主が笑顔だと私も嬉しいぞ。……今日も腹の音は立派だしな」 「ぐはっ……記憶を取り戻しても食いしん坊に変わりは無かった……」  諦めろ、地響きがしないだけましではないかとようやく心からの笑みを顔に浮かべたムシュカに(よし、今日も笑顔一つ頂きました!)と新太は心の中でガッツポーズを決める。  記憶が戻ろうが何だろうが、神様が自分の最推しであることに変わりは無い。ならば、自分がすることはただ一つ。  そう、推しを最高の笑顔にするための活動である。 「して……本当に構わぬのか? ヴィナ、お主今は辛いものは得意ではないと言っておったであろう」 「いやぁ、ものは試しかなって! 殿下にお仕えしていた頃の俺は激辛こそ至高、いつか辛さの極みを殿下と分かち合いたいと思っていたみたいですし、もしかしたら記憶と共に食べられるようになったかもなって」 「…………お主、何気に恐ろしいことを考えておったのだな……いや、私もお主のお陰で激辛料理の魅力を知れたのは事実だが、流石に胃や腸が焼けるような強烈さは次の日が大変すぎてどうも……夢の中だけに留めておいた方が良いぞ?」  冷や汗を流すムシュカの手に合わせ、とん、と二つ音を立ててテーブルに現れたのは、見目だけでその辛さが伝わってきそうな濃厚スープの米麺――かつてのヴィナにとっては最期の晩餐となった、曙の森亭の特製激辛米麺である。  香草と柑橘で和らいだ気分にはなるが、濃厚な魚出汁に混じるのはちょっと鼻がひりつくスパイスの香り。旨みと辛みの相乗攻撃が唇から胃までを焼き尽くす、少々冒険心を必要とする美食に二人は思わずゴクリと喉を鳴らす。 「確かにこんな見た目だった記憶が……何かあの頃より辛そうに感じるけど……」 「そうなのか? 私には全く同じ物に見えるが……その辺も異世界に行くと変わるのかもしれんな」 「ま、まあ、食べてみましょっか」  頂きます、と両手を合わせる仕草を不思議そうに眺めるムシュカに「これも今の世界の作法なんですよ」と説明しつつ、新太は箸で麺を掬い、ふぅっと息を吹きかけてほろほろになった魚の身とともにずるんと啜り込んだ。 「あ、うま」  口に含めばふわりと広がるのは、濃厚な魚の旨みと香草の爽やかさ。  大丈夫、これなら食べられるし結構美味しい、そう感想を口にしようとした次の瞬間 「っ、辛っっっっっっら!!! ちょ、みっ水っ、神様っ水おおぉぉ!!」 「なっ、そこまで悶絶するほどであったか!? 待て、ここは水より甘いもののほうが……何がよいかのう……」 「ひいぃぃ何でも良いんで早く下さい神様っ、舌が! 口が! 消化管が焼けただれるううぅ!!」  …………新太の口から上がったのは、まるで黒い煙が立ち上りそうな熱い絶叫だった。

ともだちにシェアしよう!