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今後ともどうぞご贔屓に

 今日のキスはやけに長いな。これが最初の違和感だった。  この佐伯という男は、どうやらキスが好きらしい。口腔内の粘膜を触れ合わせ、唾液を交換する行為。それはペニスをアナルにぶち込むことに比べれば、ほんのわずかに健全で、ほんのわずかに美しいからかもしれない。  だとしても、いくらなんでも今日は。 「……ちょっと」  もういい加減、ここに立っているのも疲れてしまった。部屋に入るなり噛みつかれ、薄いドアに押し当てられた背中が軋む。俺が顔を背けると、佐伯の革靴が大理石風のフロアタイルを小さく鳴らした。 「なに?」 「……や、もう、向こう行かない?」  部屋の中を指さすと、佐伯は両手をドアについたまま、釣られるように振り返った。そして、俺の足の間に差し込んでいる膝をぐっと押し上げる。 「焦れったくなった?」 「……は?」 「我慢できなくなったのかと」  照れ隠しなのか鼻を掻く、短く切りそろえられた爪。艶のあるその爪を見ていると、俺の下腹部に熱が籠った。図星といえば図星だ。 「んなわけ……。時間ないんだろ?」 「……それはそうだけど」  やけに歯切れ悪く呟き、眉間に皺を寄せる。やっぱり今日のこいつは何かおかしい。 「ま、あんたが朝までいたいっつーなら、俺は別に」 「伊藤さん」  目の前の体を押しのけてソファに向かおうとしたら、腕を掴まれた。佐伯の視線が真っ直ぐ俺に刺さり、射抜かれるような心地がする。まるで誰かに首を絞められているとでもいうように、佐伯は頬をピンクに染めて、苦しそうに俺を呼んだ。 「伊藤さん、俺ちょっと怒ってるんです」  こいつのこんな顔、過去にも見たことがある。関係を持ち始めて少しした頃、こんな顔で「本気になりそう」と言われたんだっけ。もう、忘れかけていた記憶。  ――俺が佐伯の結婚を知ったのは、その半年後くらいのことだった。俺はそれまで、婚約者がいることも知らなかったのに。 「何に?」  何に対してであろうと、こいつに怒られる筋合いはない。なのに、この手を振りほどくことができないのは、あの時と同じ感情を抱いてしまっているから。あの時、俺はとっくに本気だった。 「…………名古屋、行っちゃうんですか?」 「ん?」  揺らぐ瞳は、いまだに深刻さを湛えている。だからその突拍子もない言葉に、すぐに反応することができなかった。 「安村さんに聞きました。今まで何で黙ってたんですか?」  その名前を聞き、ようやく合点がいく。安村はうちの営業だ。佐伯の会社を担当している。  俺の愛知転勤の話は、1ヶ月くらい前に突如降って湧いて、すぐに立ち消えてしまった。それがどうして今頃こいつに伝わったのか。 「あぁ、そういうこと……」 「こんなこと言える立場じゃないですけど。でも、ひと言くらい」  いやいや、その話はとっくになくなったし、そもそも愛知県だが名古屋ではない。大体、ひと言くらいって、あんた俺に何を期待している? 結婚さえも事後報告だったくせに?  どこから話そうか迷った挙句、結局何も言葉が出ない。俺は鞄と上着をソファに投げると、佐伯の背後にある浴室に目を向ける。 「と、とりあえず先にシャワー浴びてきます。……するんでしょ?」   釣られて敬語になった俺を、佐伯が小さく笑った。俺はその脇をすり抜けながら、ベルトのバックルに手を掛ける。 ◇◇◇ 「お待たせ」  シャワーを浴びた佐伯が出てきたとき、俺はベッドの上で後輩からのチャットを眺めている最中だった。技術的な相談だが、相当切羽詰まっているようで、真面目な彼には珍しく誤字脱字が目立つ。 「うん」  困っているみたいだから早く返してやらないと。そう思うのに言葉が浮かばない。気が散ってしまうのは、さっきこいつに変なことを言われたせいかもしれない。 「お待たせって。何、仕事してんの?」 「……うん」  生温かいものに体が包まれる。乾燥した空気の中、ほんのり湿り気を帯びた人肌が気持ちいい。そう気を取られた途端に、手の中のスマホを抜き取られてしまった。 「あっ」 「丸見えですよ。御社のセキュリティどーなってんですか?」 「おい、ちょっと」  佐伯は瞼を半分閉じて画面を見るふりをしてから、電源ボタンを押してベッドサイドにそっと置く。 「後でいいだろ?」 「……なんだよ。そっちこそ焦れったくなった?」  小さくため息をついて、先ほど言われたのと同じ言葉を返せば、佐伯は俺を体ごと抱き寄せた。 「うん。我慢できない」  顎を掬われ、再び唇に噛み付かれる。歯と歯がぶつかることを気にするよりも、こいつは情熱的な演出を好むようだった。 「んっ……」  大げさに髪をかき乱し、首筋から順に背中を撫で、俺が唯一身につけているパンツを少しだけずらす。いつもと変わらない佐伯の前戯だが、胸の奥がざわめいてしまう。  ……俺が転勤するとして、だから何だっていうんだ? 「なんか、シャンプー変えた?」 「いや……わかんない」 「そんなことある?」  鼻を鳴らす吐息が擽ったくて、俺は覆いかぶさる佐伯の頭を軽く押し返した。整髪剤のパリパリとした感触に、頭皮の温もりが透けている。 「昨日、自分ちに帰らなかったとか?」 「……っ、それ痛い……」  俺の肌を這っていた唇が乳首の上で止まり、強く吸い上げられた。ひりつく痛みの中、追い打ちを掛けるよう上下の歯に挟まれる。 「いっ…………ち、乳首取れるって……」 「もし取れたらリビングに飾るよ」 「……発想キモすぎ」  息を切らせて口元を拭う、その仕草があまりに色っぽくて、俺は思わず視線を逸らせた。 「キモいとか言うけど」 「……ん、あっ……」 「カラダは正直なんだよな」  敏感になった乳首に、ざらざらとした舌が気持ちいい。パンツの上からチンコを撫でられ、全身の熱がそこに集まっているのが自分でもわかってしまう。思わず俺が腰を浮かせると、佐伯はそれを見逃すことなくサッと下着を剥ぎ取った。 「早く触ってほしいって?」 「……急いでんのはそっちだろ」  奥さんを待たせているんだから。言葉にしなかった台詞を読み取ったのか、佐伯は悲しそうに眉を押し下げた。まるで悲劇の中にいるとでも言うように。  不倫をしているのは、人を騙しているのはこいつ自身なのに。ただ己の快楽のために、平気で人を傷つけて。 「素直じゃないなぁ。強がっちゃって」  佐伯の指が割れ目をなぞる。ひとつながりの皮膚で覆われているくせに、穴の周りは一際感度が高い。 「……んっ、はあっ……」  もしかしたら、期待しすぎているからかもしれない。この後に得られるであろう快感に。 「目、閉じないで。声も我慢しないで」  人懐っこい声で、犬みたいな目で、俺を誘う男。逆らう気にはなれない。俺は自らの口を覆っていた手を、そっとベッドの上に横たえた。佐伯はうっとりとした顔で笑うと、長く伸ばした舌で俺の手首の筋を舐める。 「いい子。そういうとこ、好きだよ」  視線の端で、自分の胸が大きく上下しているのを捉えていた。高揚し火照った体は、これでも酸素が足りないと言う。まともにものを考えることもできず、思いついたことが口をついて出てしまう。 「好きって、何だよ……っ、あっ……」 「好きは好きだろ」  ローションで濡れた指を押し込まれ、上ずった声が喉から漏れる。佐伯は慣れた手つきで内壁を擦り、探し当てた前立腺を弄ぶように揺すり始めた。 「あっ、やっ、そこっ……」 「知ってる。気持ちいいんだろ?」  単調な刺激と、俺を見下ろす佐伯の視線。体よりも先に思考が甘く甘く溶かされていき、俺はあっという間に絶頂まで上り詰めてしまった。 「……っ、あッ、いくっ……」  全身の筋肉が急激に強張り、一気に弛緩していく。後を追うように心臓が強く鼓動するが、穏やかな心地だった。こういう時、佐伯はどこか不安そうな目で俺を見ていて、なぜかそれが癖になる。 「イッた?」 「……うん。すげーきもちい」 「なぁ」  何かを言いかけて、佐伯は俺の唇を奪った。呼吸にさえ嫉妬するみたいに、こいつは俺の自由を許さない。 「俺のも、気持ちよくして。……舐めて」 「いいよ」  起き上がって、いつの間にか下着を脱いでいた佐伯の下半身に触れる。熱く怒張したものに、俺は息を吹き掛け口を近づけた。 「あぁっ……」  仰向けになって、局部を俺に預ける姿。安心しきった佐伯は、わざと当てた歯の刺激にさえ感じているようだった。  情けない声を聞きながら、俺は転勤を持ち掛けられた時のことを思い出していた。進行中の商談がまとまれば、早くて1カ月後には……なんて急な話で。  真っ先に浮かんだのは、こいつのことだった。この関係のこと。ようやく終わりにできるんだって。もう呼び出されることもないんだって。 「それきもちい。もっと……」  亀頭を喉奥に押し当て軽く吸い上げると、佐伯はわかりやすく反応を示す。シャワーを浴びたばかりの陰毛は化学的な匂いを纏っているが、鼻に抜けるのは青臭いオスの匂い。先ほど自分で乱した俺の髪を梳かしながら、佐伯は貪欲に腰を揺らし始めた。 「やば、続けられたら出ちゃいそう」 「……いいよ。俺は」  息継ぎのために口を離して、顔を見上げれば佐伯は短く唸る。 「うぅ……いや、ダメダメ。挿れたい、絶対」 「二回戦すれば」 「無理。ガチガチのときに挿れたい」  駄々っ子のように首をぶんぶんと振って、佐伯は俺の二の腕を掴んで体を引き上げた。 「その方がそっちもイイでしょ?」 「ま、ぶっちゃけな」  起き上がった佐伯がコンドームをつけている間、俺は白いシーツをぼんやりと眺めていた。  初めて佐伯のことを意識したのは夏のことだった。取引先の担当者同士として、山場を越えた打ち上げと称して2人で飲みに行った日。暑いのに、仕事終わりに待ち合わせた佐伯は上着を腕に掛けていて。スラックスに入れたワイシャツは皺一つないように見えるのに、僅かに縒れた腰のところに少しだけ汗が滲んでいて。 「……今日もバックがいい?」 「うん。楽だから」  言いながら四つん這いになると、佐伯が俺のアナルを確かめるようにつついた。そのまま指は俺の中に入り、ローションを塗り込むために数度浅いところを出入りする。 「挿れるね」 「んっ……」  太いものが、狭いところに捩じ込まれた。肺に溜まっていた空気が押し出され、低い音が口と鼻から漏れる。 「……ん、うぅっ……」 「痛くない?」 「い、痛くなんか……っ、あぁっ……」 「あー……きもち……。ナカあったかい」  体を内側から圧迫される苦しみは、すぐに淫猥な快感へとすり替わった。受け入れてしまえば、もう逃れられない。  佐伯への淡い恋心は、気付けば俺を縛る鎖となっていた。結婚したと聞いて、身を引かなかった俺にこいつを責める権利はない。でも、そんな選択肢、俺には……。 「あ゙っ、ぐぅっ……はッ……」  深く穿たれ、強い快感が押し寄せてきた。充血した直腸内は刺激によってさらに熱を上げ、リズミカルな収縮を続けている。  髪を伝った汗が手の甲に落ちた時、俺はそれを涙と見紛った。  心も体も、全部明け渡しても手に入らない。佐伯の「本気」は、俺のそれとは全く違う。 「なぁ、伊藤さんっ……」 「あ゙ぁ?」  行為の最中に名前で呼び掛けられることなんて滅多にない。たったそのひと言で、俺のすべてが過剰な反応を示す。 「俺、名古屋、行きますよ」 「……はあっ……?」 「時々ね、出張とか、あるんで……。その、ときならっ……」 「それって……」  縋るようにシーツを握り締めた時、佐伯の動きが止まる。それから、俺の腰を撫でながら考え事をするように低く唸った。  逃げられると思った。この地獄から。転勤の話を聞いた時、俺の頭の中に真っ先に浮かんだのはそれだった。 「あー……やっぱ顔見たいんで、向き変えていい?」 「……んぁっ…………や、でも」 「枕敷けばちょっとは楽だろ?」  合意もしていないのに、佐伯は俺から自身を引き抜くと、言葉通り俺を仰向けにした。何となく顔を見られたくなくて腕で覆ったまま、再び俺は佐伯に貫かれる。 「ちょっ……勝手にっ……」 「俺に振り回されるの、好きだろ?」  体位を変えると刺さる場所も変わる。両足を担ぐように持ち上げられて、俺はされるがままだった。  嫌いなわけがない。こいつは全てわかって言っている。俺が自分に惚れていることも、離れられないことも。全てこいつの手のひらの上なんだ。  なのに、なんで今さら、こいつは……。 「とっ……遠い、っすよ……」 「何が?」 「転勤の。名古屋、じゃなく、てっ……」 「えっ?」  佐伯はひときわ深く腰を打ち付け、俺の手首を掴む。途端に真剣そうな視線が刺さり、俺は体が強張るのを感じた。  やめてくれ。そんな目で俺を見るな。そんな顔をするな。 「遠いって、どこですか? いや、でも」  俺の一番深いところで、佐伯はぴたりと動きを止めている。  どんどん強くなる鼓動が、体の中を通して伝わってしまいそうだった。 「な、もう……」  喉が震える。佐伯の顔から目を背けられない。苦しそうな、切なそうな表情。まるで、まるで今度こそ、本気で俺のことを……。 「どこでもいい。伊藤さん。会いに行きますよ、俺」  佐伯の爪が手首に食い込む。その瞬間、俺の呼吸は止まり、口角が引き攣り持ち上がった。誤魔化すように、俺は薄く口を開く。 「……だ、だから、遠いって……」  絞り出した声は上擦り掠れていた。ただ、佐伯はそれを合図と受け取ったのか、激しく腰を打ち付け始める。 「さっきから、なんなんすかっ……行きます、って!」 「ぅあっ、やっ、あぁあっ……」  抉るように突き上げられる。腰を引こうにも、腕を掴まれているせいで身動きが取れない。  裸の肌がぶつかる音、ローションが掻き混ぜられる音、俺と佐伯の喘ぎ声。しばらくの間、ただそれらだけが、埃っぽい部屋の中に響いていた。  よく見れば、この部屋の天井にはちゃちなシャンデリア風の照明がついている。床の大理石も、シーツのシルクも、ソファの皮革も、すべてイミテーションだ。こいつによく似合っている。 「あ、あぁっ……くっ、んぅっ……!」  だって、ぜんぶ嘘なんだろ。怒っているなんて。どこへでも行くなんて。  嘘でないと困る。そうでなきゃ、だって俺たちは……。  体の奥でチンコが跳ね上がり脈動する。お互いの熱で溶け合うように、気付けば異物感はなくなっていた。 「あーやべ、もうイッちゃった」 「…………早漏だな」 「名残惜しいって?」  佐伯は一仕事終えたと言わんばかりに、乱暴にチンコを引き抜く。引き攣られた俺の腹が、最後に大きく収縮した。 「んっ……言ってねぇよ」 「なーんだ」  後始末をする背中の、ポコポコと浮かんだ背骨にキスを落とす。塩辛い味は、人間の味だ。汗も涙も精液も、全部似たような味がする。佐伯も、俺も、きっと大して変わらない。 「……佐伯さん。さっきの話」 「何?」  半身を起こした俺と目線を合わせるため、佐伯がベッドに肘をつき、スプリングが小さく軋んだ。俺はまだ紅潮したままの耳に口を寄せて、軽く食むようにして声を吹き込む。 「俺、しないっすよ。転勤なんて」 「…………え?」  みるみる見開かれていく瞳。数秒後、佐伯は大げさに驚いて飛び上がった。 「えぇぇ?! 嘘?! 俺、騙されたってこと?」 「いや。実際、そういう話もあった」 「何で? まさか、俺のために断ったとか?」  上半身を起こすと、少しだけ腰が疼く。俺は背中を擦りながら、その軽口を鼻で笑った。 「んなわけねーだろ」 「はは。だよな」  佐伯がベッドサイドの煙草の箱に手を伸ばす。奥さんに隠しているのは不倫だけではない。喫煙も、こいつは「取引先の担当者」のせいにしている。 「えー、でもそっか。行かないのか、名古屋」 「だから名古屋じゃないって」  佐伯は目を伏せて火をつけたあと、真っ直ぐ俺を見た。睨むような視線に、心臓がきゅっと縮み上がる。 「どう? 伊藤さん。もう一回戦しちゃう?」  薄く煙を吐きながら俺を試す。答えは決まっていると言わんばかりに。 「……あんたが、朝までここにいる気なら」  やっぱり佐伯は何も答えなかった。すべてはいつも通りに戻ったのだ。ベッドから滑り降りて、俺は冷たいスリッパに裸足を突っ込む。 「じゃ、先シャワー浴びてきまっす」 「どーぞ」  甘くて苦い煙は、直接肺に入れれば、もっと罪深い味がするんだろうか。 ◇◇◇  自動ドアを抜けた時、真っ先に目に入ったのはネオンサインだった。冬の冷気にも負けず、ギラギラと輝く電飾は熱気を纏っている。 「大通りまで歩きましょうか」  ふと、佐伯が俺の手に触れた。握るわけでもない、中途半端な行為。俺もそれに応えるように、その指先をちょっと摘んだ。  こいつが男と不倫をする理由なんてわかりきっている。もし今誰かに見られても、風俗だなんだと言い訳ができるのだから。 「俺、アプリでタクシー呼びました」 「へぇ。イケてる」 「俺のだけっすよ。……だから」  言いかけた時、見計らったようにスマートウォッチが振動した。 「あぁ……。それじゃ、また」  佐伯の声は街の煌めきに飲み込まれる。俺は曖昧に手を振りながら、スマホの地図に視線を落とした。  今日もまた、明日への言い逃れを喉奥に潜ませたまま。 了

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