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右手から体温を馴染ませて

「……あ、」  冷蔵庫のドアをあけて中を見てすぐに、牛乳のストックがなくなっていることに気がついた。澪斗が困るだろう。  今朝、二人分のミルクコーヒーを淹れるときにすべて使い切ってしまったことを今更になって思い出した。家を出るときまでは「帰りに牛乳を買ってこなければ」と覚えていたのに。一緒に暮らしている澪斗は、毎晩お風呂上がりに牛乳を飲む習慣があるのだ。 「……買いに行くか」  脱いだばかりのダッフルコートをもう一度羽織って、すこし前にクリスマスプレゼントとして澪斗に貰った濃紺のマフラーを首に巻きつける。リュックから取り出した財布とエコバッグをジーンズのポケットに入れて玄関へと向かう。外の寒さを思い出してぶるりと身体が震えたけれど、買いに行かないという選択肢はなかった。  早く行って早く帰ってこよう……と考えながら玄関ドアに手をかけようとした瞬間、ガチャガチャと金属音が鳴った。すこし立て付けがよくないドアがギィ、と小さく鳴いてすぐにドアが開かれる。冷たい空気と一緒に、俺とおそろいの柔軟剤の匂いがふわりと香った。 「ただいまー……って、なっちゃんどうしたの?今からおでかけ?」 「みお、おかえり。スーパーに行ってくるんだけど、牛乳以外で買ってくるものある?」 「あ、そういえば牛乳なくなりそうだなーって思ってたんだった……」  ちょっと待っててね、と小さくこぼした澪斗はするりと俺の横を抜けて、その言葉通り十数秒後に玄関まで戻ってきた。背負っていたリュックがなくなって、身軽になっている。 「僕も一緒に行くよ」 「でも、外寒いから」 「お喋りしてたら寒さも気にならないし、すぐスーパーに着くでしょ?ね、お散歩デートしようよ」  やだ?と顔を覗き込みながら聞かれて、一瞬言葉に詰まる。「深夜から雪が降るかもしれない」と天気予報で言われていた今夜は、外の気温がとても低い。澪斗には暖かい部屋で休んで待っていてほしいと数十秒前までは思っていた。その気持ちにうそはないけれど、大変魅力的なお誘いに揺れ動く。  きっと澪斗は、俺が彼にそういうふうに聞かれたらよっぽどのことがない限りは断れないということを分かりきっていて聞いているのだろう。人畜無害です、という顔をしながらなかなかずるいことをするときがあるのだ。でも、そんなところも含めて俺は彼が好きなのだと、たぶん澪斗には知られている。付き合いが長いというのは、良いことも悪いこともあるのだ。 「……分かった」 「やった~」  俺の言葉に、澪斗は分かりやすくパッと表情を明るくさせた。スーパーなんてふたりで暮らすようになってから何十回も一緒に行っているというのに、澪斗はいつも浮き立ったようにそわそわしている。……顔に出ないだけで俺も落ち着きがなくなってしまうし、心が跳ねるような気持ちになっているのだけれども。絶対に叶うことがないと思って一度諦めた恋が実ってから、いつまでも浮かれ気分が抜けない。  澪斗と一緒に暮らしているのだと実感するのは、こういう「昔は特別」だったちょっとしたことが「今は当たり前」の日常に変わっていると気がついた瞬間だ。当たり前の日常に変化していたとしても、ちょっとしたイベント気分なのも、心臓の鼓動がいつもよりもうるさくなるのも、何年経ってもずっと変わらない。たぶんこの先、もっともっと気づく回数が増えていっても、俺はその度に同じことを思うのだろう。 「うわ、寒……」  家から一歩出てすぐ、いつも以上に冷たい外気が剥き出しの皮膚に触れた。喉からぽろりと声が漏れ出る。逃げるように飛び乗ったエレベーターも暖かくはなくて肩を落とした。真冬だからこればかりは仕方がないと頭では分かっているけれど、身体は思考についてきてくれない。 「もう本格的に冬って感じだよねぇ」 「カレンダー上はもう春が近いんだけどなあ」  エレベーターから降りてエントランスホールを抜けてマンションの外に出ると、先ほどまでとは比べ物にならないくらいの冷たい外気が肌に触れて反射的に身体が震えた。はあ、と吐いた息はもくもくと立ちのぼる煙のようで、雪のように真っ白だ。 「ねえなっちゃん、今日の夜遅くに雪降るかもって知ってた?」 「ああ、みおも知ってたんだ。寒いのも納得だなって思ってた」 「あはは。なっちゃんの息、わたあめみたいだね」 「みおの息もだろ」  ふわふわと冬の気温に浮かぶ雲のような息をふたりでこぼしながら、歩き慣れた道を辿る。いつもよりも人通りが少ないのは、天気予報の影響だろうか。 「あ、そうだ」 「どうしたの?何か忘れ物?」 「いや……」  すぐ隣を歩く澪斗を見上げる。クエスチョンマークを頭上に浮かべているような表情でじっと俺を見つめる澪斗の冷たいてのひらをぎゅっと握った。そのまま、コートのポケットに突っ込む。 「えっ、なっちゃん?」 「みお、手袋してないし手冷たいだろ」 「そうだけど、でも、なっちゃんの手が冷たくなっちゃうよ」 「うれしくない?嫌?」 「う、うれしいけど……」  観念しました、と言っているような声で呟くようにそう言う澪斗がおかしくて、思わずくすくすと声を出して笑ってしまった。澪斗はよく──おそらく無意識的に、俺にかわいいと言う。だが、澪斗のほうがこんなにもかわいい。本人には自覚がないのだろうけれど、そう思っているのは俺だけではないだろう。本当は一人占めしたい、と思っていると澪斗に知られたら、彼はどういう顔をするのだろうか。  繋いだ澪斗のてのひらはひんやりと外気と同じくらい冷たかった。繋がっているてのひらからじんわりと溶け合うような感覚が気持ちいい。みお、早く俺の温度になってよ。 「……そういえば」 「うん?」 「みおっていつから毎晩牛乳飲んでるの?一緒に住み始めてから知ったけど、ちょっと意外だったかも」 「え、そう?」 「うん。だって、必要ないんじゃ……」  じ、と澪斗の瞳を見上げる。澪斗を見上げるようになったのはいつからだっただろうか。特に意識していなかったのでいつからだったかは覚えていないけれど、幼い頃は俺のほうが背が高かったはずだ。 「えーっと、その……」と歯切れの悪い様子の澪斗は俺からパッと視線を逸らした。澪斗は本当にうそがつけないな、と改めて思う。 「みお?」 「その……、さ。僕って昔、身体が弱かったし、なっちゃんより背も低かったでしょ?」 「そうだね」 「だからその、早くもっと大きくなりたくて……小さい頃から飲んでるうちに、習慣化したの」  あと、牛乳飲むとなんだか体調がよくなるっていうのもあるかな、と言いながら「はい、この話おわり!」と紡いで、繋いでいるポケットの中の手をぐいぐいと引かれる。分かりやすい照れ隠しだ。 「俺もこれから毎日飲もうかな」 「えぇ、なっちゃんはいいよ」 「なんで」 「だって……いや、やっぱりなんでもない」 「みお」 「う~……なっちゃん、言っても怒らない?」 「内容による」 「じゃあやめとく」 「澪斗」 「……だって、だってね。今、なっちゃんをぎゅって抱きしめたときに、すっぽりと僕の腕の中に収まる感じが好きで……」 「……」 「お、怒った?あっ、なっちゃんが小さいって言ってるわけじゃなくてね!」  全力で慌てて否定する澪斗に思わず頬が緩む。 「分かってるよ」と言いながら、その口元が澪斗に見えないようにマフラーに顔を埋めたのだった。

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