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第1話

 だし汁を作るために長時間火を入れた炊事場は、ほのかに熱を帯びて心地よい具合になっている。  小麦粉と藕粉(ぐうふん)というレンコンの澱粉を混ぜ合わせ、光圀は麺を作っていた。  水戸藩主が離れ屋を人払いして、よもや料理に精を出しているとは家臣たちも思いはしまい。  藩主になってからの数年、光圀はまじめに仕事をこなしていた。  どこから迷い込んだのか、炊事場に季節はずれの白い蝶がひらりひらりと舞っている。  手にしていた包丁を一振りすると、蝶はふたつに割れ、はらりと二枚の紙になって落ちた。 「やっと来たか」  光圀が誰もいるはずのない座敷に向かって声をかける。  こんなくだらぬことに式神を使うのは、あの男しかいない。 「なにやら珍しい馳走を食せると伺ったものですから」  いつのまに現れたのか、江戸の町では、かなり目立つ狩衣姿の男が炊事場と座敷の境に立っていた。  光圀ほどではないが、かなりの背丈だ。  陰陽師を生業にしている土御門(つちみかど)道月(どうげつ)、光圀が、かぶいていた十代からの顔馴染みである。  知り合った当時は、道月の化け物退治に手を貸したりもした。  金にあざとい道月は、稼ぎのすべてを懐に入れた。  それでも光圀に不満はなかった。  ただ刺激を求めていた、それと少しの充足感。 「嗅いだことのない香り」  光圀より年上の道月は、すでに四十中頃。  まるで時を止めたかのような容姿に、道月こそが化け物ではないかと思えども驚きはなかった。  この男の(よわい)を重ねた姿など想像できない。 「いい香りだろ。豚の腿を塩漬けにした火腿(フオトェイ)という物を煮込んでだしを取った。儒学者の朱舜水が教えくれたものだ。さらりとした塩味の汁と麺が相まって、かなり美味でな」  明から亡命してきた朱舜水から、珍しい食や物などの話を聞くのが楽しみだった。 「ほれ、汁そばだ」  湯気の立った中身が飛び出しそうな勢いで、光圀は汁そばの入った碗を道月に差し出した。 「なにをしておる、早く座れ! こいつは、熱いうちにすするのがだんぜん旨い。それから、五辛はぜったいかかせぬぞ、ここが肝心だ。韮、落橋、葱に大蒜と生姜、わかったか」  床にでんと胡坐をかき、光圀は碗に薬味を入れた。  道月が仕方ないといったていで、光圀の横に座り麺を口にする。  視界の端にとらえた細身の道月は、武士の光圀とは違い、狩衣に烏帽子がよく似合う。いかにも貴族といった雰囲気が滲み出ている。  光圀とは違う素姓のせいもあるのか、反発と憧れを抱かせる稀有な存在だ。 「どうだ、旨かろう」 「まあまあだな」  そっけない物言いだが、これが道月にとって最大級の褒め言葉だと光圀は受け取った。道月は捻くれたところがある。  七年前、光圀は短い期間ではあったが結婚生活を共にした泰姫に先立たれた。  その光圀の前に八年ぶりに現れた時も、天邪鬼な態度で励ましてくれた。  それからしばらくして光圀が水戸の藩主になると、道月は再び姿を消した。  あの時、様々な負の想いから気を紛らしてくれた礼を、光圀はまだ言えていない。  久々に江戸へ舞い戻った道月に光國は感謝を込め、汁そばを振る舞おうと考えた。光圀以上に新し物好きの道月だが、誘いに乗るかどうか確信は持てなかった。 「あの時は……すまん」  日頃大声の光圀だが、照れ臭さからつい呟きのようになる。 「はて、あの時とは」 「泰姫が亡くなった頃のことだ」 「あの日のことが忘れられないと」 「戯れ言はよせ! 二度もおぬしなどに後ろを取られるものか!」  当時、気分の萎えていた光圀に、たまには目新しいことをしてみないかと道月が提案した。  新奇好きの光圀は、道月の誘いを断りきれなかった。  光圀に抱かれているときの道月が、いつも気持ちよさそうにしていたからだ。  気が滅入るときは快楽に溺れるのもいい、実に短絡的な考えだった。 「あの夜の十郎は想像以上に可愛らしかった」  昔の仮名を道月に呼ばれると、心の奥底に火が灯ったように熱くなる。 「たわけたことを! もしや、おぬし、わざとか」  道月が浮かべた笑みに虫唾が走る。  男を我が身に受け入れることが、あれほど痛みをともなうものとは思ってもみなかった。  男同士のそれは、男女のように互いが気持ちよくなれないものだと身に染みた。 「あの頃はあなた様と違い、不慣れでしたゆえ。今でしたらこの世の物と思えぬ快楽を差し上げてご覧に入れましょう」  いつの間にか息のふれあうほどの距離に縮まっていた。  雪のように白く優艶な顔に、身の危険を忘れ光圀は見惚れた。  唇の形を辿っていくざらついた感触がむずがゆい。 「うっ……ああーっ!」  艶のこもった声が光圀の口から零れ落ちる。  こんな声を万が一、家臣に聞かれてしまったらと思うほどに理性はあった。 「この程度で感じているのですか」 「たわけ。汁そばの味がする口吸いで満足させられると思っておるのか」  光圀は余裕の笑みを作る。 「強がりを。やはり、優しく抱かずしてよかった。快楽に溺れたあなたが、他の男に喜んで躰を開くと思うとあまり気持ちいいものではありませんから」 「まるで人を淫乱のように申すではない!」  怒鳴りながらも、どこか心許ない。  子種を落として災いを招いてはいけないと、若い頃から女には歯止めがきいた。  だが男の味、否、道月を知ってからは、本当に自制心があるのか怪しくなる。  もし抱かれることの快楽を知ってしまったらと、思い至った考えに光圀は身震いした。  ふっと甘い息をつくと、道月の顔に妖艶な笑みが浮かぶ。  期待の籠もった視線が蜘蛛の糸のように絡む。  日頃すべてを見透かし悟りきった仏像のような顔の道月だが、こういう時は俗世の生き物になる。 ――否! 俗物以上だから始末に負えない 「俺が欲しいか」  光圀が耳元へそっと囁くと、道月はつっと視線を斜め下へ落とす。  せめてもの抵抗のような態度だが、うっすらと朱を指した目元が誘っているとしか思えない。  諦めの悪い男に言い訳を与えてやる。 「諦めろ。俺が我慢できぬ」 ― 完 ―

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