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第1話 プロローグ

1. 鉄の繭 基地の冬は、五感を麻痺させるほどに鋭い。 格納庫の巨大な鉄扉が軋む音を立てて閉まると、外の世界の吹雪は遮断され、代わりに重油と金属、そして張り詰めた沈黙が支配する空間が広がる。 真島直人は、脚立の上で身を乗り出し、F-2戦闘機の心臓部へと手を伸ばしていた。 厚手の作業グローブを脱ぎ、剥き出しになった指先が、氷のように冷え切った機体に触れる。 指の腹で、ボルトの一本一本をなぞる。 視覚ではなく、指先に伝わる微かな振動の残響だけで、機体の「健康状態」を読み取っていく。 「……よし。エンジン、異常なし」 独り言が、白く濁って消えた。 直人は、機体の側面をポン、と軽く叩いた。それは、長年連れ添った相棒の肩を抱くような、無意識の仕草だった。 脚立を降りると、使い古されたツナギの膝についた黒いオイルの染みを、無造作に払う。 真島直人、33歳。 整備班長という肩書きは、彼の背中に重く、けれど確かな誇りとして載っている。 「真島が触れた機体は、絶対に落ちない」 パイロットたちの間で囁かれるその言葉は、彼にとっての勲章であり、同時に、一歩も退けない断崖絶壁でもあった。 「班長。コーヒー、淹れましたよ」 部下の佐藤が、湯気の立つ紙コップを差し出してきた。 直人はそれを受け取り、凍えた指を温めるように包み込む。 一口。 安物の苦味が喉を通り、ようやく身体の芯が微かに解けた気がした。 「……佐藤。明日のフライト、一番機は特に念入りに見とけ。さっき、左翼の反応が僅かに鈍かった」 「えっ、数値は正常でしたけど……」 「数値に出る前の、音だ。……聞き逃すなよ」 直人は紙コップを口に運びながら、格納庫の隅に視線をやった。 そこには、数年前まで横にいたはずの、柔らかな笑顔の記憶が微かに揺れている。 若くして逝った妻の面影。 今の直人の世界は、12歳になる娘・美月の寝顔を守ることと、この巨大な鉄の翼を空へ送り出すこと。 その二つの軸だけで、辛うじて均衡を保っていた。 2. 碧い衝撃 「班長! 本日付で配属されたパイロットが、挨拶に来ています」 格納庫の入口から、佐藤が声を張り上げた。 直人は作業着の汚れを再度払い、ゆっくりと背筋を伸ばす。 整備士としての矜持が、無意識に表情を険しくさせた。 新しい乗り手。 自分の機体を預ける相手が、信頼に足る男かどうか。それを確かめるのが、整備班長の最初の儀式だった。 逆光の中に、その人影はあった。 格納庫に差し込む冬の淡い光を背負い、一歩、また一歩と近づいてくる。 コンクリートを叩くブーツの音が、規則正しく響く。 「――本日付で配属されました。橘レオン二等空尉です。よろしくお願いします、班長」 若者の声は、驚くほど澄んでいた。 だが、その奥には、北風を切り裂くような鋭利な響きが潜んでいる。 直人は、視線を上げた。 そこにいたのは、冬の空気そのものを纏ったような、凛とした佇まいの若者だった。 明るい茶色の髪が、照明の下で金色の光を放っている。 そして、何よりも直人の目を射抜いたのは、その瞳だった。 吸い込まれるような、碧。 冷徹なほどに美しいその色彩が、逃げることを許さない強さで直人を捉えていた。 「……真島だ。整備班を預かってる」 直人は、無意識に息を整え、右手を差し出した。 若き「プリンス」。 基地内で噂されていたエリートの登場に、整備士たちの間に微かなさざめきが広がる。 だが、レオンは周囲の反応など一切眼中にない様子で、直人の目だけを真っ直ぐに見つめていた。 二人の手が、触れ合った。 「……ッ」 直人の肩が、微かに跳ねた。 握り合わされたレオンの手は、大きくパイロットらしく引き締まっている。 だが、そこから伝わってきたのは、凍てついた外気とは正反対の、猛烈な「熱」だった。 グローブ越しではない。 掌と掌が重なり合った場所から、電撃のような熱量が、直人の腕を伝って胸の奥へと駆け抜ける。 「はい。……お噂は伺っていました」 レオンの声が、一段低くなった。 握る力が、僅かに強まる。 「あなたの整備した機体に乗れることを、心より光栄に思います。……真島班長」 レオンの唇が、控えめに、けれど確かに弧を描いた。 その完璧な微笑み。 直人は、眩しさに目を細めるように、一瞬だけ視線を泳がせた。 (……なんだ、今の感覚は) 胸の奥が、激しく波立つ。 単なる挨拶。 初対面の部下との、形式的な握手。 それだけのはずなのに、直人の記憶の最深部で、重い鉄の扉がギィと音を立てて開いた気がした。 「……ああ、よろしく。俺の整備した機体だ。安心して乗ってくれ」 直人は、無理やり手を引き抜くようにして離した。 掌に残る熱を隠すように、作業着のポケットに突っ込む。 レオンは、拒絶されたとも取れるその仕草に、表情を変えることはなかった。 ただ、その碧い瞳の奥に、言葉にはできない濃密な光を宿したまま、直人の顔をじっと見つめ続けていた。 3. 十五年前の落とし物 「パパ、おかえり!」 玄関を開けると、美月の明るい声が迎えてくれた。 シチューの温かな匂いが、凍りついた身体を解きほぐしていく。 「ああ、ただいま。……いい匂いだな」 「今日はね、学校でね……」 美月の弾むような話を聞きながら、直人は無意識に自分の右手を見つめていた。 橘レオン。 あの若きパイロットの、碧い瞳と、あの熱。 食事を終え、風呂に浸かっても、その感触が肌にこびりついて離れない。 (……どっかで、会ったことがあったか?) 湯煙の中で、直人は古い記憶の糸を辿り始めた。 自衛官になったばかりの、18歳の冬。 基地の一般開放日。 人混みの中で、雪にまみれて泣きじゃくっていた、小さな少年。 『パパとママが、いないの……』 震える少年の手を引いて、迷子センターまで歩いた。 その小さな手は、今のレオンと同じように、驚くほど熱かった。 別れ際、少年は直人のツナギの裾を、ちぎれんばかりの力で握りしめた。 『僕も……。僕もいつか、格好いい自衛官になって、空を飛びたい!』 『ああ。……頑張れよ。空で待ってるからな』 そう言って、少年の頭を撫でた記憶。 少年の瞳は、冬の空のように青かった。 「……まさかな」 直人は、苦笑いをして顔を洗った。 15年も前の、たった一日の出来事だ。 あの時の子供が、自分を追って空を飛んでいるなんて。 そんな夢のような話、あるはずがない。 直人はタオルで乱暴に頭を拭くと、鏡の中の自分に言い聞かせるように呟いた。 「考えすぎだ。……寝よう」 4. 静かなる執念 一方、静寂に包まれた夜の格納庫。 警衛の足音も遠のいた闇の中で、一人の人影が、F-2の巨大な影に寄り添っていた。 橘レオン。 彼は、直人が先ほどまで触れていたはずの主翼に、そっと掌を重ねた。 冷たい鉄の感触。 だが、彼の脳裏に再生されているのは、先ほど握り合った「真島直人」の手の感触だけだった。 「……ようやく。ようやく、隣に立てた」 レオンの呟きは、誰に届くこともなく、雪の中に吸い込まれていく。 十五年。 あの雪の日、迷子になった自分を救い上げてくれた、温かな手。 絶望の中で見上げた、あの広くて逞しい背中。 あの日から、レオンの時間は止まっていた。 あの背中に追いつくこと。 あの人の機体に乗り、自分の存在を証明すること。 その一念だけで、彼は地獄のような訓練を耐え抜き、エリートの座を掴み取った。 「十五年、待ったんですよ。直人さん」 レオンは、先ほど直人と触れ合った自分の右手を、じっと見つめた。 その瞳には、昼間の凛とした輝きはない。 そこにあるのは、底なしの暗闇を湛えた、歪なまでの「執着」だった。 再会した瞬間、直人が自分を忘れていることは分かっていた。 それでもいい。 これから、刻み込んでやればいい。 自分の名前を、自分の声を、自分の熱を。 あの人が守る機体に乗るだけでなく、あの人の人生そのものを、自分の翼で覆い尽くすまで。 「絶対に、逃がさない。……たとえ、あなたが何を望もうとも」 レオンは、ゆっくりと右手を握りしめた。 その拳の中には、もはや直人への憧れなど残っていなかった。 あるのは、すべてを焼き尽くすような、剥き出しの独占欲だけだ。 基地の夜は、深く、冷たい。 降り積もる雪は、これから始まる「獲物」と「ハンター」の物語を、静かに、残酷に覆い隠そうとしていた。

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