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第21話 自由という名の鎖、愛の器

1. 予兆:琥珀色の静寂と、忍び寄る熱 基地から車でわずか10分。 田園風景をなぞる一本道は、数日前の嵐が嘘のように穏やかな夕焼けに染まっていた。 直人はハンドルの上で指をトントンと叩きながら、 先行する黒いSUV—— レオンが運転する愛車——を後ろからを眺めていた。 (……あいつ、今日は一度も目が合わなかったな) 基地にいる間のレオンは、完璧な「氷の王子」だ。 だが、直人というフィルターを通せば、 その仮面の裏にあるわずかな歪みはすぐに見抜ける。 地下駐車場に車を停め、エレベーターホールへ向かうと、 先に着いていたレオンが、まるで迷子のような顔をして待っていた。 2. 閉鎖空間:他人の目を盗んだ「縋り」 「……お疲れ様です、直人さん」 レオンの声は、いつもの艶を含んでいるようでいて、 どこか湿り気を帯びていた。 エレベーターに乗り込み、上昇が始まる。 密閉された数平米の空間。 レオンが音もなく背後から距離を詰めた。 「おい、レオン……」 直人がたしなめる間もなく、 レオンの長い指が、直人の手を握り指を絡める。 それだけでは足りないと言わんばかりに、 レオンは直人の肩口に顔を寄せ、その匂いを確かめるように深く息を吸い込んだ。 「……直人さんの匂いがします。使い込まれた油の匂いと、微かに混じる、仕事終わりのあなたの熱い汗の匂い。……僕を、一番安心させてくれる匂いだ」 「……お前なぁ、変な趣味してんな」 「いいんです。この匂いを嗅ぐために今日1日頑張ったんです」 「……毎日嗅いでるだろ」 レオンは直人の項に鼻先を押し当て、微かに震える吐息を漏らす。 その仕草は、エリートパイロットとしての矜持をかなぐり捨てた、 直人だけに向けられた無防備な執着だった。 直人は、背中に感じるレオンの心音が、 いつもより少しだけ速いことに気づき、無言でその手に自分の手を重ねた。 「……部屋に着くまで待て。そんなに焦らなくても、俺はどこにも行ねえよ」 「……本当ですか? 約束してください。……何があっても、僕を独りにしないと」 エレベーターの電子音が鳴り、ドアが開く。 レオンは名残惜しそうに指を解いたが、玄関までの短い廊下でも、 その歩幅をぴったりと直人に合わせ、片時も身体を離そうとしなかった。 3. 独白:直人だけにさらけ出す「壊れた」甘え 部屋に入り、ドアが閉まった瞬間のことだった。 カチャリと鍵が閉まる音を合図にするように、 レオンは靴を脱ぐのももどかしいといった様子で、直人を再び背中から抱きすくめた。 「ちょっと待て、着替えさせろ……」 「嫌です。……あと10分。いえ、もっとこのまま。……今は、直人さんの匂いを嗅いでいないと、自分がどこにいるのか分からなくなりそうなんです」 リビングの真ん中で、レオンは直人の項に顔を埋め、深く、深く呼吸を繰り返す。その腕の力は、直人が「痛い」と感じるほどに強く、何かから自分を必死に繋ぎ止めているようだった。 「……何かあったな。司令にでも呼び出されたか?」 直人の問いに、レオンは答える代わりに、抱きしめる腕にさらに力を込めた。 「……昇進試験の話をされました。これを受ければ、僕は地上に降ります。現場を離れ、管理や指揮の側へ。……もう二度と、落雷に怯えて空を飛ばなくて済む。あなたの待つこの部屋に、必ず帰ってこられる道です。あなたが『飛ばなくていい』って、僕をここに繋ぎ止めてくれたら、僕は今すぐ、この翼を捨ててあなただけのものになれるのに……」 レオンの声は、今にも泣き出しそうに震えていた。 4. 直人の断罪:向き合うための「突き放し」 直人は、自分の背中に預けられたレオンの重みを受け止めながら、 ポンポンと一定のリズムでその腕を叩き続けた。 その温もりは優しく、けれど直人の心は冷静だった。 このままレオンの甘えに流されることは、 この男を一生「自分」という籠に閉じ込めることになると確信していたからだ。 直人は、重い決意を持って、 自分を抱きしめるレオンの腕をゆっくりと、けれど拒絶するように解いた。 「……レオン、俺を見ろ」 直人はその場でくるりと身体を反転させ、 自分より一回り大きなレオンと正面から向き合った。 不意に腕の中から温もりが消えたことに、 レオンは捨てられた子供のような、絶望に満ちた瞳を向ける。 直人はその頬を、油と汗に塗れた、硬く無骨な両手で挟み込むようにして固定した。 「馬鹿を言うな。……俺が言ったから飛ばないなんて、そんなつまらねえ理由で自分の道を決めるなよ。俺は、お前をここに縛り付けておくための重石になんてなりたくねえ」 「……っ、でも僕は……! あなたを失うのが、あなたが独りになるのが怖いんです……!」 「レオン、黙って聞け。……俺は、お前が空を飛んでいようが、地上で泥臭く書類を書いていようが、どっちだっていいんだよ。空を飛ぶお前が特別なんじゃねえ。お前がお前らしく笑ってるのが一番なんだ。……お前を閉じ込めておける場所なんてどこにもないし、俺もそんなことしたくねえよ。お前が『ここがいい』って思う場所を、自分で選べ。どこにいたって、俺がお前の居場所であることは変わらねえんだからな」 直人は、突き放すような厳しい口調の中に、逃れようのない深い慈しみを込めた。 5. 儀式:解けていく緊張と重なる唇 直人はようやく頬から手を離した。 緊張の糸が切れたように、レオンはソファに崩れ落ちるように座った。 テーブルの上には、先ほどレオンが置いた一通の封書 ——昇進試験の案内が、琥珀色の夕日に照らされている。 直人は、レオンの隣に腰を下ろし、顔をじっと見つめた。 そして、その無骨で荒れた手で、レオンの制服の襟元へゆっくりと指を伸ばした。 (……ったく、こいつは。……こんなところまでガチガチにしやがって) 直人は、レオンの喉元を締め付けていたネクタイの結び目を緩め、 さらに第一ボタンを、丁寧に、けれど躊躇なく外した。 制服の硬い襟を少しだけ外側へ広げてやる。 「……っ、直人さん……」 レオンが、縋り付くような声を漏らす。 直人はその声を遮るように、 座り込んだレオンの頭をぐいと引き寄せ、自分の胸の中へ抱きしめた。 「……怖かったんだな。俺を独りにすることも。自分がいなくなることも」 直人の低い声が、レオンの耳に心地よく響く。 直人はレオンの金髪に太い指を滑らせ、 その背中を大きく、ゆったりと包み込むように抱きしめた。 直人は、腕の中で震えるレオンをさらに深く迎え入れると、 その柔らかな金髪が渦巻くつむじに、一度、深く唇を押し当てた。 「……直人、さん……」 レオンの肩が跳ねる。 直人は構わず、次にレオンの広い額を覆う前髪を分け、 そこへ誓いを立てるように唇を落とした。 レオンの瞼が震え、固く閉じられる。 直人はそのまま、目尻へ、慈しむように何度も口づけを重ねた。 「……ここにいろ。俺がここにいる。お前がどこへ行こうと、何を選ぼうと、お前の帰る場所はここだけだ」 直人の吐息が、レオンの頬を撫でる。 荒れた手のひらでレオンの輪郭をなぞり、 次は火照った頬へ。 最後には、迷いと渇望で震え続けるその唇を、 直人の厚い唇が静かに、そして逃れられないほど深く塞いだ。 それは、嵐の後の凪のような、静かで、けれど圧倒的な力強さを持った口づけだった。 レオンの身体から、ようやく不自然な力が抜けていく。 指先にまで通っていた強張りが、直人の温度に溶かされ、 レオンは完全に直人の胸の中へと沈み込んだ。 「……本当に、敵いませんね。あなたは、僕が思っているよりもずっと、僕を自由にさせてくれる」 レオンがようやく、心からの微笑みを浮かべた。 「……もう少しだけ、悩ませてください。でも、もう迷ってはいません。……僕が、あなたの一番の誇りであり続けられる道を、僕自身で選びます」 「勝手にしろ。……ところで、今日の晩飯はなんだ?今日は俺が作る番じゃないからな」 直人のぶっきらぼうな照れ隠しに、レオンは「ふふっ」と声を上げて笑った。 琥珀色の光と共に、二人の秘密を宿した夜が静かに更けていく。

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