42 / 42

名前

 日も陰り薄暗くなってきた村の中を、足早に進む人影がひとつ。  雪は風とともに強くなり、視界を白く染めてゆく。  ノックの音に、カースは扉を開けた。 「カースっ」 「とにかく入れ」  男は、自分を一目見るなり破顔した青年に苦笑を浮かべつつ、その肩をぐいと中に引き込むと扉を閉めた。  風とともに勢いよく室内に飛び込んだ雪が、力を失いふわりと舞い落ちる。 「どうだった? 見ててくれた?」  目深に被っていたフードを脱ぎつつ、青年が期待を浮かべて尋ねる。 「ああ、立派だったよ」  ふ。と口角を上げて、森色の瞳が緩やかに青年を撫でた。 「そっかー、ふふふ」  簡潔に褒められて、青年は尻尾をブンブンと振る仔犬のように体を揺らす。 「お前一人か?」  扉の外に、人の気配はない。それでも男は念のため尋ねた。 「うん」 「あの従者はどうした」 「ロッソは……俺の身代わりになってくれた」 「ん?」  どこか不穏なその単語に、カースはリンデルの次の言葉を待つ。 「俺は日中の疲れが出て、宿で休んでることになってるんだ」 「……それでそんな格好で来たのか」  カースは僅かに入ってしまった肩の力を抜きながら、金色の青年を上から下まで眺めた。  リンデルは、ラフな普段着の上から全身を包むようにローブを着ていた。  ちょうど雪も吹雪になりつつある今なら、そう怪しい格好でもないだろう。 (しかし、あの従者が、こいつを一人にするなんてな……)  カースがどこか信じられないような顔をしているので、リンデルは小さく苦笑する。 「俺だって、村の中くらい一人で歩けるよ」 「夕飯は済ませたのか?」 「ううん、まだ。だってカースのシチュー食べる約束したよね?」 「……毒見はいいのか?」 「カースは、ロッソに信頼されてるんだよ」  リンデルの濡れたローブを片腕で器用に干していたカースが、その言葉に振り返る。  ……そうなのだろうか。  こんな、呪われた俺を?  そう長く、共に過ごしたわけでもないのに?  それどころか、今日なんて、あの従者を殺気で炙ってしまったと言うのに。 「……早く名を決めないと、な……」  あの従者の顔を思い浮かべて、カースはポツリと呟いた。 「名前……?」  リンデルが首を傾げる。 「ああ、俺の呼び名だ」 「カース……?」 「……お前がその言葉を口にするのは良くないようだ」  カースはリンデルを椅子へ座らせると、食事の用意を始める。  先にほんの少しの酒を出されて、リンデルはそれに口を付けた。 「ロッソが、そんなこと言ったんだ……」 「責めてやるなよ? あの従者は間違っちゃいない」 「……」  リンデルは両手で酒の入った小さなグラスを包んでいる。  その水面を、じっと見つめていた。 「考えてはみたんだが、なかなかこれというのが思いつかなくてな」  リンデルは何も言わなかった。  しばらく、二人の間には食事を用意する音だけが続いた。 「……カースの、本当の名前はなんていうの?」  静かな声だった。  問われた男が振り返ると、金色の瞳が真摯に男を見つめていた。  墓の前でロッソに言われた言葉が、耳に蘇る。  もう二度と、聞くことはないだろうと思っていたその名……。  男は、その金色から目を逸らして、掠れた声で答えた。 「……ゴルラッド・ディ・クルーヴ」  この名をまた口にする日など、来るはずがないと思っていた。  たとえリンデルに問われたとしても、生涯伝えるつもりはなかった。  なのに、なぜか、今、口から零れてしまった。 「クルーヴって言うんだ?」  呼ばれて、男が表情を嶮しくする。 「……やめろ」  苦し気な男の様子に、リンデルは優しく尋ねた。 「どうして? 俺はカースの本当の名前、教えてもらえて嬉しいよ」 「もう捨てた過去だ……」 「……そっか」  リンデルがそれきり黙った事に、男は内心安堵しつつ作業に戻る。  昔から、こいつはなんでも聞いてくるやつではあったが、こちらが嫌がればそれ以上踏み込むことはなかった。  どうやらそんなところも、変わらずにいてくれたらしい。  心の奥が安心感で温かくなるのを感じながら、男は器にシチューを注ぐ。  間もなく、二人分の食事が食卓に並べられ、男も青年の向かいに腰を下ろした。 「じゃあ、新しい名前は俺がつけてもいい?」  顔を上げれば、温かい金色の瞳がまっすぐに男を見つめている。  目の前でもうもうと湯気をあげている料理よりも、なお温かな色をした瞳。  男はゆっくり頷いた。 「んー……、シチューが美味しいから、シチューとか?」 「おい……」  森色の瞳が半分隠れる。半眼を向けられてリンデルは悪戯っぽく笑った。 「カースはさ、今の名前が好き?」 「……いや……。そんな、ことは……」  ほんの少しの動揺を滲ませた男の言葉はそこで途切れる。  カースというのは、あの男が付けた名だった。  名を捨てた俺を、あいつが勝手にそう呼んだ。  お前にはお似合いだと、そう言って、クックッと喉の奥で笑っていた。  茶色がかった黒髪を、手入れのされていないボサボサの頭を揺らして。  ここではないどこかを見ながら黙ってしまった男を、青年は見つめる。  なんとなく、分かってはいた。  この家には、ほんの少しだけれど、あの獣と煙の臭いが残っていたから。  でも尋ねたことは無かった。  俺と離れてから、今まで、誰と過ごしていたのか。とは。  今、彼が一人なら、それでいい。  ずっと、そう思おうとしていた。  それでも、こんな風に時折心を奪われている様を見せられると、どうしようもなく暗い何かが心に滲んでしまう。  ……この人の前でだけは、あの頃のままの、まっさらな自分でいたいのに……。 「リンデル、冷めるぞ」  声をかけられて、リンデルはハッとする。  手の中の木の器から、少し冷めてきたシチューを掬って口に入れる。  あの頃と同じ。  あの頃と同じ味がするはずなのに。  今の自分にはどこか苦く思えた。 「お前が……呼んでくれるなら、なんだっていいよ」  男が、そっと労わるように言う。  リンデルが黙っているのを、名前に悩んでいるからだと思ったのだろう。  リンデルは、ほんの少し迷った後、心を決める。  今の名をつけたのが誰かは、もう考えないことにしよう。  カースが今の名を捨てたくないと思うなら、やはりここは、彼の気持ちを優先したい。 「……じゃあ、カーシュっていうのは、どうかな?」 「カーシュ……」  男が、確かめるように繰り返す。 「これなら、俺がうっかり呼び間違えても誤魔化せるしさ」  リンデルが悪戯っぽく笑うと、男も「そうだな」と口元を緩めた。 「それに、全部変えなくても、俺が外で呼ぶときだけでいいよ」 「分かった。そうしよう」  穏やかに目を細める男を、リンデルはどこかホッとしながら見た。  自分の中の醜い部分を、今日もこの人に気付かれずに済んだ。と。  しかし、ここで安心したのはまだ早過ぎたと、リンデルは後から気付くことになる。

ともだちにシェアしよう!