1 / 1

身分差

 某県某市・八尾井(やおい)町──。  特別、どうということもない町。  駅前にパチンコ屋が三軒と、潰れかけの本屋が一軒。  商店街はほとんどシャッターが閉まっていて、夕方になると居酒屋の提灯に灯りがともる。そんなどこにでもあるような、発展の波に乗り遅れた小さな町。  そこに暮らす一人の男──浪岡洋一(なみおかよういち)、26歳。  昼はパチンコ屋のホールを飛び回り、夜は居酒屋『良男(よしお)♂』の厨房で汗を流す。二足のわらじというやつだが、洋一にとっては選択の余地がない。  他界した親が残したのは愛情ではなく、多額の借金だったのだから。  完済は何年先になるか分からない。数えるのが嫌になって、最近は計算しないようにしている。  そんな洋一には、3つ下の恋人がいる。  桑島大吾(くわしまだいご)は二年ほど前、『良男♂』に客として訪れた。  洋一が彼の頭に、ビールをぶちまけてしまったことから始まった。  必死で謝り倒す洋一に、大吾はびしょ濡れになりながらも爽やかに笑った。その笑顔は、今でも脳裏に焼きついている。  それからというもの、彼は頻繁に店を訪れ、しつこく洋一を口説いてくるようになった。  まさか本気だなんて、最初は思ってもみなかった。  桑島財閥の御曹司であるエリートが、貧乏で冴えない年上男に恋をするなんて──そんな少女漫画みたいな話が、あってなるものかと。  だけど、あった。  本当にあったのだ。そんな話が。大吾は本気だった。  上等なスーツでめかしこみ、百本もの赤い薔薇の花束を抱えてやってきた日には、まるでおとぎ話のお姫様にでもされてしまったような気分だった。 ──洋一さんのことが好きだ! だから僕と、付き合ってください!  その純粋な思いに、ちょっと古びたキザったらしさに。折れてしまった。  OKを出した瞬間、薔薇の花束ごと抱きしめられた。店長も、他の店員も、そしてお客さんたちも、みんなが拍手で祝福してくれた。  夢みたいだった。  恋なんて諦めきっていたから。いい歳をして、恋人ができたのは初めてだった。  大吾と過ごすのは楽しかった。  仕事の都合でお互いあまり時間は取れなかったが、彼は暇を見つけては店に通い、洋一が上がるまで待っていてくれた。  とてもじゃないがボロアパートには呼べなかったし、借金のことも伏せていた。  デートはもっぱら大吾が暮らすマンションの一室で、映画を見たり、一緒に酒のツマミを作ったり、他愛ない話をしているだけで時間はあっという間だった。  多分きっと、あの頃が人生のピークだったのだろう。  だからこそ──今はただ、しんどいだけだ。  *  事の発端は、三日前に遡る。  パチンコ屋のシフトが早上がりになり、洋一は夕方の商店街をブラブラと歩いていた。スマホをいじりながら、夕飯はどうしようかと考えていたそのとき。  遠くから、スーツ姿の大吾が歩いてくる姿が見えた。  こんな時間に珍しい──洋一は軽く手をあげ、声をかけようとした。  しかし、言葉が出なかった。  大吾の隣に、見知らぬ女がいることに気がついたからだ。  だいぶ若そうな女だった。おそらく大吾と同じか、少し下かもしれない。  綺麗に結われた長い黒髪、上品なワンピース。女は大吾の隣で、楽しそうにお喋りをしながら笑っている。  大吾もまた、優しげな笑みを浮かべて時おり頷いていた。  時が止まったかのようだった。  早くここを去らなくては──本能がそう告げている。けれど洋一は、そこから一歩も動けなくなっていた。  そして次の瞬間、大吾と目が合った。  彼はハッと息を呑み、それから申し訳なさそうに目を伏せた。  二人の男女が、何事もなく洋一の横を通り過ぎていく。 (ああ、そういうことか)  どこか達観したような意識の中で、洋一は思いだしていた。  赤い花束。抱きしめる腕。びしょ濡れの笑顔。過ごした夜の数──。  ぜんぶぜんぶ、大切だった。  だけど、どこかでは分かっていたのかもしれない。  そんな夢のような幸せが、長く続くはずがないということ。どうやったって、自分たちは釣り合いが取れないということを。 (これでよかったんだ)  洋一は踵を返して、来た道を戻った。  泣けなかった。泣く気力もなかった。泣いたって何も変わらないことくらい、ちゃんと分かっていたから。  *  そして三日後の夜──『良男♂』に大吾が来た。  カウンター席に座って、水だけを頼んで、洋一のことを待っていた。  別れ話をしに来たのだろう。そんなことで時間を取らせるのは申し訳ない。  洋一は大吾の肩を軽く叩いて目配せすると、連れ立って店裏の路地に出た。  休憩時間は15分。それだけあれば十分だ。  春先の夜は冷えきっている。  店の換気口からは、手羽先の香りが漂っていた。 「あの子のことだろ?」  話は早いほうがいい。先に口を開いたのは洋一だった。 「……金田物産の令嬢だよ。お見合い相手なんだ。父が勝手に話を進めてしまって」 「へぇ……それって俗に言う政略結婚ってやつか? なんかドラマみたいだな」  茶化すような物言いに、大吾が眉間のシワを深くする。  洋一はヒョイと肩をすくめて苦笑した。 「怒んなって。悪かったよ。それにしても綺麗なお嬢さんじゃないか。お似合いだったぜ」  大吾は何かを言いかけて息を吸い込み、そのままうつむいてしまった。  長く降り積もる沈黙が、明確な答えのように思えた。  洋一は短く息を吐く。 「いいよ。そんな顔すんな」  そして言った。なんでもないことのように、軽やかに。 「別れよう」  と──。 「い、嫌だ!」  すると、意外な即答が返ってきた。  必死で追いすがるような瞳に、洋一は困り眉で首を傾げる。 「ガキみたいなこと言うなって。お前には未来があるんだよ。背負っていかなきゃならないものがデカすぎる。オレとお前じゃ、身分が違いすぎるんだ」 「なんだよ身分って……そんなこと、関係な」 「あるよ」  大吾の言葉を遮ると、洋一は息を整えてさらに続ける。 「オレはさ、大吾のこと好きだよ。今でも好きだ。だけどもう、これ以上はしんどいんだ。好きだからこそ、終わりにしたい。互いのためにも、さ」 「洋一さん……」  大吾が泣きそうな瞳を向けてきた。  何かを言いかけ、けれど言葉にならなくて、またゆっくりと目を伏せる。  大吾自身、どこかでは分かっていたのだろう。  彼が背負う荷物を半分にできるのは、洋一ではないということを。 「……わかった」  痛みを堪えるような低い声で、大吾が静かに言った。  手放すように、幕が下りるように。洋一はそっと目を閉じる。  よかった。これでよかったんだ。そう思おうとした、その時──。 「ちょっと待ったーーッ!!」  ギャリギャリギャリィィィッ!!  聞いたこともない音が路地裏に響いた。  二人が振り返ると、路地の入口から自転車が突進してきた。それはもうとんでもないスピードで。ギャリギャリという怪音と共に、自転車の車輪が火を噴いている。  乗っていたのは、おばさんだった。  年の頃は五十代半ば。風を受けて乱れるパーマ頭に、どこで買ったのか分からない柄シャツ。サンダル履きで、右手に何故か巨大なハリセンを持っている。 「腐破(ふはぁ)ーーッ!!」  スパーーンッ!!  謎の掛け声と共におばさんが急ブレーキをかけるのと、巨大なハリセンで二人の頭をしばくのは同時だった。 「ふぎゃッ!!」 「いってぇ!!」  あまりの衝撃に悲鳴をあげながら、二人の身体がふっ飛ばされた。幸い、ゴミ袋の山がクッションになり、衝撃を和らげてくれた。 「な、なんなんだあんたはっ!?」  洋一はしばかれた頭を押さえ、涙目でおばさんを睨みつけた。  すぐ隣では両手で頭を抱えた大吾が、「うぅ~」とベソをかきながらゴロゴロ転がっている。親父にもしばかれたことないのに……。(※お坊ちゃんなので) 「なんだもかんだもないよ! ったく、情けないったらありゃしねぇ!」  ドスの利いた、しかし妙に通る声だった。  おばさんは自転車から降り、仁王立ちになって二人を見下ろす。  なんなのだこのおばさんは。  湿度高めに別れ話をしていたはずの二人は、今や呆気にとられて思考停止状態に陥っている。 「話は聞かせてもらったけどね」  どこで聞いてたんだよ。てかなんで聞いてんだよ。そもそもあんたは誰なんだ──と思ったが、ヘタに口を挟めないほどの圧を感じて何も言えない。 「アンタら愛し合ってんだろ? それを簡単に別れるのなんのって……オラ呆れて物も言えねぇぞ!!」  その声質(cv.野●雅子)でそのセリフ回しはダメな気がする……。  しかし、ここまで言われては我慢ができない。 「なんであんたにそんなこと言われなくちゃならないんだ……?」 「よ、洋一さん」  大吾がとっさに肩を抱いて止めに入るが、洋一は釣り上げた瞳でおばさんを睨みつけた。 「簡単に言ってるわけじゃねぇよ! オレだって、オレだって本当は……っ」  別れたくなんかない──その一言が言えたなら、どんなにいいか。  けれど手放さなければ、大吾の未来を潰すことになる。  こんな借金まみれでうだつの上がらない男より、大財閥のご令嬢と一緒になる方が、ずっと幸せに決まっているのだ。 「洋一さん……?」  気遣わしげな大吾の声と視線から、目を逸らす。  するとおばさんが、心底呆れた様子で溜息を漏らした。 「本当に、どうしようもない男たちだよ」 「あんたに何が分かるってんだ……!」 「黙んな!!」 「ッ……!」  ぐっと息を飲んだ洋一に、おばさんは言い放った。 「本当に愛してるなら、駆け落ちでもなんでもしたらどうなんだい!!」 「!?」  その言葉に、大吾が密かに息を呑む。  洋一はすっかり頭に血が登った状態で、おばさんに食ってかかった。 「そんな無責任なことできるかよ!!」 「無責任?」  おばさんの目がスゥっと細められた。 「無責任なのはどっちだよ。好きだから終わりにしたい? それがお互いのため? はっ! 綺麗事ばっか言ってんじゃないよ。逃げてるだけだろうが!」  心臓を思いきり掴まれて、揺さぶられたような気分だった。  メッキが剥がされたように、逃げ場を失くした洋一は目を泳がせる。 「だって、だって仕方ないだろ……? オレは育ちも悪いし、クソ親のせいで借金だってある……」 「借金!?」  大吾の声がひっくり返る。 「洋一さん、借金って……! どうして言ってくれなかったんだ!!」 「言えるわけないだろ!? そんな恥ずかしいこと……オレにだって、プライドくらい……」 「しゃらくせぇ! 借金がなんだってんだ! 一人で抱えてないで、法テ◯スにでも行って相談しな!!」 「くっ……確かにそれはそう……!」  弾丸がごとき論破で、つい納得してしまった洋一。  次におばさんは、大吾に向かって「アンタはどうなんだい!」と牙を剥く。 「ぼ、僕!?」 「この子のために、なにもかも捨てる度胸はあるのかい!?」  大吾が大きく息を呑む音がした。  静かな静かな、春先の夜。店の方で、客がドッと笑う声がする。遠くの方から電車が走る音がして──やがて過ぎ去った。 「……あります」  大吾は、まっすぐ洋一を見た。  三日前のあの時みたいに、目を逸らされることはなかった。 「あなたのためなら……会社も、家も、何を捨てても構わない」 「大吾……?」  大吾が息を震わせながら優しく笑った。 「初めて会ったときのこと、覚えてるかい?」  目を見開き、呆然としていた洋一は、その静かな問いかけに小さく頷く。 「あのときは本当に驚いた。突然ビールが降ってくるんだもの。雨みたいに、ザァーってさ」 「わ、悪かったよ……」 「そう、その顔」 「え……?」 「小さな子供が、今にも泣き出しそうな顔」  無骨だけれど優しい手が、洋一の頬にそっと触れた。 「こんな可愛い顔で、ごめんなさいができる男の人がいるのかって。ビックリした」  あのときのことはよく覚えている。  洋一はまだ居酒屋に入って間もなかった。必死で仕事を覚えて、絶対にミスをしないようにと気を張って。そんな中での大失態だった。  きっとクビになるのだと思った。  客を怒らせ、店に損害をもたらし、こっぴどく絞られるのだと。何よりバカみたいなミスを犯した自分が情けなくて、子供みたいに泣きそうだった。  必死で謝って、謝って、謝って──そして、大吾が笑った。  ビールでびしょ濡れになりながら、こんなにも爽やかに笑える男がいるのかと。あのときにはもう、洋一の心はこの男に掴まれていたのかもしれない。 「あのときからずっと、僕はあなたの虜です。だから僕と、これからもずっと……付き合ってください」  洋一は鼻の先がツンと痛むのを感じた。  涙がどうしようもなく溢れて、止まらなくなってしまう。男のくせに、年上のくせに。それでも抑えられなかった。  ズビ、ズビ、と鼻をすすって、それでもどうにか笑顔を作る。 「……うん」  それだけ答えるのが、やっとだった。 「……言えたじゃないか」  おばさんは、そんな二人に小さく微笑むと背を向けた。 「待ってください!」  自転車のサドルに跨り、今にも去っていこうとする背中を、大吾が呼び止める。 「あなたのお名前は……?」  おばさんは振り返らなかった。夜の路地裏に、パーマ頭のシルエットだけが浮かび上がっている。 「名乗るほどのものじゃないさ。だけど……」  少し間があった。 「()ェニックス。腐ェニックス・蝶子とでも言っておこうか」  チリンチリーン。  ベルを鳴らして、自転車は夜の闇に消えていった。  *  それから一ヶ月後。  居酒屋『良男♂』に、見慣れない店員の顔が増えた。  元御曹司、現・居酒屋見習い。桑島大吾、23歳。  彼はエリートコースとは程遠い仕事を、しかし文句ひとつ言わずこなしている。  洋一の借金の返済計画は、然るべき場所に相談して綺麗に整理された。完済の日は、二人で返していけば思ったより遠い話じゃなさそうだ。  コツコツと働いて、いつかは二人だけのマイホームを建てるという夢もできた。  今は六畳一間のボロアパートで、寄り添いながら暮らしている。貧しいけれど、そんな生活も悪くない。  こうして八尾井町に暮らす、二人のBLカップルの平和は守られた。  そして今日もどこかで、腐ェニックス・蝶子(56)のハリセンは火を噴き続ける。  どこかで悲恋な結末を迎えそうになっている、男二人♂がいる限り――

ともだちにシェアしよう!