11 / 61

第三章:其の三:白花舞うや、濃紺の闇

 ***荻窪の日常***  書斎の奥にある源氏襖(げんじぶすま)の向こうには、荻窪の私室がある。私室といっても寝るだけの部屋だが、一応は個人的な空間でもあった。  特に何かを隠すようなものもなく、入ってくれても問題ないんだ、と説得を試みる。  書斎で着替えると言い張る高梨に、それだけは勘弁してくれと思う荻窪が、どれほど必死に説得をしたかは容易に想像がつくだろう。  高梨はそこに入ることを最初は頑なに拒んでいたが、荻窪の強固な勧めでついに折れてくれた。  すぅ、と小さな音を立てて源氏襖を開けて書斎へと姿を現した高梨は、しっかり半纏も羽織ってはいたものの、どこか所在なさ気な雰囲気だった。 「ほら、火鉢に当たりなさい。」  荻窪がそれを指差した。ぱちり、木炭が爆ぜる音がする。そろそろと火鉢に近寄って、手をかざす。じんわりと温かい熱が冷えた手を温めているのだろう、高梨はゆるゆると強張っていた身体を解いた。 「様子を見に来ただけでご迷惑をおかけするつもりじゃ……、」  尻すぼみになったその声は、いまにも、消えてしまいたいと思っているのだろうと、容易に想像がついた。 「様子を見に来てくれてありがたいと思っているよ。……だけどね、高梨くん、きみが風邪を引いてはどうしようもないだろう?」  荻窪は少し困ったように、苦笑した。  ぱちりと火鉢の木炭が爆ぜる。火鉢に手をかざす高梨はこぢんまりと正座しており、寒さで青白かった頬がほんのりと橙色に染まった。  なにもわざわざこんな雪の日に、家まで訪ねてこなくても良かっただろうに。と思いつつも、高梨の家は荻窪家と徒歩圏内だ。  その気になればすぐに寄ることができるのだろう。  冷たく硬い風が、書斎の出窓をがたがたと揺らす。  ばちばちと当たる雪が窓を叩き、このまま降り積もれば、明朝にはかなりの積雪になることは明白だった。  荻窪はふと高梨を振り返る。  彼が着ていた外套(がいとう)も背広も濡れている。かといってこの着物で帰すわけにも行かないだろう。  さて、どうしようか。  荻窪は手の中で万年筆を転がした。  ***荻窪の怪談*** 「あなたには、分かりますまい。」  ひゅお、と、吹き荒(すさ)ぶ風の中、なにゆえか細い女の声が己の耳に届くのかまるで分からずに、男はゆらりと手を伸ばした。  あのまま、あのまま女をひとり吹雪の中行かせれば、愛しかった女の二の舞になることは明白だ。なぜか、あの女をほうっておくことはできなかったのだ。  薄く引かれた微笑がどこか、張り付いていたように見えたからかもしれない。否、己を見つめていたその瞳に、暗く影を落としていたからかもしれない。  それよりも。  過去、男が愛していた女と、面影が重なっていたのかもしれない。 「朽ちる意味を知らないあなたには……分かりますまい。それならいっそわたくしは……っ。」  女の薄青い頬に一縷の涙が伝い落ちていった。いや、この吹雪の中でとうに十尺(約四メートル)は隔てているであろう女の頬に流れる涙など、見えようはずもないのに。なぜか女の光景が目に浮かぶのだ。目で見ているというよりも、脳裏に結ばれると表現したほうがいいかも知れぬ。 「わたくしは朽ちたくはないのです、このまま、朽ちたくはないのです……。」  一歩、また一歩。伸ばした男の手から遠ざかるように、女は後ろへと退いた。 「あの花さえあれば……あなたさえ殺せていれば……わたくしはこのまま朽ちることもなかったのに……!」  ひゅ、と。まるで風が女の姿を攫ったかのように見えた。ちらりちらりと涙が舞う。花のように涙が舞った。女が流していたあの、最後の涙が風に舞い。  紅の着物が残像のように、幻のようにゆらりと風の奥でまたたいて、そのまま不意に消え失せた。その瞬間にぴたりとあれほど荒れ狂っていた風も止む。  あとに残されたのは、ぼろぼろの屋敷と。  呆然と空虚に手を差し伸ばしていた、ひとりの男──。  朽ちることを恐れていた女、あの女はなぜ、そんなに朽ちることを恐れていたのか、知る由もない。

ともだちにシェアしよう!