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第五章:其の三:水面に浮かぶや、赤尾びれ
***荻窪の日常***
「とりあえず……貰い手が見つかるまで、この子はみけと呼ぼうかね。」
みけと名付けられた黒猫は、ちびの夕飯の残りを平らげて満足したのか、荻窪が座っている座布団の横で丸くなって寝ていた。
ちびを膝に乗せていた高梨はその名付けのセンスに思わず目を剥いてしまう。
「前から思ってたんですけど……、先生は名付けの親にはなれませんね。」
くすり、柔らかく笑った高梨が肩を揺らした。
続けて、僕にはどうしてその黒猫がみけなのか分かりませんよ、と言葉を添える。
「金色の瞳、黒い毛、一部白い毛があるだろう? どう見たって、三毛じゃないか。」
指折り数えながら荻窪が不思議そうな顔をした。
高梨がその言葉にきょとんとする。そして、ちびが驚いてしまうほどに笑い出した。
「だからですよ、先生。そこがすでに、独特すぎます。」
ははは、と笑い声を上げる高梨の、目尻には涙がひと雫光る。
笑いすぎると涙が出る、とは、嘘ではなかったのだな、と荻窪は述懐(じゅっかい)した。
その声に驚いたかのように、金魚鉢がぴしゃりと音を立てる。金魚が跳ねて、飛沫を飛ばした。
***荻窪の怪談***
しとしとと降っていた小雨が、だんだんと強くなる。それに伴って視界も悪くなり、最後には目の前に立っている女の姿さえ虚ろになった。
ぼやりと赤の着物が揺れて、するりと白い手が伸ばされる。若者はそれを叩き落とすかのように振り払い、「俺に触るな」とにらみ付けた。
女は叩き落された手の甲をもう一方の手で押さえると、先ほどまで穏やかだったその目つきがみるみるうちに吊り上がる。
恐ろしい、そのひと言で表現しうるその顔は、ぎらりと若者を一瞥したと思えばひらりと身を翻した。
ざぶり。
それほど深くはない、そう思っていた川が白い飛沫を上げた。女の赤い着物が目の前を横切ったかと思えば、女は橋から川へと身を投げていたのだ。
「なんて馬鹿なことを!」
若者は慌てて橋の手摺から下を覗き込むと、いつの間に雨脚は弱くなっていたのだろう、水面がよく見えた。水面下に、ゆらり。女の赤い着物が揺れた気がした。女の姿は、沈んでしまったのだろうか果たして見ることはできず。
橋の欄干に両手を付いて川の中を覗き込む。ゆらりと舞う赤は先ほどの女が身に着けていた着物かと思って、若者は目を凝らした。しかし、それは女ではなく。女の着ていた着物でもなく。一匹の金魚だった。よほど長く生きていたのだろう、かなり大きめだ。
和金と呼ばれるその種は、一番フナに近く野生でも生き永らえる。その和金がどうして、こんなところに……。
若者はじ、と考え込んだ。そうこうしている合間にも、雨脚はどんどん弱くなる。次第に、ぽつぽつと降っていた雨はぽつりぽつりと変わり、そのうちに。
雨は止んだ。辺りはただ、先ほどまで雨が降っていたのだなと思わせる水煙と。暗雲と立ち込めている雨雲が、どこか遠くへと風に導かれていくさまだけが残っていた。若者は欄干に手をついたまま、それを見上げて見送った。
ぴしょん、と水の撥ねる音がして若者は慌てたように川へと目を向けると、和金が目の前に飛び上がってきていた。鮮やかな赤色と白色の体色が目に焼きつく。それはまぶたにくっきりと焼き付いて、離れなかった。
それはほんの一瞬だけ、あの和金と目が合ってしまったからだろうか。いや、魚と目が合う──なんてことはたぶんあり得ないことなのかも知れないが……。それでも若者は、あの魚は自分のことを見ていた、と言い切れると思うのだ。
「しかし……あの魚、どこかで見たことがあるかも知れぬ。」
見たことがない、とは言い切れない。若者が商いで出入りするところにはお侍さんもいるのだ。そこのどこかで、金魚を見せてもらったことがあったように記憶している。そこにいた金魚ではかなったか。
あの見事としか言いようがない白と赤の更紗──。よく人に馴れていて人影を見るとやってくる。そのときに揺れていた尾びれがとても綺麗だったのだ。印象に残る尾びれだった。
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